素浪人シリーズいろいろ(三) 「素浪人シリーズ」の登場人物や背景についての疑問。
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素浪人おせーて!
「素浪人シリーズ」のDVD・ビデオ復刻 同サントラCD ソノシート TV版「柳生武芸帳」DVD化を「たのみこむ」(byタンバリンマン様)
●「素浪人月影兵庫(’07年3月〜12月 於:東映ch)」の次回放送時に1話でも多くの欠番を!と願い、「兵庫よ、すべてを見たかった!




Q1: 兵庫様のお城や大吉様の道場、どのあたりなんでしょうねぇ・・・
(トミーさま 2003年1月22日)

老中松平信明は、三河(愛知県)吉田藩主であったとされるため、その跡取りとなった??兵庫は、やはり吉田藩主となったわけですよね。(まぁ、当然江戸屋敷もあったでしょうが)南條範夫の「月影兵庫」では、桔梗という女性と所帯を持ち、十剣無統流の道場を開くとなっていますが・・・
(その後桔梗は死に、また旅へと出るわけです)(ZAPOさま 2003年1月22日)

大吉の道場は江戸にありました(第31話 『狂った奴ほど強かった』より)が、江戸のどこまでかは分かりません。
しかし、本放送が始まれば何かが分かるかもしれません。(相談屋さま 2003年1月23日)

第66話「想い出だけが泣いていた」でも、江戸で町道場を開いたと言っていますが、場所は特定されていません。


Q2: 月影は十剣無統流・上段霞の構えが得手でしたが、花山の流派って何だっけ?(ZAPOさま 2002年12月?日)

確か、「小野派一刀流」だったとおもいます。もともと大吉は江戸で町道場を開いていた剣客であるとともに綾という夫人とのあいだに大作という7歳になる息子をもうけた家庭人でもあったんです。
もうひとつ、花山大吉の流派については、焼津の半次が大吉を用心棒に売り込む台詞に、「放り投げた割り箸を、縦に3つにでも切り割ることが出来る小野派一刀流の使い手」というのがあったような気がします。
(三四郎さま 2002年12月23日)

上のお話(第93話腕白小僧が知っていた」)では、残念ながら、大吉の流派までは出てきてないようだ。
第31話 『狂った奴ほど強かった』では、大吉の先輩の道場に「一刀流」とあるので、一刀流には間違いないようだが・・。
  

Q3: 兵庫・大吉、半次のネコ嫌い、蜘蛛嫌い、おから好きは、ストーリーの中にからんでくる出来事があったのでしょうか?
                                                           (タンバリンマンさま2002年5月21日)

おからは雪花菜(きらず)とも呼ばれています。「きらず」とは包丁を入れずに食べられるからだそうです。
「切らずが好き」、「本当は人を切りたくない」、と言うことではないでしょうか?こじつけのようですが、妙に気になります。
(てつやさま 2002年5月23日)

そういえば、大阪弁(関西弁)でも、おからのこと、「きらぁず」って言います。桂米朝の「鹿政談」に由来が詳しく語られてますヨ。
奈良のお話で、人のよいトウフ屋が誤って鹿を殺してしまうが、奉行がお裁きで見事に助けてあげ、しかも最後のオチが「きらぁず」でしめくくる! 
結束さん(素浪人シリーズの脚本家)は元は東京の人ですが、京都に長かったので「きらぁず」のこと、十分ご存じのはず?
としぞう様の「結束信二」HP(現在閉鎖中)の中に”撮影よもやま話”があるんですが、そこで若い頃、酒の肴におから(きらぁず)を食べてたような記憶が・・・(さだかでないんですが)(まもるさま 2002年5月23日)

人をあまり切らない「切らず」との解釈に加え、「雪・花・○」とは月影や花山の紋付ともとれませんか。
(ZAPOさま 2002年5月23日

東映チャンネルでオープニング字幕で企画に田口直也さんのお名前を見かけますが、この方が大変なクモ嫌いで、これを焼津の半次に使用された話は東映内部でも今も語りぐさになっております。一方、ネコ嫌いというのは思いつきだったそうです。また花山大吉のおから好きも、脚本家、監督、プロディーサーらが次の企画やアイディアをひねり出すのに一杯やっかと大きな有名な店は避けて場末や無名の店に行っては変わった一品や突き出しを楽しんでいたところ店の主人が「今日は何もないので、おからでも・・・」と出されたところ「面白いやないか」となったそうです。その店の名ははっきり覚えてないのですが、花山大吉の命名となったお店が京都市北区の北大路新大宮西に行ったところのほんまに通り過ぎそうな小さな路地の角の小さなお店「大吉」がありました。花山大吉のテレビ放映中は大変お客も多かったようですが、現在は普通の家になりました。こっそり言いますと、ツケがたまったときそこのお店の娘さんが「俺は用心棒」の「祇園小路の刺客」で東三千と神社で言葉を交わす役で出演されています。「あんたも好きやなぁ」とか何とか言うてますが、ど素人さんです。ご主人も板前の役で出ていたと言いましたが、兵庫・大吉や用心棒シリーズかに何回か出ているようです。詳細は分かっておりません。
(京さま 2003年11月19日)



Q4: 一刀流の武士は、脇差しは差さないのでしょうか?
よく半次が悪人の侍に向かって切る啖呵に、『テメエラのような二本差しは、おれのような一本差しから見ても、断じて許しちゃおけない。・・・』的なものがありますが、大吉は一本しか差していないし(もっとも長さ的には二本分ですが)江戸で家に帰ってきたシーンでも一本しか持ってませんでした。(相談屋さま 2003年12月26日)


間違えたらごめんなさい。確か、武士でも浪人は一本差しで仕官している方は、小刀の脇差付の二本差しではなかったでしょうか。(自信ありません)(ZAPOさま 2002年12月27日)

江戸時代の『武家諸法度』では、正規の侍は刀を二本差すことと定められました。ですから一本差しの侍というのは有り得ない。
しかし浪人は正規の武士ではない人別外の者ですから、『武家諸法度』にしばられることはない。したがって、兵庫や大吉が刀を一本しか差していない理由は、こんなところにあるのではないでしょうか。刀は重いということもあったでしょうし。もちろん、浪人でも二本差していた者はいたはずです。
ちなみに戦国時代には、、主に兵法者(剣術使い)の間ででしたけども、刀を三本差すのが流行っていた時期がありました。(三四郎さま 2009年4月5日)

「ラジオ深夜便」では目黒さんが、このちゃんはいろんな工夫をしていて、素浪人シリーズでは、大刀一本という場もあったが、そのほうが長い刀が強調できる工夫だったんじゃないかとも語られてますねー。(2018年4月1日)


Q5: 素浪人シリーズの劇中曲について(どなたでしたっけ?名乗り出て!)

月影時の半次の曲は、仕舞いには天国と地獄に、よくなったものです。何曲かあったと思いましたが、すべてコミカルな曲調でしたよ。「ミ↑ド↑シラシド↑シ休、ミ↑ド↑シラシド↑シ休、ミ↑ミ↑シシド↑ド↑ララシラソファ♯・・・」と続くものです。いや、また勘違いかも・・・(ZAPOさま 2002年9月20日)

>月影時の半次の曲は、仕舞いには天国と地獄に、よくなったものです。
月影はよく覚えてないんだけど、これは「花山」でも使ってました。
「ミ↑ド↑シラシド↑シ休、ミ↑ド↑シラシド↑シ休、ミ↑ミ↑シシド↑ド↑ララシラソファ♯・・・」というのは、大地も出所は知らないんですが何か無声映画の剣劇シーンの定番の曲です。「剣劇の響き(仮題)」とでもしておきましょう。(この曲自体の本当に名前とか出所をしりたいなあ)
「花山」では「剣劇の響き」→「天国と地獄」→「風来坊笠」→「剣劇の響き」というループになっていて流れ方が非常に心地よく、かなり完成度の高い劇伴でした。「花山」のEDテーマで本来の「半次のテーマ」「風来坊笠」が使われていたわけだから「月影」で流れていたとしたらそこはどうだったのか興味深いです。実際「月影」と「花山」では共有している劇伴はいくつかあったようですし。(大地丙太郎監督 2002年9月22日)

無声映画の剣劇シーンの曲は何度か聞いています。確かに、そう言われればそうかもしれません。
チャンバラシーンでは他に「ミ休ラ休シ休ド↑休シシシシ休休、ド↑ド↑シ休ド↑ド↑シ休、ラララララ休休・・・」(もしかしたら一緒かな?)等がありましたね。出所はちょっと分かりませんねぇ。
月影時の半次のもっとコミカルな曲は、「ド休ソソ休ソ↓、ド休ソソ休ソ↓・・・」で始まり「・・・ミミミ〜ソ〜、ラララ〜ド↑〜〜、ソラド↑レ↑〜ミ↑ソ↑ミ↑、ラ↑〜ソ↑ミ↑レ↑ド↑ラソド↑〜〜」というものでこれが花山で言う風来坊笠に似ております。(ZAPOさま 2002年9月23日)

>殺陣の曲「剣劇の響き」
題名は「千鳥の合方(あいかた)」です。歌舞伎の下座音楽の一つで、海の場面に演奏されます。(名も無き男さま 2003年3月3日)


Q6: 半次は兵庫と別れて何日目に大吉に出会った?(花山小吉さま自問自答 2003年2月19日)

     第一話で半次は、「旦那と別れてかれこれ4〜5日になるがよ、何だかこう、体の半分がどっかへいっちまったみてえだ・・」
     としみじみ独り言をいう。


Q7: 兵庫や大吉、半次はいつ頃の人?

まずは、正統派、お話の中からの推理。

第17話「美人だらけの町だった」で、大吉半次の活躍していた時代がなんとなく見当がつきました。
ニセ絵描き(安藤国重)が安藤広重(1797〜1858)と兄弟弟子とか言っていたので、同じくらいの年齢と仮定すると1850年ぐらいでしょうか? 第53話『ドカンと一発 春が来た』では、戌年の正月を迎えているので、(1850年が戌年)1849年(嘉永2年)と推理しましたがどうでしょうか?(相談屋さま 2003年4月20日)

第14話「風の岬に鬼がいた」で太田博之さんが、「日本近海には外国船がうろうろ・・もう刀の時代ではない」と話していたことからも、黒船来襲(1853年)ちょっと前かと思われます。(じゅうよっつ)

実際戌年を軸に考えれば:二周り前の1826年(文政9年)だったら五十三次などまだ出ていないので論外。一周り前の1838年(天保9年)でも「内憂」はあっても「外圧」が重大な心配事にまだあまり挙がっていなかったのでは。逆に一周り後の1862年(文久2年)だと桜田門外の変の翌々年でこれではどうも遅過ぎ。(MICKさま 2003年4月20日)

しかし、上記1849年説は第50話「シゴいた相手が悪かった」で、少々怪しくなってくる

このお話では、(1)『お滝(若い娘)のひい爺さんは由井正雪の配下の服部松蔵という侍』という事実と、
(2)『重吉(6歳くらいの子)の父っつあんの祖父は勘定方を任されていた』という事実があり、由井正雪の乱は1651年(慶安4年)、1849年ー1651年=約200年のギャップを、(1)と(2)の4世代では説明しにくい。(相談屋さま 2003年8月8日を、要約させて頂きました)

おそらくは、「由井正雪云々の件は・・・たぶん、脚本家の方はそんな厳密には考証してないと思いますよ(笑) お話自体がフィクションなんだから。」(by 右京大作さま 2003年8月8日)というのが、一番正しい説であろうけど、ここはもう一つ、更に突っ込んで、

1849年説を1837年にしたらどうですか。その差が186年になります。1833年には安藤広重の「東海道53次」き完成しています。
1803年、04年にはアメリカ船、ロシア船が長崎にきています。1811年には異国船打ち払い令がでているから、「内憂外患」の「外患」はそろそろありました。1837年モリソン号事件、1838年は高野長英の「夢物語」とか。
女は70歳でこどもを産むのは不可でも、男は70歳でも75歳でもこどもをつくれます。お滝と重吉の父っつあんの家系は長生きで精力家の男の家系だとかんがえればなんとか186年はちぢまるのではないでしょうか。(中村半次郎さま 2003年8月9日)

ということで、大吉・半次の活躍した時代は1837年とすると、以前の3つのお話についても、第50話のお話についても、なんとか(といってもかなり無理があるが)説明が付くのではないかということで、1837年説がいまのところ一番可能性がありそうです。

まだ「素浪人 花山大吉」が東映chで再放送されてなかった頃、「江戸時代中、一番変化を遂げていますし、時代が一番読めますので」ということで、以下のような興味深い時代考察もあります。

女性の鬢とたぼに注目しました。
それが、どの程度というのも私には、やはり素人ですので判断が難しいのですが、少なくとも江戸初期ではないようです。
あの女性の鬢(びん)はかなり膨らみがあり張っていて、逆に髱(たぼ)が小ぢんまりしているでしょう。
ということは、これも大雑把ですが、江戸中期から後期(初期は鬢が小さく髱が発達していて、時代が進むに連れ、髱が退化し鬢が豪華に張って広がってくるのです)ではないかと想像します。ZAPOさまのサイトからの引用です。2002年11月25日)

ということで、一応、1837年説が有力だったわけですが、お話の小道具から活躍年代を引き出す、というかなり強力な説が出てきました。

第21話「自分の首を絞めていた」の最後の立ち回りのところでも暦が貼ってあるのが見えます。上部の文字は読めませんが、その下には「大 二 三 五 七 九 十二 小 正 四 六 八 十 十一」と見えます。旧暦(太陰暦)では月に大小があって大の月は30日、小の月は29日となっています(この十二ヶ月では全然一年の長さに足りないのでたまに閏月を設けて調整)。大小の組み合わせは毎年異なっており逆にこの組み合わせからこの暦がいつのものか判断できます。天保から慶応年間でこの組み合わせになるのを探してみましたら、文久元年ひとつしかありませんでした。従いまして、結論として第21話は1861年の話であることが確定いたしました。(都さま 2003年9月20日)

また、兵庫については、次のような、時代を現すエピソードがあったそうです。

「月影」の「忍びの者が待っていた」の中で、河野秋武が扮する医師のセリフに、「すでに紀州の花岡青洲という医師が『通仙散』という薬を発明して・・・。」というのがあります。青洲が「通仙散」(今でいう麻酔薬)を用いて手術に成功したのは1805年のこと。(キンちゃんさま 2003年9月21日)

しかし、次のエピソードでは、その年代より少なくとも50年ほど前と言うことに。

「男の骨は泣いていた」で、姫ゆり子さんが演じた隠し目付けは「大岡忠相さまの命令」と言っていました。
大岡忠相(1677年〜1752年)だと、(大吉の生きた時代が)だいたい1800年代半ばぐらいで落ち着いた結論が合わなくなります。
この大岡さんは有名な忠相さんの子孫の忠相さんということでいいですかね?(中村半次郎さま 2007年8月3日)

と、うまい(!)機転で解釈することも出来ます。
しかし、そうそう、兵庫の場合は原作があるわけで、それによる考察では、

兵庫は天草の乱を鎮圧し、由比正雪の慶安事件を未然に防いだ、“知恵伊豆"と謳われた寛永の名宰相松平伊豆守信綱七代の孫で、参州吉田七万石の城主松平信明の甥。
南條範夫の原作である兵庫の第一作『上段霞切り』には、信明は「文化三年以来老中上座として、将軍家斉の信任すこぶる厚い」、さらには「この文化十三年、すでに齢五十の坂を越え〜」と記され、そして翌る文化十四年に信明は死去(もっとも、原作では信明の死は描かれてなかったと記憶するが)。
近衛の『素浪人月影兵庫』は、この信明の訃報を知らされた兵庫が、半次と別れて江戸へ帰る話が最終回なので、1816年から17年にかけて、実質一年の活躍をかなり水増しして描いたもの。(三四郎さま 2007年8月3日)

ということで、原作者の意向から判断すると、1816年〜1817年に旅をしたことになるのですねー。なるほどお。


Q8: 大吉の過去は?

第31話「狂った奴ほど強かった」には、大吉の剣の先輩塚田幻舟が登場。
幻舟と大吉は25〜6年前、江戸の道場での先輩・後輩で、「俺は紅顔の美少年だった」と当時を振り返る大吉に、「大吉は稽古が終わると道場裏の飲み屋で毎日どぶろくばかり飲んでいたではないか」「先輩、それはひどい。あの店へ毎晩俺を連れて行ったのは、先輩じゃなかったのかい」という会話がある。

第66話「想い出だけが泣いていた」は、息子を亡くして身を持ち崩した有名な元道場主に、大吉が自分の過去を語る。
大吉は12年前、江戸に町道場を開いたころ、綾という女性と祝言を上げ、大作という息子にも恵まれた。綾は働き者で、大作は親に似て剣術好き。が、5年前、大作7歳の年、流行病で妻子ともに亡くし、道場で暮らすのがつらくなって、旅に出た。


Q9: 半次の過去&プロフィールは?

第54話「初恋の味は苦かった」で、大吉・半次は、半次の故郷焼津のそばまでやってくる。
「あー俺の生まれ故郷の焼津は、もうここからいくらもねえんだわ」「おお、焼津はもう近くかよ」「ああ、焼津はもう、1里もねえんだ」
そんなにすぐ側まで来ているのに、焼津には帰れない事情を旦那に話し出す。
「7年前に町のためにならねえ役人を、5人まとめて面倒見ちまったのよ」「焼津にはまたなんて、弱い役人がいたもんだな。で、その5人はみんな死んじまったのか」「そこまではいかねえ」「じゃあ、死んだのは何人いるんだよ」「いやあ、死んだ奴はいなかったよ」「だろうな」「おいおい、だろうな、とはなんでい。5人はみんな深手を負ったんだぞ」「そうかいそうかい」「旦那は知るめえがな、おらな、親分無しの子分無し、焼津の港じゃ一匹狼として誰一人しらねえものはなかったんだぞ」「ウソだと思うなら、聞いてみやがれ」「聞くって、誰に聞くんだよ」
しかし、通りがかった金谷出身の同業にそのことを尋ねても、一向に覚えている気配はない。

そしてその後、半次は、おきんちゃんという初恋の女性を対面する。「船大工の留さんのうちから一間離れた辰五郎長屋にすんでた」半次を、「いつも青っ洟たらして寝小便ばかりたれるんで尻ぶったたかれて泣いていた、辰五郎長屋の半次さんかい?」と問いただす。
おきんちゃんは、「あんたみたいな寝小便たれに誰が初恋なんかするもんかね」と一撃。

以上のように、半次が焼津を出なければならなかった7年前の事件も、初恋の相手も、いずれも半次の先走りのようで、危しい。

第69話「天国のおふくろが笑っていた」の冒頭画面には、「半次の誕生日」と出る。この回が放送されたのは’70年4月25日なので、もしかしたら、4月25日が誕生日かも。また、母親とは5つの時に死に別れたと、おふくろの思い出ばなしをする。

第71話「女房にフラれうバカもいた」では、用心棒代わりに釣られているとも気づかず、夫婦話を持ちかけられた半次が、大吉に意気揚々櫨と、結婚することを伝えたとき、大吉が「30何年もふられ続けてとうとうここにきたんじゃねえのか」と言っていることから、この当時、半次は(30+α)歳らしい。

第96話「渡し場は今日も 雨だった」では、ぼったくり居酒屋に騙して連れてこられた半次が、酌女に、「おれの親父は鯨取りの名人と言われた荒くれ男だったがよ,おれには優しかったなぁ」と話している。(相談屋さま 2004年1月22日)


Q10: 「月影兵庫」の名前の由来は?(MICKさま自問自答)

剣術に関係したウェブサイトで気に入っちゃったのがありまして、そこに柳生新陰流の説明と系統図もあって:
あたかも水が月の影を映すように、わが心に敵の心即ち影を映して勝つ・・・(極意なんだろね、コレ)柳生兵庫助利厳(やぎゅうひょうごのすけとしよし)1579〜1650 (イカン、ワシらの兵庫より、トゥー・センチュリーズも前の人みたいだ)死を前にした石舟斎から一国一人の印可と大太刀(刃長四尺七寸八分)出雲永則銘を授かった・・・(長すぎない?コレ!)間もなく争論から人を斬り、浪人してしまった・・・
キー・ワード拾えば「月」・「影」・「兵」・「庫」:それも長い刀の・・・浪人の・・・
南条範夫先生(原作者):大学で教鞭をとったり、スパイ小説も書いてた方なのだから、それは相当、頭の中にフォルダーやファイルは一杯あった筈だ、何か、こういった事柄の断片が統合されて「月影兵庫」を生み出す役に立ったのではと− 思いたい!!だって、そう考えるとロマンがあるじゃない、チョット。


Q11: お咲のプロフィール

実家は長(永)倉。第98話「恋する女は強かった」で、遠縁の叔父が、訪ねたお咲を、「長(永)倉のお咲がきたぞ」と妻を呼んだ。
おじいちゃんに、お嫁に行く前に世間を見てこいと言われて、旅を始めた。


Q12: 大吉の着物の裾(普段は袴に隠れている)には、「山」の字がある?
何処かの旅篭か何かで着物を掛けた時?にチラッと見えて、子供ながらに「あぁっ!着物に名前が書いてある」なんて思った記憶があるので・・・(貴日さま 2004年5月27日)



Q13: 月影兵庫の主題歌のシーンについて
バック見える雪にそまった大きな山はどこの山でしょうか?
最後に雨降りのシーンで蓑を着て宿場街を歩いてる所は、オープニング用の撮影でしょうか?(yukimente2000さま 2007年3月9日)

主題歌のバックで最初に出てくる山、第1話の冒頭に出てくる山など、煙の出ている山が全て本物の浅間山です。
「主題歌」紹介のバックで次に出てくる川と山が上高地の梓川と焼岳です。次に出てくる山は穂高岳、これらは河童橋にたつと両側に見える風景です。
ちなみに第2話の冒頭も上高地の大正池で、半次の吹き替えが歩いています。(鯉太郎さま 2007年3月16日)
(バックの風景については、素浪人ノート「素浪人ばなし 月影の巻 オープニング」もご参考下さいませ。)


Q14: 月影兵庫は、江戸のどこにすんでいた?

第13話「野に幸せが咲いていた」で、20年も昔に近所にすんでいた友達と出会うが、そのとき、その友人の表札を見て、友人の娘に、「父上は昔、江戸の平河町にお住まいではなかったか?」と聞いているので、兵庫もその時分、平河町に住んでいたと考えられる。
      皇居の西(江戸時代、将軍を支えた重臣たちの屋敷町だった永田町・ 平河町界隈)(MSさま 2007年9月7日)


Q15: 月影兵庫は、江戸の道場でどれくらいの腕前だった?

第2シリーズ第43話「空前絶後の敵だった」(「見どころ」参照)で、兵庫は、百何人もの弟子のいる道場の、筆頭師範代であったと言っている。
まさに空前絶後の敵、化けネコと戦うに及んでの話。


Q16: 月影兵庫はどの位旅をしていた?半次とのつきあいは?

第74話 「お山の大将が二人いた」で、兵庫と半次とよく似た、浪人と旅ガラスのコンビに出会うが、4人でメシ屋に入って、そこで兵庫は、相手が2年くらい旅をしているのに対し「その倍くらいか」と言っているので、4年と思われる。
半次とは、旅をはじめてすぐに出会ったと言っているので、半次とのつきあいもこの時点で、4年ほどらしい。


Q17: 月影兵庫や花山大吉のロケ地は?

京都にお越しの際には、あの月影兵庫や花山大吉に逢えるような気がするロケ地場所においでください。細かい説明がうまく出来ませんが、土橋が結構多く写りますが、ほとんど京都府亀岡市から八木町〜園部町へ抜ける裏道です。茶店が写って池があるのも亀岡市内の山手のゴルフ場、よく目立つのは通称「中山池」、土橋は現在、全てコンクリートに変わりましたが亀岡市曽我部町重利、余部町内で風景も遠くの山の形は変わりませんが、バイパスや工場が建ち並び地道もアスファルトになり人家の屋根が茅葺きから瓦葺きになったため見に行く場合は補正してください。ただ、西国札所の「穴太寺」(あなおじと読む)はほとんど昔そのままのお寺でボロボロですが、そのままロケ地に使われております。また近くの走田神社も本当によく使用されており亀岡の曽我部町辺りはよーく歩かれてみると兵庫、大吉ファン、栗塚の新選組、用心棒ファンはジーンとくると思います。私も実際、当時そこでロケ中ですのでしばらく通行をお待ち下さいと言われたことがあります。中田雅喜様の話にありました表示や細い柱の移設は私も聞いたことがあるのですが、現在はされておりません。当時でも引っこ抜いた料金が数千円から数万円になって、写らない工夫をしろとの命令が上層部から出たのです。(京さま 2003年11月19日)

(素浪人シリーズとは関係ありませんが、引き続き、↓もロケに関する貴重なお話)
例の「あの池」(すみません、管理人のミスで”どの池”か記録しておらず・・・)では外来種のソウギョが以上繁殖して大切な水草やハスを食べ尽くして水抜きまでして清掃し現在様子を見ているそうです。関係者からは生態系を壊す安直なやり方にお寺へ抗議があったとのことです。花折峠は、花折トンネルが出来て、30年近く経ちましたが、比良山への登山客が時折、利用する程度で自然に返りつつあります。(廃道ではありませんが山道は、年々消滅に近くなっているようです)東映の古い時代劇を観ると途中越からこの花折峠の琵琶湖と京都の山が一望出来る風景をバックに移されていることがあります。
 鞍馬の方から奥へ花背峠も道が一部拡幅されダンプがよく通りますが、昭和47年〜48年当時は、花背峠からさらに北方の山々をロングショットでとらえ、「木枯らし紋次郎」のエンディングにも使用されたことがあります。紋次郎は、花脊の別所という集落でロケされていたことが多く、激闘シーンも花背スキー場跡でやっていました。その近くの大原三千院で有名な大原百井という山の上の集落では勝新太郎の座頭市が週に何回かロケしており、なんか面白かったですよ。勝さんは、百井集落の炭焼きのおじいさんに、「勝プロとしては電気、石油、ガスストーブは使用しないので火鉢用の炭をどんどん焼いてくれ」と頼んでおられました。その方は、今年、京都「鞍馬炭」の炭焼き名人として功労者表彰を受けられます。花山大吉は、花脊、百井、鞍馬もロケされた様子はありませんでした。(京さま 2003年11月20日)


今、月影兵庫を第2部を見ていますが、フルでロングに田畑が撮影されているところはほとんど亀岡市内ですね。
神社も走田(はせた)神社やその付近の豪農家、現在では撮影が不可能な穴太(あのう)寺、付近の土橋が写っています。
保津川の土手、堤防も多いですが、時々滋賀県の湖南アルプス付近の砂と松林付近、亀岡市内の中山池、あと琵琶湖や野洲川の堤防が多く写っていますが、さぞロケ地だけでの撮影は、部分部分の回ごとの台詞や衣装で俳優さんたちも撮影者側も大変だったろうと思います。
(京さま 2016年3月12日)  →京さまのロケ地のお話は、月影兵庫第103話「腕白小僧が泣いていた」にもあります



Q18: 兵庫、大吉、勘兵衛の酒の肴について
「兵庫」「大吉」「勘兵衛」の比較研究を試みました(まだ試論の段階なので学会に発表する気は今のところありません)。テーマは「平常心理下 の段階で任意に立ち寄りたる居酒屋にて注文する酒の肴の一考察」というものです。早い話が、剣豪であると同時に酒豪でもある三人は、居酒屋でどんな酒の肴 を注文するのか、ということです。
 大吉ー「おから」(これは今さら注釈をつけることもないでしょう)
 兵庫ー「一番安いやつ」
 勘兵衛ー「何かこう、あっさりしたもの」
 いずれも実際のエピソードから抜き出した台詞です。共通していえることは、三人とも「脇役的な食物」が好みのようです。あくまでも酒を引き立たせること を第一に考えているようです。兵庫は「親なし狐・・・」で干物をかじっていたので、海の幸が好物なのかもしれません。大吉は、おからそのものが好みなの か、酒とともに存在するおからが好きなのか、このへんが、今後の研究課題と申せましょう。(キンちゃんさま 2008年5月)



Q19: それぞれの旦那の刀について
私が最も気合を入れて見ていた「月影」第二シーズンでの鞘は、光沢のある黒色のものでしたが、よく見ると、等間隔に線条が刻まれていました。ライトの具合でときたま見えることがあったのです。あるいは、細い弦(つる)を巻いたものだったのかもしれません。実にスマートで、あの日本一の長剣にとてもよく映えていました。それを腰にグッと落としざしにした兵庫のカッコイイこと!
「大吉」、「勘兵衛」、ともに長い刀ですが、わずかずつ短くなっているようですね。兵庫の刀なんて柄の部分だけでも普通の1.5倍くらいありましたもんね。柄の先端が兵庫のアゴ先すれすれでしたよ。(キンちゃんさま)

太平の刀について、一時、兵庫の時のものをつかっていたお話もあります。(第13話「父ちゃんのみやげは千両箱」





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