思い出ばなし2 掲示板のお話、見逃したまま消えていった、、そんなことさせません!みなさまのお話で甦る、このちゃん像です。
でも、困る、極秘だから、という方はご一報くださいませ。

「思い出ばなし1」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。最初のタイトルで飛べます。あとの2つは、その1、2つ先にあリます。
噂の殺陣に目を丸くした! 月影兵庫のころのインタビューは、 月影兵庫のころのインタビューその2
不遇の剣士、近衛十四郎! CM親子共演 CM親子共演の裏の悲しいお話
鯉自慢 鯉騒動 近衛邸?
アフレコは苦手 しかし、剣さばきは随一! 刀の重さ=3kgだってだす! 
目黒さんが語るには(サンテレビ’95年)  クルミ疑惑 お気に入りの殺陣師
「素浪人」の相棒といえばこの人! このちゃんの素顔を聞いた半時 引き続き、東映太秦映画村・近衛レポ
またまた、東映太秦映画村・近衛レポ ワイドショーのこのちゃん 不器用な生き方
ある晩の写真 「おもいっきりテレビ」のこのちゃん25回忌 「おもいっきりテレビ」その2・刀
戦前の目黒家・東京 生年月日はいつ? 映画界復帰についての推測
でも、やっぱり先輩の前では緊張? 素浪人シリーズの終わりと芸能界引退の理由 引っ越しマニア
松方さんが語る思い出 「怪談 お岩の亡霊」の直助権兵衛 松竹時代に見抜かれていたコメディー資質
ご自身が語る人生 大好きな釣りの時も、さすがプロ! 芸名の由来
クールな品川さん 右太衛門さん親子とこのちゃん親子 愛弟子・阿波地大輔さんのお話
「いつみても波瀾万丈」での目黒さんのお話 目黒さんの著書の後書き「オヤジの弁」 松方さんインタビュー(「星にスイングすれば」より)
「松方弘樹いいたい放談」より 上原げんとさんと松方さんと五木ひろしさんと 「ぶらり途中下車の旅」で目黒さんのお話
親父は厳しかった 松方さん目黒さんの思い出ばなしなど1〜8
「思い出ばなし2」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
ちょっと話しにくいこと 厳しい! 釣り堀の名は「釣り天国」
殺陣のうまいのは 品川さんが語られた思い出 目黒さんとの初共演
目黒さん出演の「ごきげんよう」 迫真の演技は本当に痛かった! 川野知介さん&小指のツメのこと
「我が人生に乾杯!」での松方さんのお話 品川さんにとっての半次は 小西博之さんのお話
十兵衛役目黒さんの決意   大都時代の近衛邸と撮影所 「俺は用心棒」ゲスト出演の経緯
目黒さんの十兵衛衣装、「月影兵庫」最高視聴率、「ローニンサムライ」、松方さんの殺陣評 誰が一番殺陣が上手いと思われますか?の問いに
映画界復帰作品と松竹端役の頃 「浪漫工房」の松方さんインタビューで  沢田音楽学院発表会(’04)での品川さんレポ
二度の召集の意味 大都移籍直後、時代劇ポスターの中で紹介される 丹下左膳をやらせたい俳優
錦之助さんとの関係 寄付に大枚だされてびっくり 殺陣師・上野隆三さんのお話
京都映画祭・目黒さんと山内監督のトーク 京都映画祭レポ2 京都映画祭レポ3
一時保存資料 カラミ役に斬りかかる殺陣 大都映画の意義
柳生十兵衛の片目と殺陣について 「博徒対テキ屋」の楽屋おち このちゃん譲りの目黒さんの性格
にしすがも活動写真館レポ 品川さん最新インタビュー 金子吉延さんから伺ったお話
松方さんのコメント(歌謡番組ゲスト) 小野監督の切ない思い出ばなし(1) 小野監督の切ない思い出ばなし(2)
「俺は用心棒」第一話のエピソード 沢田音楽学院発表会(’05)での品川さんレポ 福本清三さんのお話
「花山大吉」リメイクの複雑な思い 近衛さんとこの坊や S20年代ごろのご近所
「アニー」の楽屋で 「天下太平」の原題 釣り堀
荻原流行さんが語ったこのちゃんの殺陣 かなりの子ども好きだった 「柳生武芸帳」への意気込み
「大都映画撮影所物語」 母子のいいお話 満点!パパ
東映歌舞伎「油小路の決闘」と長年の想い 藤純子さんのお話 愛のキューピット?!
「華麗なる一族」の猟銃は・・ お茶目な一面 デン助さんとの親交
『全員集合」のライバル 長嶋番記者とこのちゃんの関係は? 『覇剣―武蔵と柳生兵庫助―』縄田氏の解説
松方兵庫を演じるにあたって チャンバラトリオ・山根さんのお話 近衛十四郎の弟子?
親子で斬りまくる近衛・松方 京都市民映画祭の記事3つ 猟犬がほしい
「思い出ばなし3」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
『城取り』の桝田利雄監督が語る近衛十四郎 おからと言えば・・・ 席放浪記(色川武大著)』より
「ぴったんこカン★カン」の松方さん 「テレビ探偵団」の朝潮関 森田新さんインタビュー
「わが街 わが友」より 「戦国の剣豪」上映会レポ いろんな写真のお話
近衛・松方対談 ある夜の品川隆二 剣聖小川金之助とこのちゃん
殺陣の工夫 「ぶらり途中下車の旅」その2 骨の髄まで剣豪だった
殺陣師 伏見の釣堀で 「意外に評価が低い近衛十四郎の実力」
抜き打ちタイムNO.1 病後に出た味 3代つながった「君を信ず」
「一場の夢・・・」より 「東京人」より 「月影」放送時の品川さんインタビュー
松方さんの座長公演時のケガ 少年の思いは・・ 星を喰った男
別冊近代映画「ひばり捕物帖 折鶴駕籠特集号」 福本清三さんインタビュー かなわぬ夢
水の江瀧子さんの訃報で 「開運なんでも鑑定団」に出た刀 素浪人シリーズの影響
目黒さん親子インタビュー 北島三郎公演(’10・6〜7)で 松方さんの楽屋の写真
「十三人の刺客」の松方さんは 品川隆二さんトークショー 目黒祐樹さんトークショー
松方さんの額の皺 北沢典子さんトークショー 上野隆三さんトークショー
もうひとつの「浪人独り旅」 「超近現代史3」で 清水一角と柳生十兵衛評
実現しなかった近藤勇役 ディープピープル「時代劇をいろどる殺陣」 「ごごばん!」でのお話
テレビ時代劇60年の軌跡 高田宏治先生トークショー 生まれ故郷西新町の今昔
「思い出ばなし4」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
近衛十四郎逝去報道と忘れられない殺陣 面影を求めて 「アフタヌーンショー」の葬儀レポート
知らされなかった訃報 かつての同僚、水島道太郎さんのコメント 松方弘樹さんのお話
葬儀の日は仕事を休んで  高田浩吉さんのお話 週刊各誌の訃報記事
新聞各紙の訃報記事 お墓と天国池のこと
「思い出ばなし5」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
大宅壮一のおしゃべり道中 近衛十四郎一座のころ 「十兵衛への愛着」
「親の私が言うのもおかしいけれど」 松竹時代のインタビュー 「喧嘩も我が青春のスポーツ」
ちょっと遠慮がち?な座談会 松方さんデビュー当時の話題、2つ 素浪人の頃
ご夫婦の歴史 写真記事4つ 「スタジオパークからこんにちは」
「落語時代Vol.2]の品川さん オニワバン!(時専ch)で ご近所の品川さん
「スタジオパークからこんにちは」の松方さんのお話 甦る!チャンバラ映画 永遠の時代劇スター名場面集 ”剣豪”近衛十四郎の子弟愛
近衛邸を垣間見る写真記事 「時代劇まつりin巣鴨」 趣味も豪快だった
小野監督のこと 東映のシステム 殺陣についての自負
スタッフから付き人へ、そして俳優へ 「スタジオパークからこんにちわ」のはなさんのお話 レジェンドトークなど
大吉・半次の声帯模写 近衛邸を訪ねる 小説「素浪人 月影兵庫」のあとがき
「時代劇オニワバン」品川さんインタビュー 京都映画祭レポ(2015年) 「市川、近衛のデビュー時代」より
「近代映画」の松方さんの記事より 「時代劇は死なず・・」でのこのちゃん評 釣り堀・天国での記念写真
「ファミリーヒストリー」 「ザ・インタビュー」 「徹子の部屋」(2017年6月)
『マキノ雅裕の映画界内緒ばなし』 「ザ・ドキュメンタリー〜松方弘樹」 ラジオ深夜便(2018年3月)
ラジオ深夜便(2018年6月)


ちょっと
話しにくいこと(でもこれもこのちゃんだからね)

「十四郎様のお茶屋通い」上1にもあります)について弘樹が語ったことを仁科明子が弘樹との離婚前に出版した「いのち煌いて」にすこし載せています。手元にその本がないので、覚えていることだけ書きます。弘樹が十四郎様を迎えに行ったとき、芸者さんから出されたジュースは悲しい思い出なのでいまでもそのジュースは飲まないこと。それと弘樹もワイドショーなどで話していますが、どんなに遊んで朝になっても、絶対家には帰るそうです。これは十四郎様が芸者さんのところにずっと泊まって家に帰ってこなかったからです。
「お袋を泣かせたのは芸者さんたち」いう気持ちがあるので、お座敷で芸者さんを呼んでという遊びはしないとのことです。

ワイズ出版の小沢茂弘監督の「困った奴ちゃ」のP.103には次のように書いてあります。
近衛十四郎さんという人は変な利殖の才があってね、土地を買うと、それが倍くらいで売れるというぐあいに。雄琴のソープや、釣り堀なんかも持ってましたね。ソープ、当時はトルコでしたが、店の名は「千姫」です。亀岡の釣り堀の名前がはっきり思い出せませんが、たしか「天国」だったような気がするのですが・・・・・。「タイムマンション椰子」というモーテルをオープンしたと週刊誌の後ろの方のページに小さく写真が載った事もあります。芸能人ということでいろいろな人が集まってきて、いろんな商売に出資していたようです。亡くなったときは借金もいっぱいあって「残ったお金が10300円だった。」と弘樹が言っていました。
(中村半次郎さま 2003年11月8日)


トルコ「千姫」:琵琶湖のほとりにあったとか。
その記事には「近衛十四郎が東京から新しい女の子をなんにんか連れてきたらしいで」と、書いてあった。子供には強烈な記事でしたわ。
さらに思い出したのは近衛が死んで少しした頃、「近衛には愛人がいた」という記事が載ってる週刊誌もあったなあ。
読まなかったし買わなかったけど、誰だったのかなあ。今になったら買っておけば良かった。
(大地丙太郎監督 2005年7月3日)



厳しい!


スタジオパーク(NHK2003年11月10日放送)での松方さんのお話。
十四郎様と上原げんと様は同い年で飲み友達、酒豪だそうです。
赤ん坊の弘樹を抱いた十四郎様の写真が出て、司会者「おとうさま、本当にきれいな顔立ちしていますね。」
弘樹「でも、若い頃は花王石鹸と言われていたそうです。顎がしゃくれていて。僕も若い頃はしゃくれていました。」
当時のスポニチ「芸能ニュース」の映像が流れました。作品は「柳生武芸帳 片目の十兵衛」、その撮影風景です。
十四郎様は立ち回りのテストを一回しかやらなくて、立ち回りの手をおぼえてしまう。アドバイスはなく、怒られてばかり。
家に帰るとテレビでは言えない言葉で、罵倒され、何回も「この業界には向いてないから、やめろ」と言われた。
いちばんひどいのは、朝部屋に「今日ごいっしょさせていただく松方です。」と挨拶に行くと、メーキャップしている十四郎様は振り向いてくれず、手鏡をちょっと(弘樹のほうへ)動かすだけだった。エトセトラ。
弘樹が(胸を張って?)「立ち回りは日本一うまい俳優だと思います。」といった言葉が印象的でした。
今回の「スタジオパーク」で海水浴の写真が映りました。お母様、弘樹、祐樹、おばあさまの4人が写真に収まっています。
弘樹曰く「多分琵琶湖だと思います。」この4人の写真を撮ったのは当然(?)十四郎様でしょうか。
(中村半次郎さま 2003年11月11日)


釣り堀の名は「釣り天国」

年輩の釣り師の方に聞いた話では、近衛さんも自ら経営されていた、へらぶな釣りの池「釣り天国」でよく、釣りをされていたそうです。
近衛さんの横には、いつも、お付の人が座っておられ、餌をつけたり、釣った魚を、網で掬って針をはずしたりしておられて、近衛さんご自身は、ただ釣るだけだったとのことです。また、夏場には、日焼けを防ぐために腕に事務の人が着けるアームカバーを着けて釣っておられたそうです。
やっぱり、普段から気を付けておられたようですね。(でんきやさま 2003年11月26日)


殺陣のうまいのは

以前、松方さんが近衛さんの殺陣のうまさについて聞かれていた時、「おやじは、一番うまいのは嵐寛さんだったといっていた」と話していたことがありました。
浅野ゆう子は「子供の時、品川隆二さんのファンでした」と言っていたのを覚えています。
(月さま 2003年12月11日)



品川さんが語られた思い出

正確な日時は覚えていないのですが、約10年ぐらい前(月影兵庫第一シリーズ再放送直前)にNHK−BSで、ノスタルジースペシャル伝説の60年代 時代劇ヒットシリーズ 素浪人月影兵庫 『月は見ていた』  の放映後の「素浪人月影兵庫」この人に聞く 俳優 品川隆二 という品川隆二さんのインタビューがありました。この約5分間のインタビューでは途中月影兵庫、焼津の半次の写真や、兵庫が旅篭で悪党を軽く倒す『月は見ていた』からの1シーンを挿入しながら、品川隆二さんの顔のアップのみの画面で、品川さんがいろいろ語っておられました。話の内容は大きく分けて4点で、(1)番組について(2)近衛さんとの接し方(3)近衛さんの印象(4)当時のTV時代劇の良かった点でした。
要約すると、
(1)番組について  それまで二枚目役をやらせてもらっていた品川さんと、からい剣豪スターで売っていた近衛さんの、両者が持ち合わせていない(変な)部分、ずっこけた部分が出たのも、おかしな時代劇となった一因でしょう。
(2)近衛さんとの接し方   当時の時代劇スターはよく言えば個性が強い、悪く言えばわがままで、長年の現代劇からなんとなく時代劇に行かされちゃった品川さんは戸惑うことが多く、従って一番良い方法は、お互い『あんまりモノを喋らない』ことで、近衛さんとは『喋ればいいエッセンスが出る』ようなことだけ二人で喋り合っていた。だから側(はた)から見たら『あの二人仲が悪いんだな』って見えたらしい。
(4)当時のTV時代劇の良かった点  当時はカメラの中に写っていない外の部分(セット、ライト、人間、エネルギー)にすごい気を使った。そしてその中の好きな部分、良い部分だけを絵にした。画面の外にムンムン時代劇がいっぱいあった。今の時代劇はそういうのを感じず、日本語を喋り終えたら『ハイOK終わり』と最低限のものでOKになっている。若手の時代劇の主役をやっている人には、外の部分にも気を使って欲しい。
そして(3)近衛さんの印象 ですが、品川さんの言葉を引用すると、『近衛さんがねぇ、途中で糖尿なっちゃってね、すごくひどくなって。それで、ま、本当にもう疲れて疲れきって動けなかった時にね、本当にあの人の持ってた一番“いいなぁ〜”ていうのが出てきたのね、僕が感じたのそれを。役者って言うのはすげえ商売だなと思ってね、その、何でもかんでも有り余って出来る時っていうのは本当にいい味っていうのは出ねぇんだな。なんか、もう辛くって辛くって、しょうがなくって絞りだしたのは、“すんごい”良かったね。それは僕は亡くなったあの近衛さんには一番強く印象に残っている。』
(相談屋さま 2003年12月11日)


目黒さんとの初共演

「近代映画」という雑誌が2年分ほどあります。1971年、72年頃のものです。・・・目黒祐樹さんもけっこうよく登場しているのです。
このころの雑誌を見れば彼がいかに人気のある俳優だったかが分かります。最初は、あの森田健作と二人で「MMコンビ」として売り出したんですね。
試みに、1971年12月号を例に、記事を紹介してみます。表紙はハンブンジャクさん。漢字変換泣かせの女優さんですが、当時は人気者でした。
おっと、64ページに「新コンビでガンバラなくっちゃ」という見出しで目黒さん登場です。新番組「弥次喜多隠密道中」の紹介記事で、共演の八木孝子さんと肩を組んで微笑んでいる写真が大きく載っているのです。もう一枚は、相合傘のショットです。若い頃なので、初々しくてとてもハンドサムですよ。
さて、150ページには、近衛十四郎がらみの記事も出てきます。「親子初共演が『弥次喜多隠密道中』で実現した近衛・目黒」という見出しのコラムです。少し長くなりますが、引用します。
「(前略)近衛・目黒が共演するのは第5話(11月「4日放送)。もちろんこの番組がはじめての共演だという。(中略)いやがらせをされている夕姫(奈美悦子)を偶然出会った弥次喜多と素浪人(近衛)が助けるというストーリー。かわいい息子の主演にスケジュールを空けてゲスト出演した近衛は、現場のスタッフたちに「息子をどうかよろしく」とあいさつするなど初出演のようなこまかい気の使い方である。」
(キンちゃんさま 2004年1月11日)


目黒さん出演の「ごきげんよう」

「ごきげんよう」(フジテレビ ’041月9日放送)で目黒さんがお話しされた、このちゃんに関係する部分を。
まず、最初に小堺さんに「目黒さんの眉毛ってすごいですねえ。」と言われて、「ゲジゲジみたいだってよく言われるんですよ。」「で、そのゲジゲジはいつから生えてるんですか?」(ゲストの加藤茶さんが「だから眉毛だって」とつっこみ)「生まれたときから。一本つながっててね。で、あわててオヤジがここではさみで切ったという。ボクはしらないですけどね、聞いた話でね」小堺さんが、「お兄さんの松方弘樹さんより、お父さんの近衛十四郎さんに・・」と切り出すと「オヤジのことご存じの方、多分もう会場にいらっしゃらないでしょうね、もう」「いやいや、皆さんご存じですよ。(うんうんと頷く見学の方々)似てるって言われませんか?」「言われますよ、ますます似てきたって。善し悪しですけどね。」
本題のサイコロトークに入って、加藤茶さんのサイコロの目「いいかげんにしなさい」で、茶さんが、態度がでかくなった息子さんのことを話される。小堺さんの「目黒さんも(そう言う覚えが)あるでしょ?」との問いに、「ボクはね、その頃の年代思い出してみると、あったような気がする。突然『お父さん』『お母さん』とか呼べなくなっちゃってね、『おふくろ』『オヤジ』とか言い出した頃から反抗期が始まったんだな。」(2004年1月13日)


迫真の演技は本当に痛かった!

ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、今日の「ダウンタウンDX]で松方さんが父親のエピソードを披露なさってました。
映画で共演するシーンがあり、父の竹刀をよけるシーンを撮っていたとき、近衛さんは「殺陣がうまい」と言われてたし、実際好きだったから、とにかく真剣にやる。竹刀で地面をガンガン叩くもんだから石が顔に飛んできて、松方さんの顔が1カット撮るだけで血まみれになったそうです。監督さんが「カット」と言って出て来てくれたけど、父近衛さんは平然としていたそうです。で、これを松方さんがヴァラエティーモードで話されるもんだから、実に面白く聴いてしまいました(^^;
(がめいさま 2004年1月22日)


「ダウンタウンDX」の弘樹の話の映画題名は「中仙道のつむじ風」でしょう。
10年ほど前のTBSのお昼のワイドショーでも、今回の話をしていました。そのとき、映画の題名は言いませんでしたが、松田定次監督と言っていましたし、映画のストーリーから間違いないと思います。
30年ほど前にテレビで放送されたとき見ただけですが、このシーンは強烈だったので、ここだけはよく覚えています。
当時はそんなハードな撮影だと思わなかったので、のほほんと見ていました。竹刀が直接弘樹に当たっているわけではないから、痛いとは全然思いませんでした。石粒が顔面に突き刺さるとは考えず(ワイドショーでの話)、随分痛そうな迫真の演技と思いました。
ワイズ出版様の松田定次監督の本(題名、著者は忘れました。)には、その映画に触れた箇所があります。当時著者が映画館で見た思い出として、弘樹が十四郎様を倒したとき映画館で拍手が起きたと書かれています。なにしろ十四郎様が徹底的に弘樹をいじめるという点で、見ごたえ充分(?)の映画だと思います。
(中村半次郎さま 2004年1月23日)


「とにかく(親父は)コワかったのよォ〜」と松方さん、声が裏返ってましたな(笑)
(右京大作さま 2004年1月24日)



川野知介さんのこと、小指のツメのこと、

「いただき勘兵衛 旅を行く」のオープニングとエンディングの歌の作詩が川野知介さんだったのにはびっくり。というお話で、
川野知介様は「十四郎様に頼まれて」弘樹のマネージャーになられた方です。十四郎様が亡くなられて、弘樹がどん底状態にあったとき残られて、長い間陰で支えた方です。川野様は私家版で本を作られています。十四郎様たちのことも当然書かれてあるらしいのですが、私家版ゆえ私には入手できません。

このちゃんの小指のツメが長いのはどうしてかなーということで。
十四郎様の「伸ばした小指の爪」ですが、小指の爪を伸ばすのは、短く切ると男は出世しないという意味があるそうです。
これは高校3年生の夏休みに通った代々木ゼミの日本史の講師が「ある人」のエピソードで話してくれました。肝心の「ある人」は忘れてしまいましたが、この小指の爪の話は忘れませんでした。
なぜならば、弘樹も小指の爪が長かったので、そうなのかと納得したからです。
(中村半次郎さま 2004年2月19日)



「我が人生に乾杯!」(NHKラジオ)での松方さんのお話

副題は、「サムライ〜チャンバラ映画のスターたち」(2004年3月4日放送、司会:山本晋也さん林家きく姫さん ゲスト;松方弘樹さん林家木久蔵さん)で、このちゃんのこと、御大、大友さんのエピソード満載のお話でした。このちゃん関係は、
1 松方さんが、小さい頃、人の良く集まる近衛邸の1Fはマージャンで2Fでは子供達が勉強。
2 いつからかは定かでないが、”近衛さん”と父親を尊敬して呼ぶようになるが、”おやじ”というより、むしろこう呼びたいとのこと。
3 殺陣はとにかくうまかった、ラブシーンは下手だったが。「長い刀」のお話で槍も2間のもの(普通のより長い)を使っていたのでしなるんですよね、ということ。殺陣があれほどうまいので、剣道の段持ちか?とよく聞かれるが、実際は持ってない、殺陣は独学だった。(山本さんが、近衛さんの殺陣はそれまでの踊りから来た殺陣でなく、腰が動かないで速いんですよねと言われる。多分、腰が入っているので、このちゃんがつつつと動くときに、体が左右だけに動き、上下に動かないことをいわれてる。)
4 実演の近衛一座の規律は、他のどの一座より厳しかった。
5 「十兵衛暗殺剣」の琵琶湖の水中撮影は、全部このちゃんと大友さんの実写。
このちゃんのプロフィールでは大正5年生まれと、林家きく姫さんがご紹介されたが・・・?


品川さんにとっての半次は

人伝えに聞いたので正確さに欠けているかもしれませんが、以前、品川隆二さんが半次について語った事があるそうです。それによると、それまでの二枚目役から、芸の幅を広げるために引き受けた三枚目役で一躍お茶の間の人気者に。どこに行っても、何をやっても半次的キャラクターを要求されてしまう、その上映画やテレビの仕事で、真面目な役だったものも半次的キャラクターに演出され直されてしまう。それが役者として辛かったそうなのです。人気が出れば出るほど悩んでいたそうですよ。半次は半次、でも品川隆二とは違うのだと云う事でしょうね。
(貴日さま 2004年3月6日)



小西博之(こにたん)さんのお話

近衛十四郎さまについてお話をお聞きしたんですが、彼にとっては「近衛先生」なんだそうです。実際に一緒に仕事されたことは無いそうなんですが、比較的身長の低かった「先生」は「タッパを大きく見せることに苦心されていた」とか。
(トミーさま 2004年3月15日)



十兵衛役目黒さんの決意

目黒祐樹さん、かつて「柳生新陰流」(萬屋錦之介さんが、柳生宗矩、西村晃さんが柳生石舟斎)というTV時代劇で、十兵衛役を演っておられました。ほんまに近衛さんと瓜ふたつでした。
TVガイドか何かの新番組欄で、目黒さん、「十兵衛役は、父の当り役。恥ずかしくないものにしたい。」と書かれてました。
(久米仙人さま 2004年4月7日)


大都時代の近衛邸と撮影所

私は東京都板橋区に生まれ育ちました。家中で素浪人ファンだった為、毎週土曜日夜8時は一家団欒だったのは他の皆様と同じだと思います。
で、いつも父親が「近衛十四郎は大都って映画の看板スターで、すぐそこに住んでいたんだぞ」と口癖の様に言っていました。
今日、父(現在82歳)に改めて当時の話を質問しました。
時は戦前の昭和13、4年頃、現在、豊島区池袋〜北区赤羽行きの路線バスのルートである通称、弁天通りの途中にそのお住まいがあり、極普通の木造平屋建てで表札を見なければ周囲の一般の家と全くかわりはなかったそうです。
そうです表札にはしっかりと「近衛十四郎」と明記されて“知る人ぞ知る”といった風情だったそうです。当時庶民の間では大都作品は人気で、近在で近衛十四郎の名前を知らぬ者はいない程、有名だったそうですが、お住まいまでは地元じゃないと知るよしもないでしょうね、当時としては。
父は赤羽に行く際、いつも自転車でそのお宅の前を通り、必ず表札を見ていたと語っています。しかし、いつまでそこに住んでいたかは記憶にないとの事。板橋の我が家から自転車で5分程の所ですので、後年までお住まいだったら大変な事ですよね!現在の住居表示では北区赤羽西4丁目40番あたりです。
また大都の撮影所も比較的近く、我が家から距離4kmほど、豊島区西巣鴨の旧朝日中学校(数年前に廃校、現在は淑徳巣鴨高校の仮校舎)の該当敷地でして、私が小学生時代、父親とその前を歩いた際もよく「あそこが大都の撮影所があった所だ。近衛十四郎の映画は皆、あそこから生まれたんだ」と繰り返し語っていました。子供心にジンジンきました。
おまけ:大都映画の正門の写真を発見しました。(三太夫さま 2004年4月19日)


「俺は用心棒」ゲスト出演の経緯

「俺は用心棒」第一話の話ですが、おっしゃるように私も25〜26年くらい前に「俺は用心棒」の当時の制作スタッフの方たちにお尋ねしたことがあります。
「新選組血風録」も最初は大物俳優を使おうよということで嵐寛さんと丘さとみさんにゲストとして出てもらった。これは出だし第一話から話題を作って視聴者を引っ張る常套手段やで!と言われました。次に栗塚さん独り立ちで新作「俺は用心棒」の第一話は浪人ものと言えばスタッフの間では、もう当たり前のように「近衛さんに」ゲスト出演してもらおうということになったそうです。
余談ですが、岩崎加根子さんがゲスト出演された「なんとかに小判(…思い出せません)」が本当は第一作であの浪人栗塚だけは雰囲気が違うやろ、と言われ確かによくしゃべっておられます。後、恐くなります。
(京さま 2004年4月25日)


十兵衛役の目黒さんの衣装と、「月影兵庫」の最高視聴率の回、「ローニンサムライ」、松方さんの殺陣評

*かつてテレビ東京から放映されていた萬屋錦之介の『柳生新陰流』で、十兵衛をやった目黒祐樹が着ていた衣装は、柳生武芸帳シリ−ズで近衛さんが着ていたものです。ドラマの放送が始まる前、あるト−クショ−で、衣桁にかけられた着物の前で、目黒本人が語っていました。
*そして、近衛さん主演のテレビドラマ、いわゆる素浪人シリ−ズ中での最高視聴率は、68年2月3日に放送された『素浪人月影兵庫 同期の桜が泣いていた』の35、8パ−セント。
*松方弘樹を賓客に迎えたあるバラエティ−ショ−でのこと。松方の立ち回りを評して若山富三郎曰く、「親父の血を引いている。上手い」
(三四郎さま 2004年4月30日)
*どこの国だかわかりませんが、大昔に近衛さんの素浪人シリ−ズが『ロ−ニンサムライ』という題名で放送されていたらしいですね(TVガイド誌に載っていた記事の記憶)。
*近衛さんの立ち回りについて、作家の柴田錬三郎が、テレビドラマ『徳川三国誌』の完成披露パ−ティ−での松方さんとの雑談のなかで「君の立ち回りは親父さんそっくりだね。なにしろ、君の親父さんは立ち回りが日本一上手い人だからねえ」と評しています。
(三四郎さま 2004年5月1日)


誰が一番殺陣が上手いと思われますか?との問いに

何か思い出したのですが、名前は忘れたのですが、勝新さんの座頭市のことを書いた本におそらく近衛さんが柳生武芸帳で活躍されていたころだと思いますが、「近衛さんは誰の殺陣が上手いと思われますか」という質問を受け、「勝新太郎」と答えられたとのことでした。この話を聞き、あえて自分の所属する東映の錦之助や橋蔵と答えないところに近衛さんの剛直さを感じます。殺陣師の型にはまらない、はめては自在に操る剣が生きてこない…そんな風に考えられたのか。アウトローのような勝の座頭市の殺陣に感しるところがあったのかも知れません。
(京さま 2004年5月7日)


映画界復帰作品の事情と、松竹端役の頃

昭和27年に発足まもない東映によって配給された、田崎潤が主演する連合映画作品『遊侠一代』は、近衛さんの映画復帰第一作を飾った作品です。
そして、かつては大都映画のスタ−として活躍し、近衛さんとの共演作も残している松山宗三郎(小崎政房)が天辰大中と共同で監督したものである以上、その縁によった出演だったのでしょう。
しかし、単に昔の誼での出演だったのでしょうか。 近衛さんは一座を解散して映画への復帰を決意した当初、独立プロの設立をも目論んだのですが、仲間による資金の持ち逃げという、うきめを見て実現にはいたらず、莫大な借金をかかえてしまった事実があります。一世一代の企てといってもいい独立プロの設立が、見るも無惨なかたちで挫折してしまった近衛さんは、茫然自失として暫く何も手にすることができなかったはずです。
つまり、危急存亡の状態に陥っていた近衛さんの近況を知った松山さん自身が、直接近衛さんに『遊侠一代』出演の話をもちかけたというのが真相だったのではないかという気がします。ちなみに、松山さんは大都映画時代にも、小崎政房という名前でキワモノの戦争映画などを監督しています。
映画『遊侠一代』への出演後、綜芸プロを経て昭和28年に松竹と専属契約を結ぶも、依然として近衛さんは端役での映画出演をつづけます。
このころの近衛さんについて、松竹でもっとも共演が多かった高田浩吉は、ロケ先での出番待ちの時など、池や小川をみつけてはいつも釣りをしていた、という話をのこしています。やっぱり!という思いがします。
(三四郎さま 2004年5月14日


浪漫工房第10号(松方弘樹特集の号)のインタビューで

品川氏
「砂絵呪縛]は近衛さんと敵味方の役柄で,役名まではっきりと覚えている程印象に残っています。この作品が近衛さんとの出会いになります。
Q.近衛さんと松方さんの両方を映画を通してご覧になられて思われることは。
ズバリ、親父を超えたなぁと思います。「上手さ(うまさ)」ではなく、役者の大きさがね。(略)唯一、殺陣に関してだけは親父さんのほうが上です。立ち回りの上手さでいえば、(略)ある一定のレベルを越えると好みの問題です。近衛さんは好き嫌いを超越したものがあります。迫力・スピード・テクニックどれをとっても超一流です。日本で一番上手いと私は思います。(略)近衛さんの殺陣といえば、剣だけじゃなくて、槍を持っても凄い。なんと足を使うのですよ。地面に伏せてある槍を足の人さし指と、中指でつかんでビューンと投げて相手に突き刺すんです。当然カラミの相手もその槍を小脇で受けとめ、うまく刺されたように見せかけるのですが。近衛さんはその動作をワンカットで演ってのけるんです。近衛さんの殺陣を私も実際に受けてみて,噂以上に凄いのを身をもって体験しましたから。
土井氏
Q.松方さんとの出会いは。
(略)近衛さんの殺陣には自ら生み出されたカタチがありますが、その振り方を本当にマスターしなければ、殺陣をつけても中途半端なものになります。私は殺陣をつけながら近衛さんの身体の調子の悪いとき、吹き替えもしていましたので「お前が私のカタを一番受け継いでいるから松方に引き継いでくれ」と近衛さんに言われ約束したことがあります。出会いといえば、そこに溯ります。
Q.近衛さんの殺陣の特徴は何でしょう。
近衛さんの殺陣筋は、長い刀を豪快にスピーディーにさばくのが特徴です。殺陣の基本は、真っ向斬り下げる・相手の左肩口から斜めに斬る・袈裟斬り・逆袈裟斬り・ぬき胴・逆胴・突きの六つしかありません。それなのに、近衛さんの殺陣に他にはないスピード感があるのは、一太刀目から二太刀目に入るイントロ部分で、刀のグリップの返しが違うんです。その上、振り切った刀の処理がまた豪快なんです。松方さんは、まだ若いですし、馬力もありますから、近衛さんに比べて、もう一つスピーディーです。(浪漫工房第10号 1997年1月28日 創作工房発行 P.32〜33 P.38参照)
(中村半次郎さま 2004年5月18日)


サワダ音楽学院発表会(2004年5月23日 於:京都会館)での品川さんレポ
(品川さんの写真とサイン色紙はこちらに)

昨日は、朝4時半起きの日帰り強行軍でしたが、本当に行って良かったアと思える1日でした。
サワダ音楽院の発表会は予想以上に大規模で、おそらく千人ぐらいの観客がいました。出演者の方々も玄人はだしで、しかも楽しそうに熱唱していました。聴衆も暖かい雰囲気で一見客の私たちも楽しむことが出来ました。楽屋裏に伺うと、大忙しの状況でしたが、そんな中サワダ音楽院の院長の奥様と娘さんがすぐに品川さんの楽屋に案内してくださり、素晴らしい方々だなぁと感激しました。
楽屋のドアを開けた途端、私たち二人とも「あっ、半次さんだ!」と一目でわかるほど変わらない品川さんでした。
品川さんはダンナを見て「ずいぶん若い人なんだ。(本当は若くないのですが…)話を聞いて、てっきりじじいだと思ってた。」と少々びっくりされていました。他のファンの方々のメッセージを持参したことをお話すると「持ってきてくれたの。」ととても喜んでいらっしゃいました。できれば皆さんにもサインをとお願いすると「名前はわかる?」とメッセージのお名前を見ながら、こちらで用意した色紙8枚!にサインして下さいました。
本当にいい方です!おっかけして良かったア!
ダンナと私一枚づつ交互に一緒の写真を撮っていただき、これは我が家の大事な大事な記念の2枚になりました。
もっとお聞きすべき事があったはずなのですが、出番前の僅かな時間で、しかも私たちは感激で頭の中が真っ白の興奮状態でしたのでこれが精一杯でした。来年も又、京都に来て、「今度こそ色々とお聞きするのだ!」と決意を新たにした次第です。
トリの品川さんを司会の方が「この方がいらっしゃらないとこの会が終わりません。皆様お待ちかねの品川隆二さんです。」と紹介し、品川さんが登場すると「待ってました!!」と客席から声がかかり拍手喝采でした。
まだまだ半次ファンは大勢いるのであります。
品川さんは「もうあまり大きな声がでないので、作詞やってんだよ。」なんて楽屋でおっしゃっていましたが、とても声量があって私は失礼ながら「風来坊笠」の時よりずっとうまい!と思いました。「男のグラス」は、CDでは若い男性歌手が歌っていて「おかげさまで、西の方から売れてきております。」とおっしゃっていました。東の皆さんもCD買いましょう♪
(まさおちゃんの妻さま 2004年5月24日)



二度の召集の意味

戦時中、多くの若い映画制作スタッフや俳優が戦地へ送られました。 しかし、一度も召集されなかった者、そして近衛さんのように二度も召集された者のように、かなりの差別がありました。これは、海軍省、陸軍省後援映画への貢献度による差別だったようです。
映画人で召集された者のほとんどが海軍省などの後援する映画への貢献度が低かった。 つまり、時代劇、現代劇を問わず、いわゆる国策映画
の制作に従事した人は召集されなかった。近衛さんは国策映画への出演経験がなかったために召集された、ということです。
昭和14年に映画法が公布され、映画が軍の統制下におかれてしまった以上、しかたがなかったんです。国策映画制作への従事は、戦闘に参加したとみなされたわけです。国策映画制作への従事は、戦闘に参加したとみなされたわけです。
近衛さんの思いはどうだったかわかりませんが、大都映画が制作した作品を見るかぎり、大都映画自体が軍の片棒を担ぐような映画を撮ることを拒否しつづけていたのではないでしょうか。これは新興キネマも同じです。そして日活は、軍の意向にそった作品を撮りながらも露骨に厭な顔をしていたという話が残っている。
つまり日活、新興、大都の三社合併による大映の設立は、確かに日本が重要軍需品とみなしていた生フィルムの欠乏を回避するための映画会社統合策だったのでしょうが、軍の意向にたてをついた三社が合併の槍玉にあげられたと見ても、さしつかえはないようにおもいます。
(三四郎さま 2004年5月24日)



大都移籍直後、時代劇スターポスターの中で紹介される

今から26年ほどまえ、どのような経偉で手に入れた物なのかはわかりませんが、死んだ父がちょうど新聞を大きくひらいたほどの紙面に昭和10年代に人気があった時代劇スタ−の顔写真が載った、ポスタ−のようなものをもっていました。
その中には阪妻や大河内、寛寿郎などの大スタ−にまじって、近衛さんの写真もあり、プロフィ−ルには、趣味がスポ−ツと紅茶、そして生年は間違いなく大正3年になっていました。
それはさておき、当時は日活の二枚目スタ−だった戸上城太郎や新興キネマの大友柳太郎(のちに朗)、松竹の高田浩吉などをさしおいて、若手時代劇スタ−のなかで唯一近衛さんだけが載っていたことを今になって思えば剣戟スタ−としての将来を嘱望されたホ−プとして絶大な人気を誇っていたのかも知れませんね。
(三四郎さま 2004年6月16日)



丹下左膳をやらせたい俳優

「丹下左膳」(林不忘著光文社文庫)の「こけ猿の巻」の解説の中で、過去の丹下左膳映画にふれたあと、是非左膳をやらせたかった俳優として近衛十四郎、河津清三郎を挙げ、今現在では亡き近衛十四郎に富に似てきた、目黒祐樹にやらせたいといっています。
(三四郎さま 2004年6月16日)


錦之助さんとの関係は?

近衛さんが東映の時代劇で活躍していた頃、同じ会社に在籍していながら、唯一共演作の無いのが中村錦之助です。その理由については、いまもってわかっていません。
かつて、近衛さんの葬儀のもようが唯一放送されたアフタヌ−ンショ−というNETの番組には、その日、別のコ−ナ−に錦之助本人が生出演していたのですが、司会者が錦之助に対していっさい近衛さんふろうとせず、また錦之助自身も近衛さんの“こ”の字も口にしなかった意味深長ともとれる態度が、いまさらながら気になって仕方がありません。
まあ、共演作がない以上、コメントしたくてもコメントのしようがない、と言われてしまえばそれまでなのですが。
でも、野球のユニフォ−ムを着たふたりが一緒に写っている写真が残ってるんです。だったら何かひとことぐらい、などと思うのは僕だけでしょうか。
(三四郎さま 2004年6月23日)


寄付に大枚だされてびっくり

鳴滝の家があったころ町内会の役員をやっておりました知り合いが、近衛さんのところに赤い羽根だか交通安全だかの寄附に行った際、やはり浴衣のような丹前のようなお姿で出てこられたと申しておりました。奥さんでもお手伝いさんでもなく近衛さんご本人が出てこられたのでびっくりしたそうですが、「はて?寄附とはどのくらいすればよい物か?」と問われ、「もうお気持ちだけで」というと「今これしかないが、かまわないかな?」と大枚を出されまたびっくり!返って恐縮したそうです。
(京さま 2004年7月19日)



殺陣師 上野隆三さんのお話

昔、ある本の中で、殺陣師の上野隆三さんが、「松方は物凄くオヤジー近衛十四郎ーを尊敬しとるんですね。 だから親父の守っていたものを、何とか引き継うと、マネしてでも出そうとしてるんだね。だからね俺、話し合った事あるの。・・いい面は絶対取るべきだ!だけど人間てのは完全じゃあないから、悪い面までまねしちゃあいけない。あの素晴らしい剣さばき(ビュン!と刀を廻して目に殺気。ムムっといく。)あれは出来ないですよね。本当に剣をもってやればますます難しくなる。近衛さんて、野球のうまい人でね。投げても打ってもね、グリップが物凄く効くの。剣は、独特のものを使っていてね。普通の人のより柄が長いの。1、5倍位あったね。」
上野さんは東映の殺陣師なので、読みながら「悪い面てなんだろう。」と25年間謎のままですが。(久米仙人さま 2004年9月19日)


京都映画祭での、目黒さんと山内鉄也監督のトーク(’04年9月24日於:祇園会館)

(京都映画祭の)お目当てはゲストトークと「忍者狩り」。トークでは期待通り、俳優・父:近衛十四郎について。立ち回りへのこだわりもさることながら、経済的に苦しかった時期の話しも目黒祐樹氏の口から語られました(みかんの話しなど)。
親父がサインを求められて、一言添えて下さいと言われたら「我が生涯、竹光と共に」と書いていたこと。「親父が使っていた竹光は他のより2〜30センチは長いからいくら真似しても鞘から上手い具合に抜けない。どうやってるか速くて見えない。がある時、腰をキュっとひねってるのがわかってねぇ。」など興味ある話しが続きます。
素浪人シリーズの話では、「普段、怒るとちょうどあんな感じで、本当におっかなかった」と何か想像してしまいます。
「忍者狩り」はスクリーンで初めて観ましたが最後まで手に汗握る迫力で今更ながら傑作であり快演でしたね。モノクロームが活きます。
夜間撮影が苦手というか好きではなかったということでしたが、「忍者といえば夜でしょ!」と山内監督。(若影さま 2004年9月25日)


京都映画祭レポ2

まず23日。
祇園会館で「ちゃんばらグラフテイー 斬る!」、座談会、「きさらぎ無双剣」
座談会は中島監督が司会をして、栗塚旭、福本清三、上野隆三各氏が立ち回りのつけかた、形などについて実演してくれました。栗塚氏は立ち回りを覚えるのが割と苦手なようで今回は久しぶりということもあるのでしょうが、できないで冗談半分で上野氏が叱っていました。
立ち回りについての解説は面白かったです。

24日は一作目の「幕末残酷物語」から「忍者狩り」まで1日祇園会館にいました。
「十兵衛・・・」   大きなスクリーン何度も言ってしまいますが「良いですねぇ〜」。湖族との夜の船上の闘い、勿論ラストの対決。しあわせぇ〜。

ゲストトーク、司会が山内監督、祐樹に質問という形式です。
「夜間撮影が好きではなかった。」(これははっきり覚えていませんが、夜間撮影だとお酒が飲めないからだと聴いた記憶が・・・・・・。)
「シベリア抑留は3年弱」(ということは戦後ではなく戦争中にもう抑留されていたということ?)
みかんの話
「五歳ぐらいのとき、家族で歩いていて自分がみかんが欲しい言ったとき、兄が何も言わずに自分の腕をぐいっと引っ張っていった。 親父とお袋がなにも言えないのを察した。」
(山内監督が一言「信じられない。」)
「(地方巡業のときのこと)舞台が今みたいに良くなくて(舞台の表面が)ざらざらなのに、森の石松の芝居の最後の十数分の膝をつきながらの 立ち回りを血だらけになって毎日やった。」
「愛嬌はありました。でも、怒ると怖かった。」
(「忍者狩り」部分のトークはこちら
そして「忍者狩り」
まずオープニングの石垣の上に十四郎様が立っているのを見てびっくり。我が家の14インチの小さいテレビでは全然気がつきませんでした。(帰宅後確認したら、意識してみればわかるのですが、あの一瞬の映像では判別できず。まして字幕を読んでいると・・・・。)
「十兵衛・・・」もそうでしたが、スクリーンで見ていると引き込まれて話がぱっぱっと進んでいき、なんか「もうラストだぁ〜」という感じでした。

25日。
午前中は黄桜カッパカントリーで十四郎様のCMを見ました。

京都文化博物館へ行き、「長恨」などの無声映画3本、そしてシンポジウムを見て京都駅に向かいました。
シンポジウムでは浦谷年良氏がシンポジウム用につくったDVDが上映されました。
その中で立ち回りのスピードということで、十四郎様の「きさらぎ無双剣」の最初の登場シーン、「座頭市血煙り街道」の朝丘幸路の一行を助けてヤクザと立ち回りをするシーンが紹介されました。「対決」ということで、「十兵衛暗殺剣」のラストの大友さんとの対決シーンが出ました。
浦谷氏ははっきり錦之助ファンとご自分で言っていますが、それにしても「ちゃんばらグラフティー 斬る!」では十四郎様のシーンが少なすぎるのが気に入らなかった私としては、今回十四郎様が3回登場で満足できました。

終わりのほうになって、司会進行の山根貞男氏が「今回の京都映画祭の隠れたテーマとして近衛十四郎があります。近衛十四郎は立ち回りをした後に、<残心>のカタチをとっている。」と発言。
中島貞夫監督が「近衛さんの立ち回りのときは絡みの人は新聞紙を入れていた。」と言いました。
この新聞紙を入れるというのは23日のちゃんばらの座談会でも話が出ました。
 >大友柳太郎さんは「貫胴」の剣が胴に行かず鼻にきて「貫鼻」になる。
 >竹光と言っても切っ先は危ないし、打たれれば痛い。
 >斬り役の人によって絡みの人達の中には懐などに新聞紙を入れていた人もいました。
 >どういう人のときに新聞紙を入れていましたかの中島監督の質問に福本氏、上野氏ははっきり答えませんでしたが、あきらかに大友さんと分かる雰囲気だったのです。
そのとき、私は「勿論、十四郎様は新聞紙不要の斬り役」と確信していましたので、この中島監督の発言にびっくり致しました。

シンポジウム終了後、足早に去る山根氏をちょっと捕まえて「このパンフレットの絵のサムライは近衛十四郎と考えていいのですね?」
と聞いたところ、「いや、違います。皆さんそれぞれの考えている人です。」と答えられました。
(中村半次郎さま 2004年9月27日)


京都映画祭レポ3(忍者狩り部分はこちら

目黒さんと山内監督のトークより、殺陣について
目:本人はチャンバラが好きだったようで竹光を握って自分は全うするんだと聞いたことがあります。色紙に一言添えるときに必ず書くのは「吾が生涯竹光とともに」ですから。
(真剣ではなく?との質問に、)「竹光は軽いので、いかに真剣にみせるかをまず勉強しなくっちゃいけない、振り回すのはウソだ、いかに本当のようにみせるか、ということに神経を使わなきゃいけないと言ってました。普通の竹光より25〜30cm長いので、振り回すと立ち回りが大きくなる、重厚感もあると言うことを、経験でつかんだんではないかと思います。」
目黒さんは、最初横で見ていても、いとも簡単にスッと抜くので、早すぎてどうやって抜くのか分からなかったが、腰を一瞬ひねるのだとやっと気づかれた。柄も2握り半ぐらいあり、そのため、刀を抜いて決まったときの手の放れ具合がスケールが大きくてカッコよくなるそうです。

近衛一座について
特に近衛一座は立ち回りの有名な一座でそれに対してきびしい、血の出るような稽古をした。このちゃんがシベリア抑留の3年間は奥さまの水川八重子さんが守り、復員して合流、一座は宮本武蔵から金比羅参りまで、定番はほとんどやった。

役柄と人柄
近衛さんの役柄は、演じてるだけではない、強いけどスーパーマンでない、スーパーマンでないけど強い、ものが出ていますよね、との問いに、
目:人間的な部分を常に追求していた人だと思います。映像の中でもリアリズムを追求している思いがあって、かなり昔からすっぴんに近いメーク。白塗りメークはほとんどしなかったですね。
高田浩吉さんの白塗りのきれいな主役と、真っ黒で髪がぼさぼさのこのちゃんの悪役、で対称的だったと言うお話から、山内監督はそう言う点に着目されてこのちゃんを使ったのか?との問い。
監:そうです。すっぴんで主役がはれる人はもうそれは近衛さん。私だけでなく、十兵衛でもずっとやられて、そう言うキャラが影響してると思いますね。(集団時代劇のリーダーとして何ら違和感がないのは)一座を率いていたのがあるんでしょうね。
(大地丙太郎監督のお話より作製 2004年9月29日)



そのうちあちこちに資料として飛びます。

松方さんのデビュー当時、「伊賀の影丸」を見学に来て、殺陣師に注文をつけたり、「柳生武芸帳」の共演では、カメラからは見えないのに、向き合っている自分から見えて視線をもっと上へとか注文していた。
TV「柳生武芸帳」では、このちゃんは、監督に小野登監督を推薦、キャメラも柾木兵一さん、分かってるもの同士でアットホームな中で撮りたいというスタッフ中心主義だった。(昔はもすこし冷たかったとも。)
このちゃんは、テレビの方が楽だと言ってた。剣はここまでとかいう制限がない、刀を抜くというのが、そうしようと思って抜くんでなく、気持ちの上でふっと抜けるみたいに、もっと自由にできると。だから、TV「柳生武芸帳」では、「俺は今やっと十兵衛らしくなってきた」と言っていた。結構いかめしい中に自由人みたいなものがあったようだ。
監督とこのちゃんとの出会いは昭和13年・大都の頃、二人の考えたことが一致したのが、TV「柳生武芸帳」だった。当時、「小野ちゃんは無駄飯食ってなかったな」と言われてもの凄く嬉しかった。「武芸帳」は、近衛十四郎を見せるシャシン、素浪人シリーズは、シャシンを見てもらうものだった。このちゃんが倒れたときには、もう辞めようと思った。
撮影の柾木兵一さんは、それまでの撮り方と違ったこのちゃんのとりかたをしようとした。強調のアップも撮った。
朝10時から夕方4時半まで125カット立ち回りをとったときは、「小野ちゃん。俺を殺す気か」と怒鳴った。冗談半分、ホッとしたの半分だったろう。
「武芸帳」のころからおそらく糖尿病にかかっていただろうが、表に出す人ではなかった。が、「大吉」のころから、それまであまり水を飲まなかったのに、ドンブリで飲まないと間に合わないほどに。それで、夜間は無しに、と監督は気を使った。それでも、休みたいとか、そういうことは言わなかった。
監督を辞めてからも、このちゃんからは、釣りの誘いが来て、「近衛釣りの会」のメンバーだった(監督は釣らないけど)。倒れたときも、電話したら「釣り堀に行ってる」と言われた。病人の姿は見せたくないと言う見栄坊。奥さんが先に逝って希望をなくしたと思う。
素浪人シリーズでは、このちゃんはゆっくりやる方、品川さんはすぱっぱっとやる方だから、このちゃんはいらいらしただろう。コメディーになって、原作に基づかなくなって、このちゃんは頼りなかっただろうが、品川さんは喜んだのでは。
大都時代の出会いは、白井戦太郎監督が小野監督に「いずれどこかで仕事をするいい青年」としてこのちゃんを紹介。白井監督はすごくこのちゃんを褒めていた。
当時独身だったこのちゃんと水川さんは、いっしょに歩いたりという人目に付くことはできないので、王子の公園や喫茶店でデート。二人ともスターだし、兵隊だったこともあって会うのに苦労したそうだ。


カラミ役に斬りかかる殺陣が生まれた理由は?

近衛さんの立ち回りの特徴は、自らがカラミに斬りかかり、あっという間に屠ってしまうところにあります。そして、その立ち回りが生まれる素地となったのが、実演時代、主役である座長の近衛さんに斬りかかる、カラミ役の座員がその間をうまく取ることができなかった為の苦肉の策だったことは、我々ファンのあいだでは周知の事実です。
ところで、終戦後、チャンバラ映画はGHQによってしばらくの間上映禁止処分を受けていましたが、チャンバラが禁止されていたのは実演も例外ではありませんでした。しかし、昭和24年頃から、実演に限り30秒だけは許されたそうです。
でも、30秒という短い時間では、主役がゆったりと構えてカラミが斬りかかるのを待つ、なんていう立ち回りなんか、とてもできなかったでしょうね。
つまり、近衛さん独特の立ち回りが生まれた背景のいまひとつには、30秒という短い時間内で、客を満足させ立ち回りを見せるにはどうしたらいいか、という煩悶があったことも否定できない事実であるように思えます。
(2004年11月1日 三四郎さま)



大都映画の意義

大都映画は、現在では三流映画というレッテルが貼られてしまっている。  
作品のすべてが低予算によって制作され、一般上映館の半額である20銭という入場料で見ることができたため、観客のほとんどは低所得労働者と小学生だった。その意味では、確かにマイナ−系の映画会社だったと言っていい。
しかし、大都映画しか見ないといういわゆる固定客もおり、今現在でも大都映画のことを熱狂的に語る、当時のファンが数多く存在している。
しかも、大都映画は全国に150という系列館を有し、メジャ−会社を凌駕する数の作品を常に4本立てで公開した。それほどに受けたのである。
そのそもそもの要因は、60分前後という短い上映時間枠内で義理人情、恋、チャンバラが手際よく処理されて話が展開する、娯楽映画としてのツボをしっかりと押さえた作品自体の解りやすさ、生きの良さが客を引きつけたのである。
したがって、大都映画を当時多数族生した中小プロダクションと同等に語ることはできない。すくなくとも、メジャ−では一段落ちると言われた新興キネマに近い実力、作品カラ−を持った、人気映画会社だったと見るのが妥当なように思われる。
(2004年11月1日 三四郎さま)



柳生十兵衛の片目と殺陣について

柳生十兵衛の肖像画には、しっかりと両目が描かれている。だからと言って、実際の十兵衛も両目があったかというと、それは保証の限りではない。なぜならば、彼は将軍家御留流である柳生流(柳生新陰流というのは間違い)の師範、柳生宗矩の長男なのだ。そうである以上、将軍家のことを慮ってわざと両目を描いた可能性もある。
ちなみに、はじめて眼帯をつけて十兵衛を演じたのは、『風雲!黒田城』(新東宝)の嵐寛寿郎だった?
しかし、十兵衛が隠密だった可能性はひくい。その役目を果たすのは、諸大名家へ仕えた門弟たちで事足りたはずである。もし、十兵衛が諸国を
漫遊したとすれば、その門弟を訪ねるためのものだったであろう。それでも十分に隠密の役を果たしているのだが…。
近衛さんは“柳生武芸帳シリ−ズ”で、逆手に握った刀の柄頭に左手を添える構えかたをよく披露していますが、あれは柳生流に実際にある“老いの剣”という型の模倣かも知れません。ということは、近衛さんの“剣のスタ−”としての真骨頂は単に立ち回りが上手かったところだけにあったのではなく、あくまでも“花も実もある絵空事”として、チャンバラを見せることに徹したところにあったのではないかと思います。
ちなみに、十兵衛には奥さんもいたんですヨ!(2004年11月4日 三四郎さま)


「博徒対テキ屋」の楽屋おち

’04年11月7日の毎日新聞「日曜くらぶ」3面の「快楽亭ブラックのヒーロー回復にこの1本」より。
映画では、千恵蔵さん、鶴田浩二さん、松方さんを敵に回す悪徳テキ屋で吉原で遊郭を営んでいる役だが、このちゃんが千恵蔵さんを殺した怒りに、鶴田さんが「この女郎屋のおやじが!」と怒鳴り込んだシーンについて、当時、(このちゃんが)雄琴で特殊浴場を経営していたのは関係者には有名な話で、この楽屋落ちにはドキッとしつつ笑わせた。」とありました。
(2004年11月7日 Thanks都三十郎さま)


このちゃん譲りの目黒さんの性格

映画論叢10 小野監督インタビューを読んで。)あと、特に印象に残ったのは近衛さんが嫌いな人にはおべっかも使わないし、挨拶もしないという監督のお話でした。
この話で思い当たることがあります。1976年頃、たまたま見ていたテレビ(ワイドショーのような番組でした)で、目黒さんがゲストで、目黒さんにゆかりのある人が次々に登場し、目黒さんに関するいろいろなエピソードを語るというのがありました。
近衛さんはスタジオには来なかったものの、声だけ先に収録してあり、番組中に近衛さんの写真(眼鏡をかけた当時のお姿でした)とともに放送されました。その中で近衛さんは目黒さんの子供時代の性格について短く「人見知りをする」と言っていたのを覚えています。
やはり親子、共通点があるのだなと思いました。(2005年1月1日 タキシードペンギンさま) 


にしすがも活動写真館レポ(於:旧朝日中学校=大都映画撮影所跡地)

見てきやした。「争闘阿修羅街」を。
どうしてこういう題名がついたのか「?」なストーリーでしたが、楽しくて面白かったです。40分ぐらいの無声映画ですから、アクションシーンが多いわけではありませんでしたが、まさしく「鳥人」のシーンは「おおっー!」と声をあげてしまいました。(もう一箇所「おおっー!」がありました。)
昭和13年にこんな凄いことしていたなんて、ハヤフサ・ヒデトさんは勿論素晴しいけれど、スタッフも素晴しいと感激しました。
「にしすがも活動写真館」は私が申し込んだときはまだ残席があるので家族・友人とご一緒にという感じだったのですが、今日はお天気も良くて暖かだったことも手伝ってか、立ち見が出るほどの盛況で、関係者の方が喜んでいました。
映画が映画ですからご年配の方が断然多かったです。
「検証すがも愛〜ハヤフサ・ヒデトをさがして」の制作者の岩井成昭さんの話のあと、「検証すがも愛〜」「争闘阿修羅街」が上映されました。
「検証すがも愛〜」の中でのご年配の方の話。
「当時の小学校は給食などなかったから、弁当を持ってくるか、家に食べに帰ってよかった。大都映画のロケといえば朝日小学校の近くの白泉寺と決まっていた。昼食の帰りにロケに会ってしまうともう学校に帰るのを忘れてね。」
映画終了後、ちゃんと白泉寺に寄ってきました。特別広いといったほどの境内ではありませんでしたが、ここで十四郎様も撮影したかも・・・・。
女性の方は「撮影所の塀がとても高くて監獄の塀のようだった。」別の男性は「子どもたちはとにかく塀の中へはいってみたかった。」
「検証すがも愛〜」でハヤフサ・ヒデトの直弟子の池田督さんが病院で「争闘阿修羅街」をご覧になって喜ばれた笑顔がとても素敵でした。
池田さんはご自分では「弟子」とおっしゃっていましたが、助監督も俳優も、ハヤフサさんについての本の監修もなさったのですが、昨年11月22日に逝去されました。
晩年のハヤフサさんの写真は年を召されてもスターという雰囲気がいっぱいでした。
体育館が会場でしたが、大都映画のポスターのコピーが少し飾られていました。
十四郎様は「奇人豪傑三人旅」、八重子様は「神州曼荼羅峡」「暴れ道場」。
(中村半次郎さま 2005年2月5日)



品川さん最新インタビュー(’05/2/8付日刊ゲンダイ東京版夕刊)

現在は、なななんと、演歌の作詞家だと。鳥羽一郎の「彼奴」「生命燃やして」宮史郎「女の劫火」など8曲ほど出したそうです
6年前、骨腫瘍で助骨2本切除したとか。
「ボクが一番影響を受けたのが近衛十四郎さん。あの人の殺陣はまさに芸術品、人を斬るとはこういうことだろうと思わせる殺気がありました。
素浪人と花山で7年間以上、女房といるより近衛さんの顔を見ている時間の方が多かったですからね。
焼津の半次の役、はあまり好きではなかった。おかげで、コメディーがかったジジイの役しかこなくなっちゃた。
平成11年高島礼子の「極道の妻たち死んでもらいます」が、最後の映画。これぞ時代劇、っていう映画を撮りたいなあ。」とか。元気でなにより。
花山大吉のスチールも掲載されていました。(快傑赤頭巾さま 2005年3月9日)


金子吉延さんから伺ったお話

近衛さんにも品川さんにもよくして戴いたと伺ったことがあります。
そういえば、金子さんにこんなお話も伺いました。
それは、撮影所でのこと。
金子さんのお母様が撮影所を歩いていた時のこと。向こうからいらっしゃった品川隆二さんが、深々と頭を下げられたんだそうです。
お母様は自分の後ろに何方かスターさんがいるのかと思い、後ろを振り返ってみたのですが、だあれもいない。なんと品川さんは、金子さんのお母様にご挨拶していたそうなんです。お母様は、「自分にまで」と感激なさったとか…。なんとも品川さんのお人柄が垣間見える素敵なエピソードですよね(上手くニュアンスが伝わらなかったらゴメンナサイ)。
(貴日さま 2005年3月28日)



松方さんのコメント(名曲ベストヒット歌謡〜1960年代ヒットパレード〜(テレビ東京)’05年3月28日放送)

テレビ東京で7時から昭和35〜44年のヒット歌謡を特集した3時間番組がありました。これに弘樹がゲスト出演してちょっとコメントをしていました。
ちょっことでしたが十四郎様のお話。
@「三波春夫さんはお客様は神様です。」から、三波さんの舞台(かコンサートか?)をおやじに観にいけと言われて観にいきましたと弘樹が言ってました。(三波さんも新潟で十四郎様と同郷ですもんねぇ。)
A司会の竹下景子さんに「松方さんはお父さんからなにかプレゼントは?」と聞かれて「父親からですか。往復ビンタぐらいですかね。あまり物をもらった記憶がないですね。」と答えました。ゲストのビリーバンバンのお一人が「そのすばらしいお顔を、きれいな顔はお父様のおかげですよ。」と言ってくださいました。
(中村半次郎さま 2005年3月29日)



野監督の切ない思いで話(1)

日本映画専門ch(’05年4月9日放送)での小野登監督インタビューです。
途中、何とも優しいお顔の十兵衛姿のこのちゃんの写真もあり、嬉しく、そして切ないインタビューでした。
小野監督とこのちゃんは、S13年、大都時代からのお付き合い。でも、このちゃんは戦争、小野監督は東宝と、それぞれ別の道を歩んでいたので、やっとお二人一緒に仕事ができたのが、東映が本格的にTVに進出しようとした最初の「柳生武芸帳」だった。
このちゃんは「俺はTVスターになろう」と決意、このちゃんの方から、小野ちゃん(と呼んでいたらしい)とTVで「柳生武芸帳」がやりたいと申し出てくれた。
それまでは、小野監督は、少ない機材や乏しい人材を使ってのTV番組制作や、新人を育てるための映画という仕事が多かったが、この時は、初めて本当のスターとの仕事、このちゃんとは意気投合し、ほんとに楽しかった。亀岡の公園で125カットの殺陣シーンをあさ10時から撮った時は、「俺を殺す気か」と。
「忍びの者」と「武芸帳」でシリアスキャラで売ったこのちゃんと品川さんで、何かやれないか、ということで、くだけたものにしようということで「月影兵庫」になった。二人とも、役作りに相当苦労したと思う。
原作者のの南條さんがおりて、でも視聴率がいいので続けてくれ、ということで、めでたい名前にしようと「花山大吉」になった。大吉の名前と、焼津の半次という名前は、ゴロのいい物にしようと、森田新さんと上月プロデューサーとひねまくった。最高視聴率32%。
「僕しかできないの、近衛を扱うのは」と、小野監督。「上には強い、ばばあ〜っと言う。でも酒好きで、時間守ってやらんと。」6時になると、「仕事するんじゃないよ、小野ちゃん。酒飲むんだよ。」神経使った。他の監督は、1〜2回でイヤになるほど扱いづらい。でも、結婚前から自分のこと知ってる小野の前では、地でいいんだと思ってただろう。
酒で体を痛めてた。だから、顔を見て、どこのシーンから撮ったらいいかを決めた。ホンの順なんて行けないときがあるから気をつけていた。
TVでスターになりたいと言った(このちゃんを)、「やっぱり生かしてやりたい」から。だから、こっちは、台本を完全に頭に入れて現場に向かった。
(俳優さんと監督のコンビネーションがうまくいった作品ですね、と、インタビュアー)
素浪人シリーズはロケが多くて、近衛も気が晴れ晴れしてただろう。北海道から指宿まで。九州が好きで、よく歩いた。宿屋では、共同生活、11時頃寝させて、朝起こして。彼は、あいつだったら俺は恥かかない、という気があったんじゃないか。
「いただき勘兵衛」のころは、すっかり健康がダメになっていた。本人はもう、精神的に映画の撮影所を拒否してた。登校拒否のように、撮影所に行くのもイヤになってきた。その頃は、上の人も下の人も、移動して東映の雰囲気が変わり、寂しさがあったし、頼る者がいないジレンマ。
酒飲んでても、過去の話が多かった。その頃は、小野監督も別の作品にかかっていた。
死に顔見るのがつらかった。最後は、忠臣蔵〜大石内蔵助と主税を親子で〜みたいな話をした。小野監督は、その頃から映画を撮らなくなる。
ー思い出に残る作品は?
柳生武芸帳、伊賀の影丸、大岡越前(木村功さんゲストの回)
ー忘れがたいシーンは?
柳生武芸帳でこのちゃんが人を斬ったあとのアップの、がーっときてはあはあ呼吸する顔。残心を大切にしたいというのを発揮してくれた。
(2005年4月9日)


野監督の切ない思いで話(2)

「撮影所拒否症」に関しては、そういえば近衛死去の週刊誌記事に「晩年は『俺はもう撮られすぎたよ』と言ってぶらぶらしていた」と言うようなことが書いてあったのを思い出しました。その時はもっと近衛が見たいという思いで「なんでそんなこというのかなあ、まだまだ俺は近衛が見たいんだよお、顔出してくれよ」と思ったことも思い出しました。
(大地丙太郎監督 2005年4月10日)


「俺は用心棒」第一話のエピソード

「おぬし、春雷を斬ったな!」・・もちろんこの台詞は、「俺は用心棒」での山川大蔵(近衛)の名セリフなのですが。
(キンちゃんさま 2005年5月10日)

この第一話は、「俺は用心棒」を3〜4作撮り上げたのを見た上月プロデューサーが、「シリーズとしての迫力が弱い」として急遽、なじみのこのちゃんを呼んで、特別ゲストとして撮影し、第一話にしたものです。
(ま〜さま 2005年5月10日)



サワダ音楽学院発表会(2005年5月15日 於:京都会館)での品川さんレポ

今年も京都会館まで行って参りました。ダンナが楽屋のドアを開けると、「よお、いらっしゃい。」と顔を覚えていてくださり、中に入るよう声をかけて下さいました。先生は最近、松方弘樹さんに頼まれて松方さん主演の「男は黙って血を流す」という映画に出演されたそうです。先生曰く、東映全盛期のコテコテのヤクザ映画でヤクザの親分を演じたそうです。「たぶんすぐにVシネマで見れるだろう。」とおっしゃってました。
私達と話している途中、先生がバンドマスターの方に「曲の出だしがスティック強めなのをブラシで。」と指示されるお姿を見て、ダンナは小声で「プロッぽいねえ。」と喜んでいました。
先生のお体の調子ですが、先月、反日運動が起こる1週間前に中国に針治療に行かれ、今は毎月病院に通われているそうです。
しかし、見た目は昨年と同じくお元気で、時折目を大きく見開いてお話なさったり「こうなったらぶったおれるまで俳優をやり、ぶったおれるまで作詞をする!」と断言なさるお姿は、正に「焼津の半次」さんそのものでした。カッコエエ!の一言です。
今年のサワダ音楽学院の発表会は、とても盛況で1500席がほぼ満席でした。
皆さん艶やかな衣装を身にまとい、楽しそうに歌っていらっしゃいました。
(まさおちゃんの妻さま 2005年5月17日)



福本清三さんのお話(2005年6月29日付「日刊ゲンダイ」より)

ぼくがお兄ちゃんと呼んで親しくさせてもらっているのが松方弘樹さん。
豪快さでいうたら、お兄ちゃん以上の人はいてませんね。お父さんは近衛十四郎という人。親子二代にわたって世話になり斬られてますけどただ立ち回りでいうたら、おやっさんの方がすごかった。「柳生武芸帳」シリーズの時、見事なんは逆手斬りでね。下からビュンと刀を斬り上げて、バサーッですわ。〜略〜
立ち回りも豪快やけど、それ以上に豪快やったのが、私生活。お金遣いもすごい!30人、40人連れて出掛けるなんてしょっちゅうです。〜略〜
お兄ちゃん、おやっさんと同じ「柳生十兵衛」は何回もやりはったけど、立ち回りはおやっさんには勝てませんでしたね。お兄ちゃんには悪いけど、親はなかなか超せないもんややなぁ、と思いました。
(ひろちゃんさま経由で、快傑赤頭巾さま 2005年7月1日)

福ちゃんの本に「近衛さんに斬られるのは気持ちがよかった、でも早すぎていつ斬られたらいいかわからんので<すみませんもうちょっとゆっくりしてください>あんな重たい刀を簡単に振りまわすんやからほんまにすごい人です。でも体にはあたりません上手いですから・・・>」と書いてありました。
一度、本物をみてみたかった・・なんていまさら。(のりりんさま 2007年6月16日)


「花山大吉」リメイクの複雑な思い

東京新聞 1995年(H7)2月21日 「松方弘樹が素浪人 花山大吉 〜亡父の人気作を復活」
故近衛十四郎の主演で人気があったテレビ時代劇シリーズ「花山大吉」を、息子の松方弘樹が復活、テレビ朝日で4月1日に放送する。
近衛とコンビだった品川隆二の役は今回は田原俊彦。中略(あらすじ)
おからが好物でネコが嫌いな剣豪・花山大吉と、威勢がよくて慌て者の渡世人・焼津の半次というコンビは前作通り。役を引き継ぐ松方は「おやじのシリーズが高視聴率を取り、それがこの撮影所に張り出されて“すごい”と思ったものだ。何とか前の作品をしのぐものにしたい。おやじは袴だったが、僕は着流しにする」と言い、父を強く意識している様子。流石に親子、扮装すると父にそっくりだ。シリーズ化を目指して張り切っている。
もうひとつの某新聞 同じ日付  「25年振り松方弘樹で花山大吉」
前半は大体似たようなことが書いてあり以下、「以前から松方さんとご一緒したかった」という田原。「30%の視聴率を取る位の作品にしたいですね。」と、久し振りの時代劇に意欲を見せる。一方、松方も「トシちゃんは演技が弾けていていい。天性の勘もよさを感じる」とベタぼめ。「新しい感性で、自分なりの新しい花山大吉を作りたい」とシリーズ化を狙っているようだ。
とあります。金山の坑道入り口でポーズを決める二人の写真も掲載されており、これだけ読んだらもう期待するしかないじゃないですか、皆さん!「ネコが嫌い」という一文に?感もありましたがこの発表から38日間をどれだけ首を長くして待ったことか。小学生時代、特撮ものの新番組が始まる時のワクワク・ゾクゾク感と同じ感覚を抱きながらTVの前に座ったものです。(三太夫さま 2005年7月4日)


近衛さんとこの坊や

時専チャンネルの「瓦版」(’05年10月1〜2日放送)の弘樹の話です。
美空ひばりさんは初対面から5年ぐらいしてやっと「松方君」と呼んでくれたそうです。
それまでは「近衛さんとこの坊や」だったそうです。
(懐メロ番組のゲストで弘樹が出演したときの話では、ひばりさんが初めて声をかけてくれたのはデビューして3年ぐらいで「あんた〜、近衛さんとの坊や?」との言葉だったそうな。)
撮影所では弟がいたから、常に「近衛さんとこの兄ちゃん」だったと。
(撮影所では子役で出ていた祐樹のほうが先輩になりますもんね。)
十四郎様については「(弘樹が)若い頃、口では悪口雑言でしたが、かわいがってくれていたんでしょうね。今思えば。おやじの主演の映画ではずいぶんいい役所につけてもらった。まだ全然腕がないころで。有難かった。」というようなことを言ってました。 (中村半次郎さま 2005年10月2日)


昭和20年代ごろのご近所(「荒川の人」bT2  『ほっとたうん』1993年4月号(52号)より)

友人が教えてくれました。
石川弘義成城大学教授(社会心理学)の記事がWEBにあり、以下の文章が載っていたそうです。

─いずれにしろ、町屋は少年時の思い出がいっぱい…。
石川教授: 「本当に懐かしい。友人も町屋のせんべい屋とか。長屋の隣に近衛十四郎一家がいて、松方弘樹とも遊んだな。この間会ったら、じゃー家主だったんだなんて笑ってました。常磐線で中学に登校途中、南千住と北千住の間に、例のお化け煙突が一本に見えるところもあった。隅田川、荒川でもよく泳いだし、尾久と町屋の間に池があって大きな草魚がいるので、フルチンで入ってはいかんと怒られた」(中村半次郎さま 2005年10月9日)


「アニー」の楽屋で

5日、青山劇場で祐樹の「アニー」の舞台を観賞してきました。(今日が千秋楽でした。)
大地監督がお誘いくださり、大地監督のお知り合いの女性お二方と、公演が始まる前に祐樹の楽屋にお邪魔しました。
もう、感激、感動の30分でした。当然そこには夫人の江夏夕子さんこと目黒千代さんもいらしたわけで。
眼の前、約50センチほどの距離に祐樹がすわっているのです。
私達が伺ってすぐあとに、祐樹のゴルフ仲間のご一家がいらっしゃって。
私達が先にソファにすわっていたものですから、祐樹がまめまめしく動き、そのご一家のために折りたたみ椅子を出して・・・・。勿論、ご一家が帰られたら、またまめまめしくその椅子もしまって・・・・。
祐樹のスキンヘッドをたっぷり拝見させていただきました。

「いただき勘兵衛」の話が出たので、仙太の武器になった手ぬぐいの石の事を聞きました。
中身は本物の石だったのですかの質問に「中は発砲スチロール、適度な錘をその発泡スチロールにつけてあった。」とのこと。

舞台「アニー」は楽しかったです。
大地監督は最後は「うるっ」としたようですが・・・・。
素敵な舞台でしたが、私としては舞台より楽屋での対面が超感動物でした。
以前京都映画祭で少しお話できたものの、大地監督が私を「ファン代表」と紹介してくださってお話できたのですから。(中村半次郎さま 2006年5月7日)


「素浪人天下太平」の原題

近衛さんの、病気からの再起第一作目を飾った主演ドラマは『素浪人天下太平』です。が、ドラマが始まる数ヵ月まえの『週間テレビガイド』には、「四月にはNETから、近衛十四郎主演による『花の素浪人』がスタ―ト」と書いてありました。おそらく企画段階での題名が『花の素浪人』だったのでしょう。
それが『素浪人天下太平』と、7文字の題名に変わったのは、それ以前の主演作が『素浪人月影兵庫』、『素浪人花山大吉』といずれも7文字の題名で、しかも高視聴率を取っていることを意識したからではないでしょうか。(三四郎さま 2006年6月3日)


釣り堀

「元気がでるテレビ」の300回記念放送のビデオが出てきました。その中で、十四郎様の釣堀の話が一言だけありました。
 ビートたけし「(十四郎様が)道楽でやっていたんでしょ。」
 弘樹「そう。それで(十四郎様が)釣りたい魚を釣堀に入れてね。」
以上。これだけの話ですが、一応ご報告まで・・・・。(中村半次郎さま 2006年6月26日)


荻原流行さんが語ったこのちゃんの殺陣

(NHK・BSの映画音楽番組で)音楽の休みの間に荻原さんが出て来られ少しの時間司会者とトークがありました。司会者が映画はどんなのが好きなんですか?と質問されて「私は、時代劇ばかり見てまして特に近衛十四郎さんの映画が好きでした。近衛さんあの松方弘樹さんのお父さんです。もうあの人の殺陣が凄いので映画を殆ど見て殺陣を覚えました。」というコメントでした。
荻原さんは、かなりのこのチャンファンだと感じました。現代の時代劇と見くらべると近衛十四郎の素晴らしさが再認識されるでしょう。(yukimente2000さま 2006年8月8日)


かなりの子供好きだった

近衛さんは子供を相手に芝居をするとき、滋味の溢れたすごく優しい顔つきになる。それもそのはず、かれはかなりの子供好きだったのである。だいぶまえ、TBSの朝のワイドショーに、目黒裕樹がゲスト出演したことがある。そのときに番組の司会者が、目黒ファンだという視聴者からの、次のような手紙を紹介した。昭和30年代の前半、近衛さんがまだ松竹に在籍していたころ、京都に住んでいたこの手紙の主は、親に連れられて、よく時代劇のロケを見学しにでかけたそうである。そんなある時、ロケ先で出番待ちをしていた近衛さんがつかつかとよってきて、スッと抱き上げ、頬擦りをしながら「うちにもこのぐらいのがいるんだよ」といって目を細めていたことがあったという。
さらに松方弘樹の最初の夫人は、「私はお父様(近衛)には、一度も声をかけてもらったことがない。でも、長男が生まれたときにだけ、よくやったねと、お誉めの言葉をいただいた」といっている。
子供好きの反面、昔気質のかなりの頑固者だったのかも知れない。(三四郎さま 2006年11月14日)


柳生武芸帳への意気込み

先日オークションで東映の友[1963年3月]を入手しましてスタアの近況というコラムを紹介します。「柳生武芸帖・片目の十兵衛」に出演中の近衛十四郎、松方弘樹さん親子は、この作品で近衛さんの豪剣に真向から立ち向う松方さんの忍法とあって、日頃仲の良い親子も仕事では親子の感情を立ち切り、迫力のある立ち廻りを演じようと立ち廻りの研究に余念がないそうな。 ついでにもう一つ 主役の顔 という所に片目の十兵衛の写真の下に 奥行きのある面白さを出すため十兵衛という人物を重厚に演じこの武芸帖シリーズをわたしのライフ・ワークにしたいと意欲を燃やしている
これが日常的ならいいニュースなんですけどなにせ43年前の事ですから申し訳ありません。でも雑誌にこういう記事もあったんですね。
(yukimente2000さま 2006年11月22日)


「大都映画撮影所物語」

今月初めにご案内した舞台 (「大都映画撮影所物語」於:テアトル・エコー)を観てきました。
リーフレットにも舞台の台詞にも大都映画のスター近衛十四郎という名前は出てくるのですが、ご本人に扮した人はまったく出てきませんでした。
ところが、舞台が暗転する時にスクリーンに映る無声映画のチャンバラシーン。
とてもテンポ良くて、かっこよくて、結構現代に通じるダイナミズムなんですが、誰なのか顔がぼやけてるので私ではよく判りませんでした。もしかしたら、近衛十四郎じゃないかなと思うのみ・・・、ところがそのうち可成りくっきり見えた容貌は、とっても若くて美形の近衛十四郎だったと・・・思います(^^;)
もし違っていたらごめんなさいね。
(どの大都映画のシーンだったか伺ったあと)
私が知っている劇団の人がおっしゃるには、近衛十四郎や阿部九州男主演の映画のはずだけど、自分は舞台に出ていて見てないのでよくわからないということでした。私は顔ばかり見ていたので、ポニーテールだったかどうかすら覚えていなくてごめんなさい。
最初は女性達の駕籠(だったと思います)を侍達が襲って、助けに入った男(多分侍姿だったと思うけど・・・)が水辺までチャンバラしながら追い立てて、侍達はちょき船で逃げるというシーンでした。
彼かなと思ったシーンではヤクザ姿の立ち回りでした。白っぽい着物に文字模様で、襷をした喧嘩支度でした。
台詞も具体的には記憶してないのですが、「スターの近衛十四郎さんとはちがって、我々(大部屋)は・・・」みたいな表現だったように思います。
(KAYさま 2006年11月29日、12月3日)



母子のいいお話

(このちゃんは、母姉妹の強い反対を押し切って、映画俳優になるため家出同然に上京した)
ここからは「ふるさと 長岡の人びと」(長岡市、H10・3発行)の石川徳男氏担当部分からの引用
寅一(このちゃんの本名)が上京した後、(母ミカは)「昔からさげすまされてきた河原乞食といわれる役者で終わって欲しくはない」と、早朝、信心していた町内の神明宮に大成を祈願することを忘れなかったという。
あとに「近衛十四郎」の名で念願の映画界に主役として活躍、その映画が初めて長岡で上映された夜、頭巾で顔をかくし、人目を避けるようにしてスクリーンに映し出された我が子を見に行った(というより会いに行った)、と今も町内の老人たちの間で語り継がれている。
ミカは死の数年前、我が子寅一の大成を心から感謝して、神明宮の大祭に、目黒寅一、芸名近衛十四郎と染めぬいた立派な向拝幕一張を奉納している。
この神明宮に、昭和50年の春、母ミカの三十三回忌法要に帰郷した十四郎が、友人から母の向拝幕奉納の事実を明かされ、改めて母の恩恵に涙して、同年9月15日、自己の名入れの向拝幕一張を奉納したといわれ、この母と子の愛情のこもった二張の向拝幕は、いまも神明宮の氏子代表の手によって、大切に保管されている。(神明宮について、「生まれ故郷西新町の今昔」にらしき場所のお話があります)

(中村半次郎さま 2006年12月15日) 


満点!パパ

NHKBS2で、「お宝TVスペシャル」というのをやっていて、たまたま見ていましたら、懐かしのTV番組「お笑いオンステージ」の「減点パパ」のコーナーの紹介で、品川隆二さんが登場した回が放送されていました。この番組は、毎回ゲストを招き、ゲストの登場前にそのご家族、たいていはお子さんが出て、司会の三波伸介さんがお子さんたちから風貌を聞き、似顔絵を完成させてからゲストが登場して、家族の中でのゲストの姿を、クイズとその解答という形でお子さん方に語ってもらうというものでした。
今回の番組の中で、品川さんは、お子さんが時代劇の俳優になりたいと思っていることなどを知り、またお子さんの作文で涙し、その涙をメガネをかけて隠そうとなさるなど、人間味あふれるその素顔をかいま見ることができました。

三波伸介:元嗣(もとつぐ)君が将来、何になりたいと思っているかを、お父さんはご存じでしょうか?
品川隆二:う゛ーん ねぇ。あのー、僕は歯が悪いもんですからねぇ、歯医者さんになって、お父さんの歯を治してやるというのがね、あのー、小さいときの…だったんですよ。
三波:夢ね。
品川:えー。
三波:ふんふん。
品川:ですから、歯医者さん…じゃないっすかね。
三波:歯医者さんは、これはちょっとねぇ…(青い×マークを似顔絵にはりつける)
品川:うーん…。
三波:ヒントは別にこれといってないんですけど、お父様の職業に関係があります!
品川:(一瞬間をおき、少々驚いて)えっ?(会場が笑う、それにつられて品川さんも笑顔)まさか、まさかとは思うけど、
三波:現代劇と時代劇…
品川:親父の仕事をやりたいなんてンじゃないでしょうね?
三波:どっちのほうでしょうか?現代劇か時代劇か!
品川(お子さんの方を向いて)そ、そういうことか。そういうことか。(三波さんに向き直って)いやぁ、言わなきゃいけないですね。(ここで半次がわからないくせに事件の真相を考えようとしているときみたく、顔全体を下に向け上目遣いに唇をへの字にする表情!)時代劇!

三波:(赤い○印をはる。会場拍手)お答えは、なんと時代劇の俳優さん。
品川:こまったなぁ、こりゃあ…。

(カット)

三波:大きな声で。お父さまはじっとそこで聞いてて下さい。
元嗣:(作文朗読)「僕のお父さん」オクワキ元嗣。僕のお父さんは、映画俳優です。でも今は、舞台のお仕事が多いようですが、一生懸命お仕事に励んでいます。ぼくが赤ん坊の頃から、お父さんは、お風呂に入れて下さったり、また、おしめを換えてくれたそうです。今でも休みの日には一緒にお風呂に入ります。ぼくが一番楽しみにしていることがあります。それは、毎年夏休みに旅行に連れて行って下さることです。また来年も連れて行って下さい。お願いします。お父さんは、お仕事の休みの日はよくゴルフに行きます。賞品をよく頂いて帰るところをみると、相当上手なようです。(ずっと身じろぎ一つせず、目を閉じて聞き入っていた品川さんがこのあたりで深く息をつき、落ち着かなくなってきます)お父さんは、テレビドラマのかわいそうな番組を見ると、涙をポロポロ出して見ています。ちょっと気が短い所もありますが、そんなお父さんが大好きです。これからもお酒とタバコを少なくして、ぼくがおじいさんになるまで元気で長生きして下さい。(ここで下を向き、内ポケットからメガネを取り出してかける)お父さんへ。終わり。(作文を品川さんに渡す)
三波:品川さん、
品川:はいっ。
三波:メガネかけて隠したってダメですよ。真っ赤になっちゃった、ね。じぃっと聞いてて、そわそわそわそわしていらっしゃる。(品川さん照れ笑い)ね。でも、嬉しいじゃないですか。(品川さん、メガネをとる)

(カット)

三波:全部○になりました。
品川:ありがとうございます。
三波:えー、どうも、いろいろありがとうございました。
品川:ありがとうございます。(立って三波さんと、会場に向かってていねいに一礼ずつ)
(花山小吉さま 2007年1月1日)


東映歌舞伎「油小路の決闘」と長年の想い

私の父親は、松竹時代から十四郎ファンをしております。
実演も何回か観ており、客席から舞台写真を撮っておりました。それは「第三回東映歌舞伎」、1964年8月9日の「油小路の決闘」です。2階席右側からで、6枚あります(写真はこちら)。父親いわく右太衛門がメインの公演がしゃくにさわったとのこと。とにかく十四郎、十四郎で観に行ったそうです。

松竹時代は浩吉の影でしゃくにさわっていたそうですが、「まだら頭巾 剣を抜けば 乱れ白菊」で主演をしたことがとてもうれしかったと言っています。

父の幼少時代は葛飾区柴又に住んでいまして、近所に大都映画専門館があったそうです。なんとなくこの頃から十四郎という名前は頭脳に記憶されたようです。

TV版「柳生武芸帳」は日曜の夜9時半。終わると10時半。仕事で朝が早いので目をこすりながら見ていたようです。土曜日ならよかったのにと。

母との初デート?で無理やり見せたのが「砂絵呪縛」。自分の妻になる人が十四郎ファンじゃないといやだったそうです。映画が終わると母も十四郎ファンになっていたそうです。(私の母はすでに他界しています)

1981年ごろ、テレビ埼玉で「砂絵呪縛」が放送されました。UHFのパラボナアンテナを持っていた友人にザラザラの画面ながら録画に成功。ビデオデッキが一般家庭に普及する前でしたので奇跡の録画でした。長年の父親の宝物でした。
今では東映チャンネルでニューマスターの砂絵呪縛が録画できたのでそれを見ています。

1990年ごろでしょうかBS2で月影が放送されたのは。父親に親孝行と思い、秋葉原に飛んで行き、チューナーとアンテナを速攻で買ったものです。
後日、父親は十四郎の見せ場だけビデオに編集して楽しんでおりました。

その後、松竹と東映から十四郎主演のビデオが次々と発売された時期に一気に買いあさっていました。いまでも未開封にしてあるものがあり、「これはあとのお楽しみじゃぁ」などと言っています。
今では東映チャンネルやその他専門チャンネルのおかげでたくさんの十四郎が見れるようになり、ますます元気になっている父です。時代劇は十四郎、西武劇はジョン・ウエイン、歌は田端義夫 と長年頑固にがんばっています。
私、息子は、月影から本放送で見ていました。ウルトラマンと同じぐらい月影、花山でした。
父親の部屋には、十四郎、ジョンウエインの写真、ポスター、ビデオ、DVDがずらり。お客さんがいつも度肝を抜きます。
(ZUNちゃんさま、ノンベエのターちゃんさま 2007年1月9日)



藤純子さんのお話

かなりむかし、日テレのバラエティー番組でのことだった。何を主題に放送されたのかはわすれたが、司会が笑福亭鶴瓶で藤純子が出ていたことは記憶している。
そしてどういう理由からだったか話題が昔の東映京撮に及び、鶴瓶が「松方さんのお父さんは、立ち回りがお上手だったそうですなぁ」と、話しを切り出した。それに対し「ええ、本当にキレイな立ち回りでした」と、ひときわ目を輝かせ、頷きながら答えていた藤純子の姿が印象的だった。
(三四郎さま 2007年1月13日)


愛のキューピット?!

昭和16年2月27日、横浜の伊勢佐木町にある「横浜大都館」で、大都映画の『時代の狼煙』(監督、大判龍三)が公開された。この映画には阿部九州男、近衛十四郎などとともに美空ひばりが出ている。だが、この美空ひばりは、あの歌姫とは同名異人で、松竹歌劇団在籍中に大都映画の助監督に誘われて映画に転身した。そしてなんと、近衛の紹介によって知り合った香取栄二という俳優と、昭和18年に結婚したのち引退しした。ちなみにこの頃、後に歌姫となるいまひとりの“ひばり”は、加藤和枝という名の、まだ少女だった。(三四郎さま 2007年3月21日)


「華麗なる一族」の猟銃は・・

上沼恵美子さんの番組に目黒さんが出演されて話しておられたそうですが、映画「華麗なる一族」(1974)に目黒さんが万俵銀平役で出演されて、狩猟のシーンがあり、そのシーンは目黒さんが他のお歴々を指導されたそうです。で、そこに出てくる猟銃は全部、近衛さんのモノだったそうです。
松方さんも目黒さんも銃に関してはお父さんよりも中村(萬屋)錦之介さんに教わったようです。錦之介さんは鉄砲が唯一の趣味で、歌舞伎界から映画界のいろんな人に教えていたそうですから。里見浩太朗さんも教わってたようですし。
(↑右京大作さま 2007年4月17日、20日)
(↓ 右京さまのお話のあと、同ビデオを捜してくださって。 中村半次郎さま 2007年4月17日)
>狩猟のシーン
まず祐樹、大介(佐分利信)、鉄平(仲代達矢)、美馬中(田宮二郎)、そして狩猟場現地の案内人らしき人2名。ということで、6丁。
これ、ほんとにぜぇ〜んぶ、十四郎さまのものだったとは。本物だったんですね。私はてっきりモデルガンかと思っていました。
祐樹のは銃身が細くて長めで、佐分利さんのは太くてやや短い猟銃でした。


お茶目な一面

かなり昔、「時代劇100選」という番組で、山城新伍さん司会で、兵庫が11位くらい、大吉が75位くらいで、兵庫第1シーズン「宝の山が・・」の映像がうつり、山城さんが、「何の映画か忘れちゃったけど、近衛さん、刀をおさめるシーンを、めんどくさいと言って、刀をぬくフィルムの逆回しでやった事があって、あの人は殺陣がうまいから誰も解らなかったみたい。」と言っておられました。
「血煙街道」で、片手で鞘も見ずに雪の中、刀を納めて去ってゆく近衛さんも、そんなおちゃめな面があったんですね。
(久米仙人さま 2007年5月6日)



戦後のチャンバラ規制とデン助さんとの親交

昭和20年8月、日本は敗戦国として終戦を迎えた。そして、占領軍の統治するところとなり、軍国主義から民主主義に転換する過程において、チャンバラ映画と歌舞伎の上映、上演が禁止された。武家社会の封建制度や復讐の信条に立脚した話の内容が民主的でないというのが、主な理由だった。しかし、これはあくまでも建て前で、本音は時代劇の仇討ちものなどで、日本人が連合国へ復讐心をかきたてることを恐れたのである。
そして、この時代ものへの禁忌条項は、剣劇一座へも課せられた。もっとも、映画や歌舞伎と違って影響力が少ないと思われたせいか、上演禁止処分を受けるまでには至らなかったが、仇討ちもののを出し物とすることは許されず、刀を抜いての立回りも30秒以内に制限された。そればかりでなく、CIE(民間情報教育局)の演劇課担当者が劇場へ足を運び、立回りが30秒を超えると文芸部や奥役を呼びつけて、戒告を与えた。
昭和21年にシベリアから復員した近衛十四郎は、一座の公演を地方巡業からスタートさせているが、CIEの目が光っている都会の劇場で興行を打つことをはばかったからだろう。
それが証拠に、昭和23年には、剣劇そのものが浅草から姿を消してしまっている。
そして、近衛は北海道巡業中に、デン助こと大宮敏充(この頃は敏光)と関わりをもった。召集によって北海道に送られていた大宮は、終戦と同時に小樽で除隊。夫人とともに、そのまま小樽に住みついていたのである。しばらくブラブラしていると、ある日、突然、MPがジープで乗り付け、札幌へ連れて行かれた。理由は、彼がコメディアンであるとともに、劇作家だったからである。
大宮は、戦時中、戦争鼓吹するような脚本を書いたか、今はどうかということを、しつこく調べられた。そして、当たり障りのない返事をしたことが取り調べ担当官に気に入られ、仲良くなり、マッカーサーの名が入った、一七条ほどの項目が書かれている文書を手渡され、すぐに釈放された。その文書には、故なく人を斬ることはいけない、人身売買はいけないといった、映画、演劇に関する禁忌条項が記されていた。
以下、三笠書房刊、大宮敏充著『デン助 浅草泣き笑い人生』より―
その後、近衛十四郎一座が、北海道を巡業して歩いていた。ところが、もってきた狂言が「宮本武蔵」なんですね。「宮本武蔵」は、近衛君の当たり狂言でしたからね。ところが、「宮本武蔵」は、その何カ条かの全部にひっかかるんです。ひっかからないところはない。
あれだけ、故なくして人を斬ったりするのもないし、人身売買もあるし…、それに、そのほかの、「森の石松」「此野村大吉」というような芝居も、みんなあぶない。
それで、ぼくが、いちいちチェックして、仲の良くなった軍曹のところへ行き、「これは、戦争中にやったもんで、こういうふうに訂正してやるようにしているが、ここんところで人を斬るのは、これをぬかすと、ここはどうしても話が続かないから、大目にみてやってくれ」と、頼み込んで、ひっかからないように工作した。それで、ポンとハンコウ押させて、彼(三四郎註、近衛)に許可済の台本を渡した。その晩は、彼と夜中の三時頃まで飲んで、気がついたら、往来のまん中に寝ていて、腕時計を盗まれてしまった。これも思い出です。
この、北海道での近衛との関わりがいつのことであったのか、その正確な年月を大宮は記していない。しかし、彼は昭和23年に浅草へ戻り、「デン助劇団」を旗揚げしている。したがって、昭和22年頃のことだったはずである。
さらにまた、大宮は近衛の当たり狂言が、「宮本武蔵」「森の石松」「此野村大吉」だったことを熟知している。大宮は、戦前戦中と浅草の舞台で活躍しており、近衛も一座を旗揚げした当初は浅草の劇場を基盤に公演をしていたことから、北海道で関わりをもつ以前から、何らかの交渉があったとしても、けっして不思議ではない。ちなみに、剣劇における、刀を抜いて30秒という立回りの制限は、昭和24年に解除。ところが、今度はストリップの台頭により、既存の実演劇場が次々とストリップ劇場へと鞍替えしていったために、剣劇一座は都会の劇場から閉め出されたかたちとなった。そして近衛一座はドサ回りの小屋芝居の様相を呈し、昭和26年頃まで日本全国を経巡ることとなったのである。
(三四郎さま 2007年6月11日)


『全員集合』のライバル

もう、いまから数十年まえのこと。TBSのあるドラマで、賀原夏子がお茶を飲みながら一人ブーたれてる場面があった。何が気に入らないのか、時々着けっぱなしのテレビに目をやり、「相変わらず、かわりばえしないわねぇ。ちっとも面白くないわ」と、ドラマにまで八つ当たりをする始末。
ところが、その賀原夏子が見ているテレビから、ある時代劇の主題歌の、イントロをスローで演奏する耳慣れた音楽と効果音、そして独特の矢声が聞こえてくるではないか!そう、彼女が八つ当たりしていたドラマは、あの『素浪人花山大吉』だった。
この当時、花山がまだ放送されていたかどうかは記憶にない。しかし、花山は安定した視聴率を稼いでいた偉大なるワンパターンドラマで、しかもTBSのドル箱だった、ドリフの『全員集合』の最大のライバルだった。
ひょっとすると、これは賀原夏子の口を借りた、TBSの花山攻撃だったのかも知れない。

全員集合といえば番組の名物だったドラマ仕立てのコントで時代劇をやったことがあり、戸上城太郎が出演したことがあった。もちろん悪い役で。
でも、いつもと芸風が違うとかなんとか長介に突っ込まれて、笑いをかみ殺しながらドリフと舞台を走り回っていたのは、忘れられない。
戸上城太郎も、テレビのトークショーに出演していたのを見たことがあるけど、優しい感じで、訥々と物を言う人だった。

(三四郎さま 2007年7月6日)


長嶋番記者とこのちゃんの関係は?

きょうから、高校野球の神奈川大会がはじまり、その開会式の模様を女性アナウンサーが実況していた。そして、ふと岩田暁美のことが思い出された。
岩田暁美はラジオ日本の長嶋番記者であるとともに、青田昇がコメンティターを務める、絶対巨人主義を謳った『じゃじゃ馬直球勝負』という番組のアシスタントをやり、さらには巨人の試合の実況もした。
その岩田が、ある時『じゃじゃ馬〜』のなかで、甲子園に移動する巨人の選手を東京駅で待っていると、新幹線のホームで偶然松方弘樹を目にし、「そのあとで木田投手の顔を見たら、なんでこんなに造作が違うんだろうと、非常にげんなりした」といって笑いを誘った。
そして、すかさず青田が「松方って、近衛十四郎の息子だろ。オヤジのほうはよく知ってるからなぁ」と、非常に気になることを言った。つまり、聴いていたほうからすると、個人的な付き合いがあったとも受け取れる話し方だったのである。
近衛が東映時代劇で活躍していた頃、青田昇は阪神タイガースのヘッドコーチを務めたことがあり、また後年のことだが、松方が「親父は医者から酒を止められているにも関わらず、ソファーに横になって、飲みながらタイガースの試合をテレビで観ていた」とかたっていた。
つまり、こんなところから個人的な付き合いがあったことも想像されるのだが、『じゃじゃ馬〜』でもすぐに話題が巨人に移り、近衛をはじめとして、青田さらには岩田暁美もすでに亡い。
したがって、自分にとってこの青田の近衛発言は、問題を残したままの懐かしい思い出となってしまった。(三四郎さま 2007年7月8日)



『覇剣―武蔵と柳生兵庫助―』縄田氏の解説

久しぶりに、鳥羽亮の剣豪小説『覇剣―武蔵と柳生兵庫助―』を読み返した。これは、宮本昌孝の『剣豪将軍義輝』、池宮彰一郎の『四十七人の刺客』と並ぶ、五味、柴田、池波、藤沢といった大家が逝って以降の傑作時代小説と、個人的に思っている武蔵と柳生兵庫助が決闘するに至る顛末を描いたもの。
そして、作品自体の面白さもさることながら、巻末での、繩田一男氏のこの小説の解説も大変ふるっている。
かれは、この小説を「大胆な視点で二大剣客を骨太に描ききった作者の会心作」で、「物語の核となるのはあくまでも剣豪同士の、それも人間としての内面的ドラマを抱えた者たちの一対一の対決。そしてストーリーはその対決のためにのみ進行してゆく―実は、チャンバラ映画と同様、剣豪小説の汲めども尽きせぬ面白さの源泉もこのシンプルな構成の中にこそ存在するのではないのか」と説く。そして、この小説を読んで思い出したのが、近衛十四郎主演の東映映画『十兵衛暗殺剣』だったという。
そればかりか、永田哲朗の『殺陣―チャンバラ映画史―』を引き合いに出し、そのなかで紹介されている映画のラストで講談調のヒーローが何十人もの悪人をバッタバッタと斬ってめでたしめでたし、とする東映時代劇に対して飽きたらぬ近衛の思いは、「正に卓見である」と言いきっている。
そして、最期に本書でいう無刀取りの極意「―脇差しも帯びていないときには、鉄扇にて向かえばよい」に相当する箇所が出てくる映画として、またまた近衛十四郎主演の『柳生武芸帳 剣豪乱れ雲』挙げ「―それにつけても、これだけ優れた剣豪小説があっても、もはやそれを演じることのできる役者がいない―それのみが残念でならないのである」と、最期をしめている。
チャンバラは、もう過去のものになってしまったのかも知れない。(三四郎さま 2007年7月10日)




松方兵庫を演じるにあたって(「やじうまプラス」「スーパーモーニング」「スクランブル」「徹子の部屋」産経新聞、スポーツ報知)

やじうまプラス 
兵庫の扮装で「やじうまプラス」終了間際にほんのちょっと出演。
スーパーモーニング  
「おから」が「狐うどん」になったりと…いろいろ設定に変化があるようですが唯一「おんなじ〜!」と思ったのは 胡桃ごりごり でした!兵庫の時代劇が清涼飲料水のように〜!とおっしゃっていましたね〜!
(Nezuさま 2007年7月17日)
「クルミ」の裏話外国産だそうです。十四郎さまの持っていたのも同じだったそうです。日本産は小さいので手に持ったとき、見栄えがしないそうですが、音がはるかに良いそうです。クルミをこすり合わせる音は録音部さんが入れ替えたそうです。
また、長い刀を抜くときに腰をこうひいてと見せてくれました。
品川さん、76歳になられて、髪は白かったですが、若々しかったですね。
「スクランブル」:夕刊フジに載った記事の一部を読まされました。撮影に当たって墓前に「エライ大役や、見守ってくれ」とあいさつ。
「朴訥な親。小言はあっても演技指導はされなかった。月に一度家に帰ればいい方。お茶屋から撮影所に通ってたほど。京都にゆきつけの店がたくさんあって僕もツケで飲んだ。」(中村半次郎さま 2007年7月17日)
松方兵庫が生出演してくれました(品川隆二さんは録画で少し出てました。感激)。クルミと刀の長さ(通常は103p、兵庫は120pで見事な抜刀を披露してました)とガムの話をされておりました。 (WMさま 2007年7月17日)
ガム=「弘樹が撮影中にガムを噛んでいるのは何故ですか?」という話です。理由は@昔、酒を飲んでいた頃は前日残(酒臭い)で相手に失礼だから。Aガムを噛むことであごを動かし、活舌がよくなるから。だそうです。(中村半次郎さま 2007年7月17日)
徹子の部屋
十四郎さまについて、特別新しい話はありませんでした。
でも、「血煙り街道」「城取り」(裕次郎さんとの対決シーンは姫路で撮影)のときは、弘樹も見に行ったとのこと。
酒を止めたのが母親が亡くなった年齢の58歳のとき、更年期は父親の亡くなった63歳で、両親が警報を出してくれたようでとの言葉が印象的でした。

(中村半次郎さま 2007年7月17日)
「父親がやったのは、『氷点』に継ぐ視聴率で、(TV朝日の時代劇)最後を飾るにふさわしい作品だとオファーともらったが、『月影兵庫』は親父どのの十八番でしたから。これをやるに関しては結構心構えが(要った)」と話されてました。このちゃんの兵庫の時の殺陣を見ながら、「恐い顔してますね、あんな恐い顔ボク、できない」このちゃんの父親像として、「昔人間で、うちでは堅物だし絶対家長。今はない父親像ですね。でもやっぱり、結構努力はしていました。セリフ覚え悪いんですよ。努力はしてました。それは見てました。」(じゅうよっつ)
 「感慨深いものがあります。作品自体が偉大だし、息子が追いつこう、追い越そうとしても、親は越せませんよ。(ドラマの)本筋は何も変えないつもり」と松方は話す。
産経新聞(’07/7/15)より (リンクは将来つながらなくなる可能性があります)
「近衛さんの殺陣(たて)は時 代劇の歴史の中でもナンバーワン。ぼくが知ってる嵐寛寿郎さん、大友柳太朗さんよりもすごい。刀を持たせたら日本一。そこは(松方)弘樹ちゃんもかなわな いはず」。品川はかつての相棒だった近衛・兵庫の立ち回りのすばらしさをこう語る。
17日の初回、品川は松方・兵庫が出会う謎の老人という役で登場する。「どうやって出たらいいのか戸惑いました。焼津の半次だと いうわけにはいかない。おれも昔は楽しいふたり旅をしたことがある。キップのいい奴だったなあ。そういえばお前さん、どこか似てるねえ。そんな感じになり そう」と話す。
品川は76歳。ここ数年はドラマから遠ざかっていた。「おれはやっぱり、チャンバラの役者。役者として出る話が来たときはうれしかったねえ」。名作の復活を喜びながら、時代劇についてひと言。
「時代劇は文化です。役者だけでなく、演出家、大道具、床山さんもみんな財産。大先輩のころからの積み重ねでいまがある。かつらと衣装をつけたら時代劇になるというのは大間違い。見た目よりも、においが大事」
スポーツ報知(’07/7/15)より (リンクは将来つながらなくなる可能性があります)
東京、京都でタクシーに乗るたびに「お父さんの役をやるんですね」と声をかけられ、松方は周囲の反響の大きさを痛感、「初 めは嫌でね…」と正直な感想を吐露した。「おやじの代表作だし、非常に大事にして演じてきたものだから」と思い悩んだこともあったという。

旧作の「月影兵庫」は、父親の“近衛兵庫”の重厚な殺陣で大人気に。「作品自体も偉大。追いついて追い越そうとは思いますけど、意識したらできませんから。でも、僕なりに今風の『月影 兵庫』を演じたいと思う」。
父・近衛は「殺陣の名手」として名を馳(は)せた。空き時間があれば、父の殺陣を見に撮影現場に足を運んだ。 「(父の殺陣は)日本一、いや世界一だと思っている。日本刀を持たせたら世界一でしょうね。ただ、年が29も違いましたから、教えてはくれないもので ね」。父親からの直接指導はまったくなく、試行錯誤しながら独学で習得した。」


チャンバラトリオ山根さんのお話(「チャンバラ黄金伝説」より)

このちゃんの逆手二刀流は実は切られ役の人が合わせにくい事から柳生十兵衛をするのが決まった時殺陣師と相談の上にできたものだったらしいです。「何で左手を前に出すんだろう?」と・・それでその左手に逆手に刀を持ったら実にきれいで何ぼでも斬れるし切られやすくなったとのこと。 そして切られ役をものすごく可愛がってくれたって、酔いが回ると「もっといいチャンバラがしたいねえ」「ワシは剣豪や!」って・・・その通り!!悔しいなぁせめてあと十年生きててほしかった。(のりりんさま 2007年7月24日)


近衛十四郎の弟子?

近衛がまだ元気だった頃、居合い切りをネタにしている芸人がいた。政治評論家の三宅久之に似た雰囲気で、けっこういい歳の人だったのだが、テレビの演芸番組にはよく出ていたかなりの売れっ子だった。
ちょうどテレ朝の『アフタヌンショー』で近衛の葬儀が放送された日、同番組にその芸人が出演した。
ところが、単なるゲストとして呼ばれたのではなかった。何をやらかしたのかは記憶にないが、司会者にそうとう吊し上げられ、しきりに弁解をしていたのである。
そして、その合間に口にしていたのが「さっきの近衛十四郎は私の師匠なんだから!」ということだった。
つまり、「近衛十四郎の弟子である自分がそんなことをする訳がない」という言い訳だったのだが、それ以降、その芸人をテレビで見ることはなくなった。
ちなみに、その芸人が本当に近衛の弟子であったのかは不明。(三四郎さま 2007年8月2日)


親子で斬りまくる近衛・松方(「週間大衆 昭和42年10月26日号」より)

このちゃんが「素浪人月影兵庫」、松方さんが「野次馬が行く」をやられていた時代の、インタビュー。
ー「グルー・ひろき」という独立プロのお話
親子だけの独立プロを作る。次男の目黒祐樹も米国から帰って加わり、代表は近衛夫人。彼女が一番辛辣な批評かだというので、二人とも頭が上がらないとか
「なんとなく立てようということになったんです。もちろんいい仕事しようということですよね。自分たちでやろうということと会社から持ってくるものとは違うですよ。ま、舞台、テレビ、映画、何でも屋ですよ。もちろん松方の場合、歌もあるし・・・。それに個人だと税金の問題も煩わしいでしょそれを事務所で処理してもらおうと。自分たちで仕事をなにすると言う時期になってきたんですよ。」
ー「月影兵庫」について
「なんかね、テレビの浸透力というか、ものすごいですね。映画やってる時と違って、子どもからおばあさん、あらゆる層が知ってくれるんですな。やっぱりテレビというのはすてられんと思いますね。・・ボクが前にやった『柳生武芸帳』ね、ああいう堅いものはどうしても限度がありますよ。茶の間は堅いものより明るい柔らかいものですね。(好調の)理由は崩したということですね。松竹の時からそうだったですけど、近衛というと剣豪という、そのイメージを徹底的にくずしてみたんです。これが受けたんですね。みな「ほう、近衛さん、こんなこともできるんですか」なんてね。演技する側とホン屋さんとやり合ってくずしていく、そんならもっとこうやってやろうというのでね。このセン以上ひどいことはいかんということは引いてあるんだけど。」
ー映画人としての苦労
「映画人としてボクくらい苦労して生き残った人間はいないでしょ。映画人としては最高苦労したですからね。戦争あり、巡業の苦労有りでね。だからボクなんかは、口幅ったいいい方だけど、芸能界でも貴重な存在だと思うんですよ。ボクの年代でやってるのは少ないですよ。だからボク自身を大切にしようと思ってるんです。まず、月並みなことだけど健康第一ですね。」
ー右太プロから日活、大都へ
「右太プロでは、「御用」からやったんですよ。仕出しもやりましたしお茶くみからなんでも経験ありますよ。それから日活へ引っ張られたんだけど、これが役者じゃなくて野球で引っ張られた。・・・野球が盛んなときはその会社が隆盛なときですな。例外なく言えるような気がするな。・・・1年経ったら主役をやらせるという話だったんですけどね。オヤジ(故白井戦太郎監督)と一緒に、新しく亜細亜映画っての作って2,3本撮ってから大都映画に入ったんですよ。」
ー実演から映画界への復帰
「それからご存じのように大映になったんだけど、4大スターっていうのがいてね、これじゃボクには役は回ってこないと思って実演に走ったわけです。ドサ周り10年くらいやってたでしょ。これがいま身に付いていますな。なんと言っても自分が座長で座員を養って行かなきゃいかん。多い時は60人からいましたからね。大一座ですよ。戦後もみんな映画界へ戻ったけど、よし俺だけは実演で頑張ろうとやったんですが、ストリップに負けたんですね。なんと言ってもハダカは強いですな。それでやむなく、単独映画界へ殴り込みですわ。ボクの故郷の長岡の河井継之助と言う人の映画を自分で作って、それをみやげ品に復帰しようとおもっんですけどね。あの当時は写真がたりなくてね、プロダクションから買ってたでしょ。ずいぶんあちこち借金してね、作ったんだけど、ついに途中で制作放棄してハダカで戻ったんです。結局芝居しててもね、やっぱり映画だと思ってましたね。実演やっても退歩してなかったし、なんだちっとも変わってないんだなと思いましたよ。ボクの劇団は厳しかったですからね。ホンもしっかりしてたし。だから京都市民映画祭で第一回とか第五回の男優助演賞をもらったんですよ。」
ー戦争について
「(「軍歌集」を出した松方さんが「軍歌は詞に心がある」といったことに対して)あの当時は日本人は必死だったんですよ。・・・ボクくらい軍隊を嫌ったのはいないですね。現役は3年いたけどね、ボクくらいずぼらなでたらめな兵隊はいなかった。階級問題にしても、2年兵になったらあんなのんきなとこないです。神様ですな。2年兵になると、3年兵は仏様ですな。もう2年兵の生活なんて、どんな財閥だろうがえらい人だろうが、あんな生活できませんよ。」
ー松竹、東映時代
「ボクの場合、利口な回りかたしたのかな。松竹の全盛期に入ったし、でも松竹の場合、役者を大事にしなかったからね。特に時代劇のほうね。辞めた時もがたがたいってたけど。東映へ来た時、東映の全盛時代だったでしょ。最高に忙しいけど、その間にテレビに手を染めたでしょ。ついていると言えば言えるかな。とにかく松竹辞める時でも強引にね、修行に行くんだといって辞めたんです。激戦地だったでしょ。時代劇スターの大半が東映に集まってたんだからね。それで映画全てがおかしくなった時テレビに行って、これが当たったでしょ。なんと言っても、一生懸命であり真剣でなきゃだめですよね。真剣になってかかっていけば何か道が開けるという確信を持ってますね。」
ー奥さんについて
「(恐妻家?と聞かれ・・)さあどうでしょうね。やっぱりそういうことはいえるでしょうな。女房は恐いものですよ。形の上では暴君のようにいわれてるけど・・・臆病なんだな。やっぱり愛してる、てことですよ。」
「(浮気は?・・)ああもう年中ばれてますよ。女の勘てのはものすごく鋭いモンだと恐れいってんですよ。ばれたって当たり前ですよね。男が浮気の一つもしないくらいじゃしようないしね。・・・そう言う時は怒鳴りつけるね。」
ー時代劇の不振について
「(打開するためには)やっぱりなんか時代を見つめなきゃならないということでしょうな。テレビが出たのもショックだったし、映画という面白いものができて50年、60年と娯楽の王座を独占してきたでしょ。その時代が長すぎたんですよね。今はもう、時代劇をしょって立っていくスターがいなくなったでしょ。前にはやはり人の真似できない美しさなり方式なりを身につけた人がたくさんいましたでしょ。それがみなしのぎを削っていたわけだから。こういう大スターがいなくなったことが、時代劇の魅力をなくした原因でしょう。何かきっかけと言っても、それで昔のような夢よもう一度というような具合にはいかんのですよ。そりゃ必死になって衰退したものを覆そうと研究してるんdねすよ。しかし、結局は時代の流れなんですね。」
ーやくざ映画について
「こりゃもう、会社の営業のことを考えたらしようがないじゃない。一応続くまでやるでしょ。ほかの代わるものが出てくるまで続くでしょ。ところがね、ヤクザものに出ると局のほうでうるさいですね。イメージが変わるというんですな。どうしても嫌いますな、テレビのほうでね。・・・テレビのほうで主役やってると映画のほうでかたき役やっちゃいかんのですな。僕ら構わないと思うんだけど、ものすごく神経質ですな。」
ー信心
「(易とか気学を信じる?・・・)そんなこと全然関係ないですね。まあ方角とか何とか、人に逆らってやることでもないから聞くけど・・・無神論者みたいなものですよ。そう、家を出る時お守りを持ってるということね。無神論者みたいだけど、下帯にね、お守りさん縫い込んでいありますよ。それがないとどんな仕事も出来ない感じですな。」
記事には、(近衛家の?)応接間のような場所で、笑顔でインタビューに応じるこのちゃん、松方さんのお写真が数枚。
(thanks 中村半次郎さま 2007年8月12日)


京都市民映画祭の記事3つ 「親子で斬りまくる近衛・松方〜実演から映画会への復帰」中の京都市民映画祭助演男優賞に関連して)

京都市民映画祭について(京都新聞S29年11月4日より):市民から要望されていた京都三撮影所製作による作品を揃えたコンクール形式の映画祭が市の主催で今年はじめて実現「第一回市民映画祭」として来る二十七日彌栄会館で華々しく幕を開く。芸能記者会、松竹、大映、東映の在洛三撮影所が後援、国際文化観光祭の一つ。映画産業の京都市で占める重要さを市民に認識させようというのが大きな狙いで、これを契機に映画産業の新機軸を打ち樹てようとするもの。市民映画祭参加作品は昭和二十八年11月一日からさる10月末日までの一ヵ年に松竹、大映、東映の在洛三社で製作され、すでに公開を見た作品のうち、各社から選出された五本あて、計十五本の作品につき、市民の投票により、各社ごとに最高点を得た作品一本あて計三本を市民映画祭当日に公開、この三本中最高点の作品に対し市長賞が贈られる。
また京都芸能記者会のメンバーにより最優秀作品に金賞、部門別(脚本、監督、撮影、音楽、編集録音、美術、主演男優、女優、助演男優、女優、特殊)に銀賞が贈られる。
さる二十八日発表以来、映画ファンをはじめ市民の関心と人気を高め、数多くの投票が市観光局事務課に殺到している。投票は次の作品のうち各社別に最も優秀と思われるもの一本あてを官製往復はがきに明記の上、5日までに観光事務課へ送付のこと。市民の投票により選定された優秀作品と芸能記者会賞は8日に発表、また市民賞投票の結果、各社一本ずつ三本とも最高点のものを投票された人は発表会に招待される。
参加作品は、松竹=忠臣蔵、江戸の夕映、濡れ髪権八、刺青女難、びっくり五十三次 大映=花の三度笠、お菊と播磨、山椒大夫、舞妓物語、噂の女 東映=笛吹童子、里見八犬伝、ふり袖月夜、暁の三十八番斬り

1度目の助演男優賞授賞について(京都新聞S29年11月8日より):▼最優秀映画賞=大映「山椒大夫」 ▼市民賞=松竹「忠臣蔵」、大映「山椒大夫」 東映「笛吹童子」 ▼部門賞=▽主演男優=片岡千恵蔵(東映)各作品 ▽主演女優=田中絹代(フリー)「山椒大夫」「噂の女」による ▽助演男優=近衛十四郎(松竹)各作品 ▽助演女優=該当者なし ▽脚本=八尋不二、依田義賢「山椒大夫」による ▽監督=溝口健二(大映)『山椒大夫」による ▽撮影=宮川一夫(大映)「山椒大夫」「噂の女」による ▽美術=水谷浩(フリー)各作品 ▽録音=大谷厳(大映)「山椒大夫」「噂の女」による ▽努力=大曾根辰夫監督(松竹)「忠臣蔵」による ▽特別功労=足立伶二郎(殺陣、東映)、大野松治(大道具、松竹) 山本卯一郎(装置、大映)
市民票総数は15015票。(忠臣蔵が一番得票、二番が山椒太夫、三番が東映の笛吹童子)

2度目の助演男優賞授賞について(時代映画S33年11月より):第五回京都市民映画祭は、11月5日、パレス東映で行われるが、当日表彰される昭和33年度最優秀映画賞、各部門賞が次の通り決定した。
△最優秀映画賞=「炎上」(大映作品) △脚本賞=菊島隆三(松竹作品「夜の波紋」「女侠一代」による) △監督賞=内川清一郎(松竹作品「夜の波紋」「女侠一代」による) △撮影賞=宮川一夫(大映「炎上」「赤胴鈴ノ助、三ツ目の鳥人」による) △美術賞=鈴木孝俊(東映「大菩薩峠」第二部による) △音楽賞=該当者なし △編集賞=官本信太郎(東映「かんざし小判」その他による) △録音賞=福本賢洋(松竹「大江戸の鐘」による) △照明賞=岡本健一(大映「炎上」による) △主演男優賞=伴淳三郎(松竹「欲」その他による) △主演女優賞=該当者なし △助演男優賞=中村鴈治郎(「炎上」その他による) 近衛十四郎(松竹「天保水滸伝」「女侠一代」による) △助演女優賞=中村玉緒(大映「炎上:「江戸は青空」による) △新人賞=沢島忠(東映「かんざし小判」その他のざん新な演出による) △特別賞=松浦築枝(東映、映画俳優としての多年に渡る実績と新人育成) 特別功労賞=木村よし子(松竹、昭和3年以来松竹時代劇全作品の結髪を担当して貢献)、「日蓮と蒙古大来襲」特殊撮影スタッフ(大映、特殊撮影に画期的成果を収めた) 林政信(東映、メイキャップ係昭和四年日活京都入社以来メイキャップ技術に専念、東映に至り、特に天然色時代劇のかつら下地に独創性有り) 牧野省三賞(第一回)=片岡千恵蔵(東映、多年に渡る映画俳優として実績および日本映画会への貢献) (thanks レンスキーさま 2014年5月28日)


猟犬がほしい

週刊新潮(S34年6月8日号)の「掲示板」というページでは、著名人がこんなもの探しています、という記事を載せていて、その中でこんなものが欲しいと・・・。、
「最近仕事の暇をみては山鳩の猟に出かけるようになったから自分の猟犬がぜひ欲しくなりました。しかし何分にも幼犬から訓練して成育させる時間を持てない多忙さなので、すぐに猟で活躍できる犬で”ポインター”かあるいは”セッター”(雄雌問いません)どちらの種類でも結構ですが、二歳ぐらいの成犬で、主にキジ、山鳩ように訓練された猟犬を希望しております。」
ちなみに、掲示板の下段には、以前に掲示板に掲載されたものについて、「お譲りします、ご一報ください」の返事も載っていますが、果たしてこのちゃんは、うまく猟犬をゲットできたのでしょうか?!
(thanks レンスキーさま 2014年5月28日)





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