思い出ばなし1 | 掲示板のお話、見逃したまま消えていった、、そんなことさせません!みなさまのお話で甦る、このちゃん像です。 でも、困る、極秘だから、という方はご一報くださいませ。 |
「思い出ばなし1」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。最初のタイトルで飛べます。あとの2つは、その1、2つ先にあリます。 | ||
噂の殺陣に目を丸くした! | 月影兵庫のころのインタビューは、 | 月影兵庫のころのインタビューその2 |
不遇の剣士、近衛十四郎! | CM親子共演 | CM親子共演の裏の悲しいお話 |
鯉自慢 | 鯉騒動 | 近衛邸? |
アフレコは苦手 | しかし、剣さばきは随一! | 刀の重さ=3kgだってだす! |
目黒さんが語るには(サンテレビ’95年) | クルミ疑惑 | お気に入りの殺陣師 |
「素浪人」の相棒といえばこの人! | このちゃんの素顔を聞いた半時 | 引き続き、東映太秦映画村・近衛レポ |
またまた、東映太秦映画村・近衛レポ | ワイドショーのこのちゃん | 不器用な生き方 |
ある晩の写真 | 「おもいっきりテレビ」のこのちゃん25回忌 | 「おもいっきりテレビ」その2・刀 |
戦前の目黒家・東京 | 生年月日はいつ? | 映画界復帰についての推測 |
でも、やっぱり先輩の前では緊張? | 素浪人シリーズの終わりと芸能界引退の理由 | 引っ越しマニア |
松方さんが語る思い出 | 「怪談 お岩の亡霊」の直助権兵衛 | 松竹時代に見抜かれていたコメディー資質 |
ご自身が語る人生 | 大好きな釣りの時も、さすがプロ! | 芸名の由来 |
クールな品川さん | 右太衛門さん親子とこのちゃん親子 | 愛弟子・阿波地大輔さんのお話 |
「いつみても波瀾万丈」での目黒さんのお話 | 目黒さんの著書の後書き「オヤジの弁」 | 松方さんインタビュー(「星にスイングすれば」より) |
「松方弘樹いいたい放談」より | 上原げんとさんと松方さんと五木ひろしさんと | 「ぶらり途中下車の旅」で目黒さんのお話 |
親父は厳しかった | 松方さん目黒さんの思い出ばなしなど1〜8 | |
「思い出ばなし2」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。) | ||
ちょっと話しにくいこと | 厳しい! | 釣り堀の名は「釣り天国」 |
殺陣のうまいのは | 品川さんが語られた思い出 | 目黒さんとの初共演 |
目黒さん出演の「ごきげんよう」 | 迫真の演技は本当に痛かった! | 川野知介さん&小指のツメのこと |
「我が人生に乾杯!」での松方さんのお話 | 品川さんにとっての半次は | 小西博之さんのお話 |
十兵衛役目黒さんの決意 | 大都時代の近衛邸と撮影所 | 「俺は用心棒」ゲスト出演の経緯 |
目黒さんの十兵衛衣装、「月影兵庫」最高視聴率、「ローニンサムライ」、松方さんの殺陣評 | 誰が一番殺陣が上手いと思われますか?の問いに | |
映画界復帰作品と松竹端役の頃 | 「浪漫工房」の松方さんインタビューで | 沢田音楽学院発表会(’04)での品川さんレポ |
二度の召集の意味 | 大都移籍直後、時代劇ポスターの中で紹介される | 丹下左膳をやらせたい俳優 |
錦之助さんとの関係 | 寄付に大枚だされてびっくり | 殺陣師・上野隆三さんのお話 |
京都映画祭・目黒さんと山内監督のトーク | 京都映画祭レポ2 | 京都映画祭レポ3 |
一時保存資料 | カラミ役に斬りかかる殺陣 | 大都映画の意義 |
柳生十兵衛の片目と殺陣について | 「博徒対テキ屋」の楽屋おち | このちゃん譲りの目黒さんの性格 |
にしすがも活動写真館レポ | 品川さん最新インタビュー | 金子吉延さんから伺ったお話 |
松方さんのコメント(歌謡番組ゲスト) | 小野監督の切ない思い出ばなし(1) | 小野監督の切ない思い出ばなし(2) |
「俺は用心棒」第一話のエピソード | 沢田音楽学院発表会(’05)での品川さんレポ | 福本清三さんのお話 |
「花山大吉」リメイクの複雑な思い | 近衛さんとこの坊や | S20年代ごろのご近所 |
「アニー」の楽屋で | 「天下太平」の原題 | 釣り堀 |
萩原流行さんが語ったこのちゃんの殺陣 | かなりの子ども好きだった | 「柳生武芸帳」への意気込み |
「大都映画撮影所物語」 | 母子のいいお話 | 満点!パパ |
東映歌舞伎「油小路の決闘」と長年の想い | 藤純子さんのお話 | 愛のキューピット?! |
「華麗なる一族」の猟銃は・・ | お茶目な一面 | デン助さんとの親交 |
『全員集合』のライバル | 長嶋番記者とこのちゃんの関係は? | 『覇剣―武蔵と柳生兵庫助―』縄田氏の解説 |
松方兵庫を演じるにあたって | チャンバラトリオ・山根さんのお話 | 近衛十四郎の弟子? |
親子で斬りまくる近衛・松方 | 京都市民映画祭の記事3つ | 猟犬がほしい |
「思い出ばなし3」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。) | ||
『城取り』の桝田利雄監督が語る近衛十四郎 | おからと言えば・・・ | 席放浪記(色川武大著)』より |
「ぴったんこカン★カン」の松方さん | 「テレビ探偵団」の朝潮関 | 森田新さんインタビュー |
「わが街 わが友」より | 「戦国の剣豪」上映会レポ | いろんな写真のお話 |
近衛・松方対談 | ある夜の品川隆二 | 剣聖小川金之助とこのちゃん |
殺陣の工夫 | 「ぶらり途中下車の旅」その2 | 骨の髄まで剣豪だった |
殺陣師 | 伏見の釣堀で | 「意外に評価が低い近衛十四郎の実力」 |
抜き打ちタイムNO.1 | 病後に出た味 | 3代つながった「君を信ず」 |
「一場の夢・・・」より | 「東京人」より | 「月影」放送時の品川さんインタビュー |
松方さんの座長公演時のケガ | 少年の思いは・・ | 星を喰った男 |
別冊近代映画「ひばり捕物帖 折鶴駕籠特集号」 | 福本清三さんインタビュー | かなわぬ夢 |
水の江瀧子さんの訃報で | 「開運なんでも鑑定団」に出た刀 | 素浪人シリーズの影響 |
目黒さん親子インタビュー | 北島三郎公演(’10・6〜7)で | 松方さんの楽屋の写真 |
「十三人の刺客」の松方さんは | 品川隆二さんトークショー | 目黒祐樹さんトークショー |
松方さんの額の皺 | 北沢典子さんトークショー | 上野隆三さんトークショー |
もうひとつの「浪人独り旅」 | 「超近現代史3」で | 清水一角と柳生十兵衛評 |
実現しなかった近藤勇役 | ディープピープル「時代劇をいろどる殺陣」 | 「ごごばん!」でのお話 |
テレビ時代劇60年の軌跡 | 高田宏治先生トークショー | 生まれ故郷西新町の今昔 |
「思い出ばなし4」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。) | ||
近衛十四郎逝去報道と忘れられない殺陣 | 面影を求めて | 「アフタヌーンショー」の葬儀レポート |
知らされなかった訃報 | かつての同僚、水島道太郎さんのコメント | 松方弘樹さんのお話 |
葬儀の日は仕事を休んで | 高田浩吉さんのお話 | 週刊各誌の訃報記事 |
新聞各紙の訃報記事 | お墓と天国池のこと | |
「思い出ばなし5」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。) | ||
大宅壮一のおしゃべり道中 | 近衛十四郎一座のころ | 「十兵衛への愛着」 |
「親の私が言うのもおかしいけれど」 | 松竹時代のインタビュー | 「喧嘩も我が青春のスポーツ」 |
ちょっと遠慮がち?な座談会 | 松方さんデビュー当時の話題、2つ | 素浪人の頃 |
ご夫婦の歴史 | 写真記事4つ | 「スタジオパークからこんにちは」 |
「落語時代Vol.2]の品川さん | オニワバン!(時専ch)で | ご近所の品川さん |
「スタジオパークからこんにちは」の松方さんのお話 | 甦る!チャンバラ映画 永遠の時代劇スター名場面集 | ”剣豪”近衛十四郎の子弟愛 |
近衛邸を垣間見る写真記事 | 「時代劇まつりin巣鴨」 | 趣味も豪快だった |
小野監督のこと | 東映のシステム | 殺陣についての自負 |
スタッフから付き人へ、そして俳優へ | 「スタジオパークからこんにちわ」のはなさんのお話 | レジェンドトークなど |
大吉・半次の声帯模写 | 近衛邸を訪ねる | 小説「素浪人 月影兵庫」のあとがき |
「時代劇オニワバン」品川さんインタビュー | 京都映画祭レポ(2015年) | 「市川、近衛のデビュー時代」より |
「近代映画」の松方さんの記事より | 「時代劇は死なず・・」でのこのちゃん評 | 釣り堀・天国での記念写真 |
「ファミリーヒストリー」 | 「ザ・インタビュー」 | 「徹子の部屋」(2017年6月) |
『マキノ雅裕の映画界内緒ばなし』 | 「ザ・ドキュメンタリー〜松方弘樹」 | ラジオ深夜便(2018年3月) |
ラジオ深夜便(2018年6月) | 「徹子の部屋」での目黒さんのお話 | 居合のプロも認める! |
目黒家の歴史 | 工藤堅太郎さんからの思い出ばなし | 三島ゆり子さんインタビュー |
噂の殺陣に目を丸くした! 「俺は用心棒」第一話、私見では、この作品の近衛十四郎さんは本当に素敵ですよ。 「月影」「花山」を彷彿とさせる溌剌とした姿は、当時を知ることのできる唯一の映像として私は何回も繰り返し観ております。 当時、私は「いただき勘兵衛」しか知らなかったので、これを初めて観たときには「これが噂の近衛十四郎の殺陣か・・・」ともう驚きのひとことでした。 ただし、作品の出来としては、栗塚旭主演にもかかわらず、いきなり近衛氏が登場すると、見事に番組がころっと変わったように感じられ、正直言って「目が丸く」なりました。(爆) (高蘭さま 2001年12月29日) 月影兵庫のころのインタビューは、 東映は、旗本退屈男の市川右太衛門、遠山金四郎などの片岡知恵蔵の二代重役スターを筆頭に、右門や丹下左膳の大友柳太朗、また錦・千代・橋蔵といったキャストが勢ぞろいしていたので、どちらかというと、近衛十四郎は、あまり目立ちませんでしたね。(それでも主役はつとめていますが)近衛は、その後のテレビドラマ月影兵庫で大当たりし、あるバラエティー番組出演時も、昔の映画時代を一言も訊かれず、ただ、管ドラマの話題に終始していたことを覚えています。 (ZAPOさま 2001年12月31日) 月影兵庫のころのインタビュー その2:このちゃん兵庫を語る (写真:兵庫の格好で足を組んでイスに腰掛け、手を重ねて笑っている。もちろん左手にクルミ。イスの後ろには刀が立てかけてある。) 「素浪人月影兵庫」にほとんどの精力を費やしている。視聴率が30%を下がらず、この間米寿(88回)の祝いをやった。 「自分でもこんなにヒットするとは思わなかったですよ。だいたい、私はシリアス物が好きですが、これはややユーモラスなドラマでしょう。 まぁ、普通の視聴率をかせげばいい、と軽いつもりでかかったのが、こんなにごひいきにしていただいて、、。お客様がひいきにしてくださる以上、こちらも一生懸命がんばってこたえねばなりません。ハイ」 また、「ええ、舞台をやりたいのです。」が、「素浪人・・」にほとんどの時間を割くため、時間がとれないこと(年10〜15日)、「いやぁ、傑作なんですよ」と、ご自分で設計した風変わりな家(京都)が、古都保存法に引っかかって、設計をやり直したことを語っておられる。「当たり前ならもうその家に住んでる筈なんですけど、設計のやり直しで、完成は8月になりそうです。ハイ」インタビュアーの感想:万事この調子で実直な反面、本人は気づかないが、どこかユーモラスなところがある。それが「素浪人・・」にもにじみでて、ヒットの要素になったのだろう。 (’68年5月1日付け読売新聞夕刊より抜粋) 「月影兵庫」で花が咲いた、不遇の剣士、近衛十四郎! 「殺陣ーちゃんばら映画史」社会思想社現代教養文庫/三一書房で、永田さんも書いていられるが、戦後の(近衛の)時代劇映画の境遇は決して恵まれていない。 新東宝ではその他大勢、松竹では、高田浩吉の相手役、敵役、主演も何本かあるが添え物扱い。 東映へ映るが二番線の、第二東映ニュー東映時代のモノクロ時代劇での主役、柳生十兵衛にしても、戦前日活時代劇スター阪東妻三郎のマネ、のように思われていた。 花が咲いたのは、やはり、テレビの月影兵庫からだろう。 (快傑赤頭巾さま 2002月2月14日) CM親子共演(CMに関しては、「このちゃん本 スコッチウィスキーB&W・・」、「思い出ばなし5 サミーディビスJRに対抗して」にもあります) 近衛十四郎がなくなる1、2年前だったか(はっきり思い出せませんが)、近衛十四郎と松方弘樹が2人でCMに出ていたと思います。 ワインのCMだったかな。2人でグラスをカチンとならして、飲むようなシーンでした。 そのとき、素浪人の姿ではない近衛十四郎を見たのが初めて(スーツかタキシードのようなものを着ていた)で、新鮮な印象だったのを覚えています。 (半公さま 2002年1月1日) CM親子共演の裏の悲しいお話(CMに関しては、「このちゃん本 スコッチウィスキーB&W」、「思い出ばなし5 サミーディビスJRに対抗して」にもあります) 私は夕方のニュースで(近衛さん逝去の報道)見ました。時間は1分足らずだったと記憶しております。 ただ死去報道の直前まで松方弘樹と2人で出てるCMが放映されてましたので違和感を感じたのを覚えております。 CMとは洋酒のものでスーツ姿の近衛を初めて見たのです。 頭は薄く眼鏡をかけ想像していた以上に老けていると思ったものです。 近衛CMセリフ(松方に)「お前にもようやく酒の味が判るようになったんだね。←このような内容でした。 (焼津の半ちゃんさま 2002年2月20日) 近衛のCMはワインではなくウィスキーかブランデーだったように記憶しておりますが・・・(焼津の半ちゃんさま 2002年2月21日) 鯉自慢 (近衛邸については、「思い出ばなし5 マイ・ホーム拝見」にもあります) 以前のカキコ(このちゃんが鯉が趣味だというお話)は、それこそ晩年の近衛の自宅を紹介した番組で、古風な純日本式の、かなり広い佇まいと、広大な敷地の邸宅でしたよ。 そこに大きな池があり、鯉にエサをやる近衛が、「この鯉はとても高いんですよ。」と自慢していました。 なるほど、云百万と思える鯉がたくさん飼われていました。 ただ、近衛ファンには申しわけないですが、ちょっと自慢が鼻について・・・、月影・花山の私のイメージが、少し崩れた瞬間でした。 (ZAPOさま 2002年1月1日) 家の門構えは立派で、このちゃんは和服姿でした。(ZAPOさま 2002年3月29日) 鯉騒動 「スターのお宅訪問」という番組で十四郎様の家を拝見したとき、廊下の一部が(曲がり角になっているところ)ガラス張りになっていて、その下で、鯉がゆったりと泳いでいたのが印象に残っています。鯉と言えば新潟です。 スポーツ新聞に小さく載っていた話。 普段は仲の良いことで知られる近衛十四郎と松方弘樹の親子。でも、喧嘩をすることもある。 その原因は飼っている鯉のこと。鯉が元気がないと十四郎が「お前の飼育が良くない」、弘樹「オヤジが変なものを食べさせたんだろう」と始まるそうです。 (中村半次郎さま 2003年11月8日) 近衛邸? 「ダウンタウンDX」(’02年3月28日)スペシャルに松方さんが出られて、京都の豪邸が紹介されていました。犬小屋が動物園の檻ほどもあり(それも1匹の為に)とにかく広い。あそこって近衛さんの家だったんでしょうか?で、玄関に流氷をわたってくるナントカ鷲の剥製があって「これ、オヤジの頃からあるんだ」といっておられました。 (右京大作さま 2002年3月29日) >30センチくらいの石垣の上に二間くらいの門があってあーやっぱりあの家ですねぇ。松っちゃん(ダウンタウン)が「砦のようだ」と言ってました。 玄関の扉には”二つ違い輪”の紋のようなデカい装飾がありました。 (右京大作さま 2002年3月30日) 日本テレビ「ダウンタウンDXスペシャル」中の「松方弘樹の敷地1000坪の大豪邸を旅する」で、松方さん宅の玄関にカタジロ鷲の剥製。 「おやじの代から。おやじがどっかから調達したんでしょうね」 (thanks中村半次郎さま 2003年11月14日) アフレコは苦手 近衛さんの剣さばきが好きな私ですが。 昔「素浪人シリーズ」の録音をやってた人から、「近衛さんはアフレコでも画に声をまったく合わそうとしないからまいったよ」ということを聞いたことがあります。 私は半次さんとのやりとりの声がずれているところが大好きだったので、ますます親近感を覚えたものです。 (bunさま 2002年1月1日) わたしはあのずれているところが何とも好きで、「待ってました」って感じでしたね。 こう書いてるだけで、あのスットボケタ世界にもう一度逢いたいですね。(bunさま 2002年1月2日) (じゅうよっつ注: この件に関しては、「京都撮影所の録音室から」にもお話があります。) しかし、剣さばきは随一! 「十兵衛暗殺剣」この前見たばっかりですが、倉田準二監督の冴えた演出もあり、面白かったです。 私の持っている古い映画資料に、近衛さんのこと書かれてますが、その説明が見事に近衛さんを言い表しているので、紹介します。 −−近衛十四郎ーー 阪妻の豪快さ、大河内のニヒルさ、アラカンの鋭さを合わせたのが近衛十四郎の持ち味だといわれるとおり、立ち回りはダイナミックで迫真力が有り、スピードといい、型のキマリ具合といい、剣豪スターのナンバーワン。 (bunさま 2002年1月2日) 刀の重さ=3kgだってだす! そうでしたか。やはり重さを意識してたんですね。長い間の疑問がひとつ解けました。 それにしても、あの剣さばきには魅了されますね。ひとつの美学です。アフレコの失敗を完全に超越してます。 (bunさま 2002年1月2日) 1995年、サンテレビ(神戸)は、近衛なチャンネルだった。 「目黒祐樹さんが語るには」1〜4 (1〜2は、下にもあります。 また1関連として「思い出ばなし3」にも。) アメリカに映画の勉強の為留学していた時、母親からはずっと手紙がきていたのだが、近衛さんからは全く来なかったそうです。 しかし、目黒さんが行き詰ってもう日本に帰りたいと思っていたときに、たった一枚だけ近衛さんから手紙があり、ただ一言達筆で「君を信ず」とかいてあり、大変励まされたそうです。かっこよすぎますねぇ。さすが大正男児。 (岡野さま 2002年1月18日) 愛妻に先立たれ葬儀のあと悲しくて親兄弟で酒を飲んだが、ブランデー5本もあけたため、いくらなんでも飲みすぎだと、「親父、もう酒飲むのはやめろ」といったところ、「なにぃ、お前父親に向かってなんて言い方するんだ。もういいお前なんか破門だ」と怒られ半年ぐらい一言も口きいてもらえなかったそうです。 (岡野さま 2002年1月18日) 近衛さんがどさ回りをしていた頃や映画界に復帰したての頃の生活はやはり苦しく、正月にみかん一箱も買えなかったそうです。 また、大変厳しい人だったようで、近衛さんの前ではずっと正座で、一度も足を崩したことはなかったそうです。 晩酌にもよく付き合わされたそうで、酔うと戦果話などを1,2時間ぐらい長々と話し、その間もずっと正座したまま聞いていたそうです。 (岡野さま 2002年1月19日) 子供の頃、兄弟揃ってよく外で喧嘩していたそうですが、近衛さんは「喧嘩に負けてくるような奴は帰ってくるな」みたいなことをずっと二人に言っていたそうです。 トーク番組に一緒に出ておられたなべおさみ氏によると、あの兄弟の通った後には草も生えないとおそれられてたそうです。 なべ氏も近衛さんのファンだったらしく、「近衛十四郎といえばねぇ、悪役で出ても、思わず近衛さんの方を応援したくなる・・・」みたいなことを言っておられました。 そういえば、司会の姐さんが「えっ近衛さんてそんなに凄い俳優さんだったんですか?てっきりコメディアンかと思った。」みたいなこと言ってました。 おいおい、コメディアンがあんな豪剣揮えるやけないやろ〜確かに花山大吉はコミカルやけど・・・。 (岡野さま 2002年1月19日) クルミ疑惑 (クルミは、太平も兵庫も、持ってました、というお話)ですよね。たしか、考え事するときなんかに「うーん、そうだなー」とか言いながらゴリゴリとやってたような記憶がありますが。 (右京大作さま 2002月2月7日) お気に入りの殺陣師 今日(「素浪人天下太平」第7話「往きはよいよい怖い道」)の殺陣師は、土井淳之祐氏だったから、いつもの太平旦那の殺陣と違ったのです。 でも、走りながらの斬り上げや突き、牽制、左腕のブン回し、背肩面受けなど妙技がいっぱいなので、私は結構楽しめました。 近衛さんは、土井氏がお気に入りだったらしく、晩年のころに「君が一番私の殺陣をよく理解してくれている。 これから先も私も殺陣を受け継いでいってくれ」みたいなことを頼んでおられたそうです。 「月影兵庫」の時は殺陣師助手、「花山大吉」のときは近衛さんの病状が悪化していた中盤以降ずっと殺陣をつけておられたみたいです。 「天下太平」は「めんない千鳥の惚れた女(第15話)」からほとんど、勘兵衛では全話つけておられます。 (岡野さま 2002月2月12日) 「素浪人」の相棒といえば、この人! 品川に関する情報といえば今から10年ほど前うちの母親が出会っております。 当時母は料亭に仲居として勤めており客としてきた品川と出会ったそうです。 丁度朝日放送で深夜に花山を再放送している頃で母が帰宅する時間帯に亡き祖母と2人で笑いながら見ていたものです。 母が品川にその話をすると、「今でも昔の放送を見て喜んでくれるファンが居ると言うことは非常に有り難い!」と感激していただいたそうです。 その頃は舞台中心に活躍されてたそうで、最近では昨年あたり箕面スパーガーデンで催されたカラオケ大会の審査員などにも出ておられたという情報も聞いております。 (焼津の半ちゃんさま 2002年2月21日) (じゅうよっつ注 去年、「暴れん坊将軍」では、ちょっと気の弱い絵師の役で出てらっしゃいました。 息子にどなられ、鼻にしわを寄せているお顔は、少しお年は召しても、「だんなぁ〜」といっていた半次と変わりませんでした。) このちゃんの素顔を聞いた半時 今から7年前、丁度サンテレビで花山を放送していた頃です。 私の家内が初めて見てすっかり虜になり(家内は当時25歳でしたのでリアルタイムの放送は当然知りません)2人で近衛&品川コンビの情報収集の為、東映太秦映画村に出向きました。 その頃、映画村では影十八?とか言う番組を撮影中で幸い60くらいの年輩のスタッフの方とお話しする機会があり近衛情報をいろいろ教えていただきました。その方は近衛と親しくおつきあいがあったらしく素顔の近衛の話に半時間くらい花が咲いたのです。 近衛は無類の釣り好きで趣味が高じて釣り堀の経営を始めるぐらいだったそうです。また、お酒はやはり強かったとか・・ そして麻雀もよく一緒にされたそうですが負けるとパイをぐちゃぐちゃにされて勝ちをパーにされたこともあったとか。 素浪人の近衛からは想像もできない人間近衛十四郎の話を聞き何かほほえましい思いをした一時でした。 (焼津の半ちゃんさま 2002年2月22日) 引き続き、東映太秦映画村・近衛レポート ボタンを押すと解説が流れ、映画のスチールも替わっていくものでした。柳生武芸帳などは当然ありましたが、役者近衛として脚光を浴びたのは祇園の暗殺者からと言うことでした。最初に映ったスチールはやはり浪人姿でしたが、かなり若い(30代?)頃のものでした。颯爽と月影兵庫としてブラウン管に登場した時が50歳。遅咲きの花でしたが、テレビ成功組の第一人者(時代劇では)だと思います。 (焼津の半ちゃんさま 2002年3月1日) またまた、東映太秦映画村・近衛レポート 映画村に東映テレビが制作したすべての番組の小さなパネル写真で並べたところがあり、もちろん「柳生武芸帳」から「いただき勘兵衛」までの近衛主演作のスチール写真も飾ってありました。確か、「柳生」は両腕を腰にあてて胸をはる近衛十兵衛の勇姿で、「カッコええなぁ」と感嘆しました。どうせなら売店でスチール売ってくれれば喜んで買うのですけどねぇ。橋蔵さんの「平次」や里見さんの「長七郎」のスチールなら売っていたのですが・・・。あと近衛サイズの刀や鉄扇、クルミなども売ってあれば絶対買うんですが、あるのは普通サイズの刀と舞用扇子ぐらいでした。(結局それらは買っちゃいましたけど・・・笑) (岡野さま 2002年3月2日) ワイドショーのこのちゃん 多分、「花山大吉」が終わってからだったと思いますが「3時のあなた」か何か、お昼のワイドショーのゲストで息子さんたちと出演されてました。見慣れた素浪人姿ではないこのちゃんを初めて見て、「え〜?ホントにこの人が、、、?」と思っちゃいました。 あまり話されず、息子さんたちの方がたくさん話されたように記憶してます。 (ひろちゃんさま 2002年3月8日) 出演したこのちゃんは、和服姿のように記憶しています。髪型は七三に分けてるような感じで、ペチャっとした印象でした。 寡黙な感じって言うのかな〜。威厳を感じましたよ。コミカルな旦那の片鱗は皆無でした。必要最低限のことしかしゃべらなかったみたい。 質問されたらそのことだけ答える、、、みたいな。(ひろちゃんさま 2002年3月9日) ワイドショーのこのちゃについては、こちらにもあります。 不器用な生き方 映画監督や俳優の方とも近しく(注:焼津の半ちゃんさまのお知り合いの方)、今年訪問の節には近衛についていろいろ話を聞かせていただいたものです。やはり、近衛とも会われているらしく、話をされたこともあるようです。 ただ、映画人の近衛の評価はやはり低いらしいです。 右太衛門などの有名人は要領がよかったらしいですね。近衛の場合、戦後映画界への復帰の遅れが致命的だったようです。 近衛は、やっぱりテレビ時代の英雄ですね。(焼津の半ちゃんさま 2002年3月12日) ある晩の写真 どなたかが近衛邸におじゃました時の、一家+撮影者の写真です。場所は多分お座敷。 このちゃんは、一番左で、右手にウィスキーの水割りのようなコップをもって、機嫌良く笑って乾杯風に手をあげている。 右隣りに、夫唱婦随の水川八重子・近衛夫人(美人)。その右隣りには、若き目黒祐樹さんが、お母さんの方に首を傾げて笑ってらっしゃる。 目黒さんのお年の頃から推測して、恐らく、「素浪人 月影兵庫」前後の頃か? 驚くべきは、このちゃんと目黒さんのお顔。ノーメークでも全く変わらない。 (2002年3月21日) 「おもいっきりテレビ」の、このちゃん25回忌 まず、このちゃん愛用の刀が登場。みのもんたが腰に差して抜いてみようとするが、刀が長すぎて抜けない。しかし、このちゃんが使うと、、、と「花山大吉」のオープニングが映りました。「柳生武芸帳」の映像と共に「最も立ち回りがうまい役者」というナレーション。 奈良あやめ池遊園地の映像から始まり、このちゃんの経歴を紹介。大都映画時代の「柘榴一角」の映像。人気ヒーローだったと紹介。 松方弘樹さんのインタビュー。食事の時は正座、父親が箸をつけるまで母親、子供たちは食べられない、、、など厳しかった父親像を語る。 地方巡業で自分から斬りかかる主役のスタイルをあみだす。普通の人では使えない85センチの刀を使うようになった。(普通は75〜80センチ) 戦後、自主映画の制作を計画するが資金不足で挫折。昭和28年、10年ぶりに映画復帰。名前も出ない端役から出発。 昭和30年「八州遊侠伝 白鷺三味線」で主役(高田浩吉)の敵役として認められ、活躍が始まる。 再び「柳生武芸帳」の映像、松方さんのインタビュー。このちゃんの映画に出させてもらったが、何十回も殺陣師と練習してからこのちゃんと対決。実の親かと思うほど、鬼のような顔で睨みつけられ、それだけでたじろいでしまったとか。 時代劇映画の衰退と共に活躍の場をテレビに移した。「花山大吉」の1場面。半次にいさんとコミカルな会話。しかし、このころから糖尿病、肝臓病など患っていた。以上、珍しいプライベートな写真など交えながらの12分間でした。 (ひろちゃんさま 2002年3月26日) 「おもいっきりテレビ」その2 刀 僕も見ました。松方さんの話では、近衛さんはやはりというかなんというか、仕事でも家庭でもとても厳しい方だったようですが、決してそれだけではないということが、すごく伝わってくる、よいインタビューでした。 それと刀ですが、通常のものと実際比べてて、それを見ると全然違うので、びっくりしました。近衛さんの殺陣が迫力なのも納得です。 ところで、今見られる刀は映画で使用していたものらしいですね。TVで使っていたものはもっと長くて、それは近衛さんが亡くなったとき、棺に一緒に納められたとか。(三四郎さま代理やまぐぅさま 2002年3月26日) 戦前の目黒家・東京 昭和3年生まれの母親が小学校時分ですから、昭和十数年頃でしょう。 近衛は旅役者であったそうで、妹が、母親の一級上であり、睫の長いかたでしした。 まぁ、戦前でしたから、誰でも裕福ではなかったようで、目黒家でも、内職していたと言っていました。 (ZAPOさま 2002年3月26日) 生年月日はいつ? 以前、近衛十四郎の生年について、大正3年が正しいのではないかと、書き込んだことがありますが、これについては、かつて近衛十四郎の訃報が掲載された週刊誌で松方弘樹が、「親父の生年が新聞の訃報等では大正5年になっていますが、本当は大正3年です」といっていたのを読んだ覚えがあります。 また、むかし家にあった昭和10年代の俳優年鑑にも、そのように記載されていたと記憶しています。 しかし、誕生日が1日か10日かについてはどうだったかは・・・。いったい、どちらなのでしょう?ファンとしては気になるところですよね。 (三四郎さま 2002年4月6日) それに「スター千一夜」に出演したときに、自信で53歳だといっていたのですが、そのときに一緒に出演していたのが、「三匹の侍」の長門勇と「俺は用心棒」(もしかしたら「帰ってきた〜」かもしれませんが)の栗塚旭だったので、そこから推測すると、やはり大正3年の方が、計算が合うと思います。 ちなみに、この時の三人はドラマでの役の紛争で出演していたのですが、近衛十四郎は長門、栗塚の両氏からは「先生」と呼ばれており、そしてこの二人が一様に興味を示していたのですが、近衛十四郎が差していた恐ろしく柄の長いあの刀でした。その時の近衛十四郎自身の話では、「これでも少し柄を切り詰めたんです」ということでしたが、その話をきいていて少しあきれ気味に苦笑していた長門、栗塚両氏の姿が凄く印象に残っています。 (三四郎さま 2002年4月7日) (じゅうよっつ注:’02年8月8日北海道で放送の「健康の達人」に出演された松方さんのお話ー詳細は下の方にありますーでも、このちゃんの享年は63才といわれていました。やはり大正3年生まれが正しいようです。) この逸話(近衛さんが映画への復帰を決意した当初、独立プロの設立をも目論んでいたところ、仲間による資金の持ち逃げにあって挫折をしてしまったという松方弘樹の談話)については今から26年ほど前、近衛さんの訃報記事が掲載されていた女性週刊誌で私自身も目にしたことがあります。そこには確か100万円だったと思いますが、持ち逃げされた額も書かれていたと記憶します。 近衛さんが一座を組んで実演に走る切っ掛けになったのは大映に剣戟4大スターが結集してしまったためではなく、大映に対する憤懣だった可能性が高いと思い出話に書きました。その思いは今も変わりません。しかも、一座を組んだ時点で、二度と映画へ復帰するつもりはなかったのではないかとも考えています。今日、娯楽チャンバラ映画を語らせては右に出る者がないと言われる永田哲朗の名著「殺陣」に、太平洋戦争の影響で映画制作本数が激減してしまったため、近衛さん同様に一座を組んで地方巡業生活を送っていた時代劇スターたちがぞくぞくと映画へ復帰してゆくのを尻目に、近衛さんは「そんならおれひとりだけでも頑張ってやろうと思った」と言って最後まで実演に残り、一座が立ち行かなくなった時点でようやく映画へ復帰する決意をしたということがかいてありますが、この話は近衛さんが映画へ戻るつもりがなかったのではないかという傍証になるのではないでしょうか。終戦後しばらくの間、占領軍の指導によって、本格的な斬り合い場面のあるチャンバラ映画が上映禁止処分を受けていたことが、その思いに拍車をかけたかもしれません。 そして、独立プロの設立を目論んだ意味です。 これについては、映画へのブランクが10年というかなりの長期間に渡ってしまった以上、復帰を果たしてもかつてのようなスターとして活躍することなどできないのではないかという危惧を抱いた近衛さんが主演作を掲げて復帰をするためのものだったのも確かでしょう。が、その根本の考えには、映画へ復帰するとなれば必然的に松竹、東映、大映などのメジャーな会社と専属契約を結ばなければならない可能性も高くなる以上、派閥争いがつきものと言ってもいい大会社へはいきたくなかったということがあったのではないでしょうか。 (三四郎さま 2004年3月2日) でも、やっぱり先輩の前では緊張?「基い!」 東映のパーティーで、余興で新国劇の十八番「殺陣田村」を舞った際、大川博社長始め、千恵蔵・右太衛門の両御大などの居直る東映の大スターたちを目前にした途端、頭の中が真っ白になって、殺陣の手順をすべて忘れてしまったことがあるそうです。 そのあとが傑作なのですが、斬りかかってくる剣会のメンバー達に向かって、大声で「基い!」と叫んで、仕切り直しをして、会場の大爆笑を買ったそうです。 あの近衛十四郎が・・・と思ってしまう驚きですが、仕切直し方など、後年の「素浪人シリーズ」を連想させるようなユーモラスなエピソードだと思います。 (三四郎さま 2002年4月7日) 昨日(’07/5/20)の某スポーツ新聞(『チャンバラ黄金伝説』)に チャンバラトリオの山根伸介氏が十四郎様にまつわるエピソードを紹介してました。 『東京・目白の椿山荘。有名な庭園があって東映の株主総会を開いた。お歴々をご招待し、1000人位集まった。そこで大俳優が立派なショーをやる。東映ではそういう場で必ずやらねばならないのが「殺陣田村」という出し物。お能の謡曲「田村」に合わせてチャンバラをする。目玉なんです。中村錦之助さんも大川橋蔵さんも東千代之介さんもやったことがある。みんな見たくてたまらない。今年は誰がやるのか一番興味がある。それ位値打ちがあった。近衛十四郎さんに白羽の矢が立った。当日はいい天気で庭園に音楽が流れる。橋蔵さんの踊りも終わり出番です。近衛さんは紋付はかまに白足袋で中央にひれ伏している。謡曲とともに幕がグーッと上がった。先生は刀を拝んで、おもむろに刀を提げる。切られ役がサーッと現れた。ところが、近衛先生が勝手な動きをする。どうやっても合わない。うわー、えらいこっちゃ。完全な独り相撲。そしたら、突然、ウーンとうなって下を向いた。どうしたんかと思ったら大きな声で「もとーい!」中央に戻って、初めからやり直しになった。みんなで大笑い。後で近衛さんに訳を聞いた。初めに顔を上げた時、真正面に大川博社長、その左右に両御大が見えた。ポーッとしてアガッてしまったんですって。』 (vendmillさま 2007年5月21日) 十四郎様の命日のことはどこにも触れられてはいませんでしたが、この時期(5/20)に掲載されるのは多少なり共、命日(24日)を意識してのことかも知れませんね。先ほどのエピソードの前に「十四郎様の殺陣」に対する山根氏の感想も書かれていましたので紹介いたします。 『いつも感じてたんですが、近衛十四郎先生は大勢を相手するより、一騎打ちのチャンバラ。これが実に見事でした。市川右太衛門さんと片岡千恵蔵さんの両御大、若山富三郎さん・・、いろんな方の相手をされたけど異色な敵役でね。半分正義感があるようなニヒルな剣士がピッタリのスターでした。一番面白いのは、大友柳太朗さんとの立ち回り。体ごとぶつかる近衛先生の豪快さに大友先生の不器用さが加わるとすごい迫力になった』 (vendmillさま 2007年5月21日) 素浪人シリーズの終わりと芸能界引退の理由 「いただき勘兵衛旅を行く」終了後に近衛十四郎は、「愛着はあるが進歩がない」ということで自ら「素浪人シリーズ」で演じたコミカルな役を卒業し、「運命峠」の柳生宗矩や「徳川三国誌」の根来幻幽斎などのシリアスに近い役を再び演ずるようになりましたが、「徳川三国誌」の撮影終了後にどうやら芸能界から引退していたようです。 この理由については八重子夫人の死去による心痛もあったようですが、自信の病気が祟って足が弱り、ほとんど立っているのがやっとだった体調にあったようです。週刊誌に載っていた「ファンから、昔のような素晴らしい立ち廻りをまた見せて欲しいというお手紙をたくさんいただくんですが、足が全くつかいものにならなくなってしまったんです」という近衛十四郎自身の話しぶりが非情にいたいたしくかなしかった思い出があります。 スポーツマンであった近衛十四郎の心臓は100歳まで使えると医者の太鼓判をもらったこともあったそうですが、大酒のみの人の通例で近衛十四郎も柿が大嫌いだったそうで、近衛十四郎はまさに酒がたたって60代の前半という若さで私たちのそばから逝ってしまったんです。 (三四郎さま 2002年5月6日) 引っ越しマニア 近衛十四郎は異常とも思える引っ越しマニアで、ひとつの場所に半年として落ち着いていることがなかったというのが八重夫人の最大の悩みだったそうです。 (三四郎さま 2002年5月6日) 松方さんが語る思い出 「健康の達人」(テレビ東京)で、松方弘樹さんがゲストの回(北海道では’02年8月8日放送)のお話です。 まずは、お父さん、お母さん(水川八重子さん)共に俳優であるという話から切り出して、家族4人で写っている写真、松方さんが子供の頃の写真。小さい頃、松方さんが赤面症だったので、恥ずかしがり屋を直すためにも、芸人にするのがいいと、お母さんは思ってらっしゃった。 で、歌手になろうと、中学の頃からクラシックで発声を勉強されてたそうですが、その頃、東映の波多伸二さんが亡くなり、それで売れっ子俳優が足りなくなって、急遽、お父さんに連れられて、東映にはいることになったそうです。 そこで最初に撮ったのが「17才の逆襲」。 当時は、周りは美人の女優さんだらけ、仕事は黙っていても来る、お金もそこそこはいるで、全く俳優としての勉強はしなかった、毎日のように遊んで、帰宅は午前5時。7時には家を出て9時に撮影開始、という毎日。 でも、ここで面白いのは、松方さんの「家に帰ると怒られるから」との言葉に、司会の井上順さんが当然、遊びすぎを怒られるから帰りにくいのだろうと思ったのに対し、事実はこのちゃんに「なんでおまえ、家なんか帰ってくるのか!遊んでこい!」と怒られるからというところ。 お母さんも、「体だけ気をつけなさいよ」で、完全な放任主義(あるいは芸を磨くため?)だったようです。 そういう風にむちゃくちゃな生活をしていたのが、「仁義なき戦い」の頃(30代はじめ)、お母さんもお父さんも相次いで亡くなり、急にしっかりしなくてはと俳優意識に目覚めた。(画面にこのちゃんと松方さんの写真。このちゃんは縁側のイスに座って釣り道具の手入れをしている。黒縁の老眼鏡をかけてVネックのセーターに薄い色のズボン姿。頭はオールバック風。素浪人姿よりかなり老けて見える。 松方さんはその前の庭で、サングラスをつけて竿を見ている。明日は二人で釣り、という感じの写真。) 「修羅の群れ」ではプロデュースもしたが、「プロデュースには興味があったのですか?」との問いに、「俳優としては近衛さん(と、松方さんは呼んでらっしゃった、おそらく俳優として尊敬の念から)をどうしても追い越せないという思いがある。」 (このちゃんの素浪人姿の写真。刀を肩にかけ、横向き、顔だけこちらをむんと見ている姿。)俳優としてはとても大きな存在で、全く追い越せないので、何かないかと、このちゃんがやったことがないプロデュースの仕事を始めたそうです。 両親に健康体に生んでもらって、大病もしたことがない、「もし、2人が早く死んだパワーをもらっていれば長生きできるかな」と仰ってました。2年前には酒もやめ、ストレス解消は釣りとハンティング。 「小さい頃どんな食べ物がお好きでした?」との問いに、「物がないから、どんなものでも食べてました。」雑炊やけんちん汁など。 (多分それより後のことでしょうが)月一度くらいのすき焼きの時は、弟(目黒祐樹さん)と熾烈な肉の取り合い。 鍋の肉を箸で押さえて、グッと睨みつけ、肉が煮える前でも素早く口にする、でも、5つ年上なので、兄貴の権限で、グッと睨んで、「おまえは野菜食べろ、俺は肉だ、ってね」と言ってらっしゃいました。 「怪談 お岩の亡霊」の直助権兵衛 作品を監督した加藤泰自身も、自分の映画人生をつづった著書の中で、直助権兵衛を演じた近衛十四郎について「剣戟スターである近衛十四郎氏の、渋い演技に驚いた」ということを書いていますし、私自身おなじみのニヒルな悪浪人の役や豪放磊落な素浪人役とは二味も違う江戸の市井に棲む卑しい小悪党を見事に演じた近衛十四郎に大喝采をおくりたいとおもいます。 (三四郎さま 2002年8月18日) 松竹時代に見抜かれていたコメディー資質 今から半年ほど前のことでしたが、映画本を専門に扱っている古本屋に立ち寄ったときのこと。 雑誌名は忘れてしまいましたが、その表紙に記されていた「これからの時代劇映画を展望する」だったと思いますが、そのような見出しにつられて手を取った映画雑誌のページをめくっていたところ、数人の映画評論家が時代劇について対談をしている記事を見つけました。 そしてその中のひとりが、近衛十四郎について「最近グーンと伸びてきたひとりだ。これまで耳ざわりだった新潟弁が、台詞回しの独特の個性になりつつある。いずれは喜劇をやらせてみたい」と言っているのを目にした時には、大変驚きました。 この雑誌が刊行された年が昭和31年か32年頃だったと思いますので、近衛十四郎がまだ松竹に在籍中の話です。 まさか、後年にテレビドラマの「素浪人シリーズ」が制作されることを見越していたわけではないでしょうが、当時、この映画評論家の近衛十四郎評を目にした人の中には、この時期の近衛十四郎の役柄と対比して、奇異に思った人もいたのではないでしょうか。 しかし、現在の我々からすれば正に至言だったと言わねばならず、この雑誌記事を目にした時には「さすがはプロ。目のつけどころが違う」と大いに感心させられたものです。松竹映画の「浪人街」で演った荒巻源内や東映映画の「怪談 お岩の亡霊」で演った直助権兵衛の演技や台詞回しに、後年のテレビにおける近衛十四郎が垣間見られるような気がします。 (三四郎さま 2002年9月28日) ご自身が語る人生 私が持っているスポーツ新聞ーマイクロフィルムからのコピーに近衛十四郎さんの記事が載っていました。 昭和33年3月11日(火曜日)のスポーツニッポン(大阪版)」です。 「近衛十四郎 新居の春」という見出しで、奥様の水川八重子さんと犬といっしょに写真が載ってます。記事の内容は、『映画入りしたときは右太衛門プロの研究生として五円の手当をもらいました(中略)私が幸福だった時期は大都映画時代で、まがりなりにも主役級で数十本撮り、また結婚もしました。(中略)とにかくその長年の苦労が、いまやっと報いられて、これでどうやら女房孝行もできるし、二人の子供をりっぱに育てることができれば・・・と思っています』でした。 (おちかさま 2002年11月3日) 大好きな釣りの時も、さすがプロ! 私は、月影もそうでしたが花山のロケの現場にめぐり会うことが何度かありました。近衛さん持ち池(大のつりファンだそうです)では日焼けをしないように夏だというのに腕には事務員さんの巻く黒い防帯を着けておられました。 (京さま 2003年3月1日) 芸名の由来 以前、松方弘樹さんが書かれた本(タイトルは覚えていません、残念ながら本は買いませんでした)を立ち読みしていたら、近衛さんの名前の由来が書いてありました。近衛さんは松方さんに「十四というのはラッキーセブンを二倍にした数でとても縁起のいい名前なんだぞ」とおっしゃったそうです。 (タキシードペンギンさま 2003年3月10日) クールな品川さん 先日、久しぶりに品川さんにお会いしました。・・・「月影」の放映リスト作製表をお見せしましまた。「こんなの整理してどうするの?」と不思議に思われてました。 (京さま 2003年3月31日) 右太衛門さん親子とこのちゃん親子 本日、小西博之氏ら数名で晩飯食べました。小西氏に「近衛さんと仕事したことある?」って聞いたんですが、残念ながらないそうです。 ただ、彼が松方弘樹さんからきいた昔話で・・・・・ 以下、松方さんの話 「ぼくが小学生のころ、おやじは典型的な亭主関白だった。この世でおやじが一番偉い人間だと信じていた。あるとき、めずらしくおやじが俺をプールに連れて行ってくれたんだが、おやじ、突然プールから飛び出し、いまプールサイドにはいってきた子連れのおっちゃんにペコペコしだした・・・・・世界一えらいおやじがペコペコするなんて、この人誰だろう???市川右太衛門先生だったんだね。子供心に、上下関係の厳しい世界だと痛感したよ。でも俺は思った、自分と同じくらいのこの子供にだけは負けたくないってね。それが北大路欣也さんだったんだ・・・・・・・」 ふううううん、へええええぇぇぇぇ・・・・って聞いてました。(松方さんと北大路さんは今でもとても仲がいいそうです) (トミーさま 2003年5月12日) 愛弟子・阿波地大輔さんのお話 キネマ句報社編:『日本映画人名辞典 男優編<上巻>』より、 『... 61年,故・近衛十四郎の指名で「柳生武芸帳・夜ざくら秘劔」ではじめて役らしき役とまともな台本を与えられた晩はうれしくて眠れなかったという。 ...』 (相談屋さま 2003年7月3日) 「いつみても 波瀾万丈」での目黒さんのお話 小さい頃は、兄(松方弘樹さん)よりも外向的で、「風小僧」(TV映画の第一作)の子役の”目黒ユウキ”時代から数えると、お兄さんより芸歴は長い。 父・近衛十四郎、母・水川八重子ともに、大都のトップスターだったが、昭和17年の吸収合併で地方巡業をはじめる。10年間の巡業の間はうちが非常に貧しく、自分は幼かったので分からなかったが、正月にミカン一山が買ってもらえないほどだった。このちゃん夫婦は、巡業では行ってない町はないほどで、めったに帰ってこず、兄弟はお婆ちゃんッ子だった。父親がスターなんだと意識したのは、子役の目黒さんに付き添ってきた父親に対し、周囲が敬意を払っているのを見たとき。 多分、何かで一度すねて撮影に行かなかったとき、アラカンさんや監督までが、目黒さんにおもちゃやマンガ、お菓子をもってきて、その後これに味を占めたと言うお話も。目黒さんには、子役でも、東映の俳優会館に御大と並んで個室があった。 東京生まれで、小学校2年の時、京都へ転校、話し言葉が違うので、いじめの走りみたいなことになりそうだったが、その前に、5才上の兄と喧嘩して鍛えられた腕で、一番強そうな子をやっつけ、先手必勝。小学校はさらにもう一回変わったが同様の手口で切り抜けた。。同志社中学へ進むが、その頃から、同世代の子供と自分との距離を感じるようになる。同志社高校に進学したが、このままではスケールの小さな人間になってしまうと、父と兄のハワイ公演の際に、ハワイ留学の話を切り出した。母親は泣いたが、父親は、とことんやってこい、と背中を押してくれた。その頃、兄も芸能界にデビュー自分だけは芸能界にはいるまいと決めていた。自分の好きな道を選ばせてくれた父は、大らかな人で、(「怖そうですが」という司会者の言葉)怖いのは怖い、父の前で正座を崩したことがなかった、晩酌になると、3〜4時間座って飲みながらちょいとつまんで、自慢話しているのをジッと聞いてる。自分は子供だから5分もすれば食事は終わっちゃうんだけど、それでも終わるまで正座して聞いていなければならない。自分が決めたら好きにやりたい放題やれ、面倒は見てやるみたいな寛大さはあった、と言うお父さん評。 ハワイ留学では、まず学年の始まる9月まで小学生に混じって言葉を勉強、その後全寮制の高校にはいるが、24時間規則に縛られ、不本意でセントルイス高校に転入、人生で一番猛勉強した頃だった。(英文法、幾何、代数が学年トップ)昭和41年にボストン大学芸術学部で演劇を専攻するが、楽しみが見いだせず、おくられてくる授業料も酒や映画に消えていく。(自分は映画が好きなんだ、と言うことに気づく。) 2年次には西海岸の南カリフォルニア大学に転入するが、そこでも、やるのはシェイクスピアで、東洋人は出番無し、裏方ばかり。 そうこうするうちホームシックになって帰国。帰国すると1ヵ月のうちに、留学手記を出さないかとの話がくる、「風に吹かれて」のレコードデビュー、「太陽と野郎ども」の映画出演以来がくる、あれよという間に俳優としての活動が始まった。昭和44年「栄光の黒豹」で江夏夕子さんと共演し、交際が始まった。昭和46年「弥次喜多隠密道中」で初めての時代劇、48年には「いただき勘兵衛 旅を行く」で親子+恋人共演。主題歌も歌った。 昭和51年に母・水川八重子さん、10ヵ月後に父があとを追うように相次いで亡くなり、心の中にぽっかり大きな穴が空いたようだった。結婚は昭和54年だったが、もう少し父母が元気だったら、自分の孫の顔も見せてやれた。 目黒さんの著書「モーレツ野郎 in AMERICA」の後書き「オヤジの弁」(抜粋) 突然、アメリカに行きたいと言われたときはビックリ仰天されたそうだが、「別段、鬼の国へ行くわけではなし、『せっかく行くからには、六年間は親のことも家のことも思い出さずに、人間修養、学問の修業に励みなさい』と、わりに冷たく突っ放したつもりでしたが、その私の意図が果たして成功したかどうか成果は、今後を見なくては判明しないようです。」ときわめて冷静。でも我が子の成長を認め、「願わくば、アメリカ生活が祐樹の人生に大きなプラスとなりますようにー。」としめてらっしゃるところは、やはりお父さん。 本文中では、「オレたち(松方さんと目黒さん)の生き方にはオヤジの人生哲学が多分に影響していると思う。”男は自分で好きなことやれ。 そのために起きた過ちは、オレがケツふいてやる”といったオヤジ流の放任主義のおかげで、こせこせしない大らかな人間に育ってきたのじゃないかと思う」というオヤジ評がある。 ご本には、「俳優一家」という目黒さんのごあいさつがあるページに、このちゃん(左手にグラス、右手はタバコ?で、アルバムのような大きな本を広げて指さしてらっしゃる)、目黒さん、水川・近衛夫人がソファーに座り、松方さんご夫妻がその後ろから、皆でこのちゃんの広げている本をにこやかに見てらっしゃる写真がある。テーブルの上には、オールドの瓶と、もう一つ洋酒の瓶、タバコの箱。 もう一つの写真は、あつあつの近衛夫妻で、(アロハ?)シャツをズボンの上に出して、草履がけ、グラサンのこのちゃんが、ムームー姿の奥様に寄りかかっていらっしゃる。(おそらくハワイで) (Thanks 中村半次郎さま) 松方さんのインタビュー記事(「星にスイングすれば(高平哲郎著)」より デビュー作(中一)「獄門帳」では、近衛三四郎の芸名で出てらっしゃるが、これは、三と四で十四の半分が由来。このちゃんが大曽根辰夫監督にかわいがってもらってたので、主役の鶴田さんに顔が似ていて、鶴田さんの幼年期の役が回ってきた。 考えられないくらい貧乏で、お母さんが質屋がよい、、お父さんには好感持ってなかったし、役者になろうとは思っていらっしゃらなかった。 このちゃんの殺陣ー「親父の殺陣は凄いでしたね。うちでは竹刀を持って教わったことはないですね。俺は芝居はだめだ、だけど立ち回りは自信があるって言ってましたね。グッと腰を入れたあと、にらまれるとビビりましたよ。テレビに出る人で腰で斬っている人はほとんどいない。皆顔で斬っている。・・・親父は誰と比べても遜色ない。芝居のほうはお袋の八重子のほうが上手いから、こいつに聞けって言ってましたけどね。 ただし、一緒にやったときは親父が一番元気でしたね。早いし、恐いし、もの凄い顔するしー眼を三角にしてガッとにらまれると覚えてた立ち回りみんな忘れちゃいますよ(笑)。どういう風に来るかわからない。本番でグッとにらまれたら、そのまんま、もうダメって(笑)。」鶴田さんが「鳴門秘帖」でこのちゃんがその相手役だったとき、鶴田さんがブルってだめだったというお話も。「とにかく凄い、槍でも十二尺の槍を扱ってるのを見てどんな人やと思った、手品やもん、もう。・・・でもね、稽古してたり台詞の勉強してたとこ見たことないです。」 そんなこのちゃんも、右太衛門さんの前ではビリビリだったと。「親父は竹光振るとプシュッと音がしたもんね。ほんとに好きだったんでしょうね。立ち回りになると生き生きし出すんだから。それまで二日酔いで酒の匂いをプンプンさせてるんだから(笑)。・・・親父の刀は、柄も長いし身も長い別注で作ってましたからね。長いんで銀紙が足らなくて途中でついでた。でも親父、色気なかったね・・・。」 (Thanks 中村半次郎さま) 「松方弘樹いいたい放談 きつい一発(松方さん著)」より *このちゃんの結婚についてー「二人が結婚したのが昭和16年。親父が28才、オフクロが23才だったという。昭和16年といえば、大東亜戦争の始まった年。それでも、いちおう東京日比谷の三信ビルで披露宴をやったそうで・・・」松方さんが翌年に生まれ、その年大都映画がつぶれて巡業を始めた。ストリップの流行るなか、劇団活動は28年まで続いたそうだ。「このかんばしくない状態の中で、親父が独立プロで映画製作を始めてね。・・・オフクロによれば、親父の気持ちとしては一旗揚げて映画界にカムバックしたかったらしいが、結局、裏目に出てしまった。金を持ち逃げされ借金をかかえたまま中止。」それから貧乏がどん底になる。一山10円のミカンが買えず、役者になんか絶対ならないと思われたそうだ。 引っ越し好きー「親父がナゼか引っ越しが好きでね。それほど深い理由もないらしい。(松竹入社で)楽になったのもののね、この習癖のためにオフクロを随分困らせたらしい。」 *松方さんのお子さんの名前由来ー「親父は自分の”近衛十四郎”と(←thanks相談屋さま)いう芸名はラッキー・セブンの7を二つ重ねた縁起のいい名前なんだよと、よく聞かせてくれる。それで親父はオレの長女が生まれたときに、その一つを分けてくれてね。”七重”という名前をつけてくれ、次女が生まれた時もう一つを分けてくれて”七知”となったわけ。・・・親父は孫が二人続けて娘だったので、どうしても男の子が欲しいと、まあ、ダダをこねるし、オフクロは自分の子が男二人だったので、孫が娘だったのは嬉しかったようだし。」で、次に生まれたのが長男だった。「”男児出産”の吉報で親父とオフクロが京都からすっ飛んできたね。もう親父の喜びようは大変で、名前まで考えてきたくらいのもの。今度は自分の名前そのまま、ズバリで、”十四樹”とつけてきたよ。『弘樹、いい名前だろ、男の子はいい。十四樹は家の宝だ』」だが、名前は目黒さんが考えてらっしゃった大樹に決まる。「『オレのもいいが、祐樹の考えたのもいい。どちらかといえば、大樹という方がいい。よし、大樹にきめよう』松方ご夫妻の口をはさむ間もなく、瞬く間にお子さんの名前は決まった。 (Thanks 中村半次郎さま) 上原げんとさんと松方さんと五木ひろしさんとこのちゃん (上原げんとさんは)松竹の「白鷺三味線」の主題歌の作曲者です。
(松方)弘樹はオーディションを受けて合格して内弟子になったと芸能生活40周年の舞台で話していますが、「スター千一夜(’74年3月11日放送)」では、十四郎様は既に上原げんと様とお知り合いだったような話し方をされています。映画「白鷺三味線」などを通じてお知り合いになったのでしょうか。
歌手の五木ひろしさんが上原げんと様の内弟子になったときの紹介者は十四郎様なのです。NHKの「ふたりのビッグショー」に弘樹と五木さんが出演したとき、ナレーターが話しています。私もこの番組を見て、「ああ、そうだった」と以前どこかで読んだことを思い出したのです。
五木さんは故郷の福井県から京都へ行かれて、十四郎様に会い、上京したのです。京都のどこで十四郎様がまだ無名の少年だった五木さに会ったのでしょう。接点がわかりません。(中村半次郎さま 2003年9月7日)
歌手の五木ひろしは近衛十四郎の知り合いのマネージャーにスカウトされ上原げんとの元へ連れて行かれたそうで、そのとき、すでに松方弘樹はいたそうです。(情報もと=境界亭日乗さまブログ7月11日)(2010年8月24日三四郎さま) 三四郎さまが書かれたことで納得できました。 マネージャーがスカウトして、十四郎さまが上原氏へ口添えしたわけですね。五木さんが上原氏へ内弟子入りしたときには、弘樹は映画デビューしています。 弘樹が「五木ひろしの歌を聴いて、そのうまさに敵わないと思い、歌手を断念した。」とよく言ってます。これは弘樹がデビュー後、レコードをかなり出していましたから、そのレッスンの時に五木さんに会って思ったのでしょう。五木さんと弘樹は年齢が五歳以上違いますし、弘樹の内弟子入りはデビュー前の一年で、同時期に内弟子入りしていたことはないはずです。 マネージャーって、川野知介さんでしょうかねぇ〜?(2010年8月24日中村半次郎さま) 「ぶらり途中下車の旅」で目黒さんのお話 この「ぶらり途中下車の旅 都営三田線」(日本テレビ’03年9月27日放送)は、何人かの「旅人」が毎週交替で東京周辺の私鉄に乗って、いろいろなお店やお仕事を紹介していくものです。祐樹もその「旅人」のひとりです。
本日の放送で祐樹は本郷の「金魚坂」という金魚屋さんへ行きました。ここは変わったお店で、金魚屋のほか、コーヒー、中国茶、日本料理のお店などがいっしょにあります。中国茶を飲んだあと、帰ろうとして小さな釣堀があるのに気がついて釣りをします。釣りをしたあと、こう言いました。 「わたしの死んだ父親は釣りが好きでしてね。自分で釣堀をやってたくらいですからね。趣味で。釣堀屋の息子としちゃぁ・・」と言ったときに金魚屋の女主人に話し掛けられてしまいました。 わたしがいままで見た祐樹の「途中下車の・・・」では、十四郎様について話をしたのはこれが初めてです。 (中村半次郎さま 2003年9月27日) 親父は厳しかった 「謎をとけ!まさかのミステリー初回スペシャル(’03年10月17日放送)」で、子供の頃の小遣いの話になり、出演されていた松方さんが「親父はえらく厳しかったから、怖かったよ」と言っておられました。 (右京大作さま 2003年10月22日)) 松方さん目黒さん出演番組でのこのちゃん関係・思い出話など 1〜8(8については、上にもあります。また関連として「思い出ばなし3」にも。) 東京12チャンネルのスペシャル番組:東映の俳優会館の松方さんのお部屋に、お父さんが使われてたという手鏡とこのちゃんと水川八重子さんの写真が飾ってある。茶色い塗りの、裏面は花の模様が彫ってある年代を感じる手鏡で、「松方弘樹」のお名前が貼ってある。松方さんが「あれはおやじからもらった鏡」と説明。山城新伍さんが「お父さんがあの鏡持ってたの覚えてる」松方さん「そうでしょ。あれおやじからのまんまの奴」 日本テレビ「壮絶花のバトル」で二世についての話:「赤穂浪士」の清水一角役のこのちゃんと、遠山の金さん役の松方さんが映る。 「時代劇名優の血は近衛十四郎から」というタイトル。「立ち回りをやらせたら右に出るものはいないと言われた近衛十四郎。その息子が松方弘樹さん。父親に勝るとも劣らない演技力で俳優としての確固たる地位を築きました」 「似てらっしゃいますね」との言葉に、「弟の方が似てるかな」。山城新伍さんは「弘樹ちゃんとね、オヤジさんとも何度も共演したけど、立ち回りの斬れ際の形がほんと同じ。見て覚えた訳じゃないのに、何で似てるのかなって」「2世タレントってのはどうですか?」との問いに、「スタートラインはいいラインから行けるんです。」 とんねるずの「食わず嫌い」:卵焼きが出されて「スターの子供さんでスターだったわけですから、美味しいもん食べてるでしょ」(このちゃんと水川さんの写真)「卵焼きって、いろいろありますよね。お袋の味というか思い出の卵焼きは?」「母親と、子供の頃は一緒に住んでませんでしたから。母親が働いてましたから、ぼくおばあちゃんに育てられたんで、母親の味と言うよりおばあちゃんの味なんで。」 「全然やらないんですか?料理」との問いに「自分ではあまり・・・昔の親でしたから、男子厨房に入らずという風に育てられましたから、冷蔵庫も開けてはいけないみたいに育てられましたから」 「なんでも鑑定団(’03年9月23日放送)」で、目黒祐樹さんが奥様関係の香炉を持って登場。「父は往年の時代劇スター近衛十四郎」と、「浪人街」と思われるスチール写真。 「旅サラダ」で、目黒さんが新潟を旅される。「父は時代劇スターの故近衛十四郎さん」とテロップ。旅の動機を聞かれて、「亡くなったオヤジのふるさとなんですよ。だから、ボクは半分は新潟県人なんですけどね。だからまあ、オヤジのふるさとを訪ねてと言う」 駅について「いやあ、着きました。新潟はね、私のオヤジのふるさとでもあるので、ゆっくりじっくり旅をしたいなと思っております。」 「いつでも笑みを・私のイチバン物語〜あの日にプレイバック(’03年3月15日土曜放送)」:初監督作品「OKITEヤクザの詩」のお話のあと、「松方さんの人生で離婚より重大な事だと仰る、父・近衛十四郎さんとの親子の葛藤を振り返りたいと思います。」 このちゃんが1歳の松方さんを抱いてらっしゃる写真。子供の松方さんと目黒さん、このちゃんの写真、柳生武芸帳の役でスチール写真、笑って飲んでらっしゃる写真に続き、再現フィルム 〜物心着いたときから、厳格でただただ恐ろしい存在だった。時代劇を代表する豪快な剣さばきで映画界随一と称される一方、私生活では遊びを芸の肥やしとする、典型的な昔の俳優。自宅には月に一度しか帰ってこない。いつも父の臭いのしない家だった。そのほとんどは祇園のお茶屋に入り浸り、芸者遊びに明け暮れていた。そんな家庭を顧みない父と対称的に、一家を切り盛りする母に、松方さんは哀れみさえ感じていた。ある日、お父さんを迎えに行って、と頼まれ、愛人の芸者の居るお茶屋へ。酒に酔った父は、誰も手をつけられない恐ろしい存在だった。 「何しに来たんだ、このバカヤローが」けっして愛情も尊敬も抱ける姿ではなかった。 16歳で、歌手の上原げんと氏を頼りに状況。歌手デビューが決まったころ、父から電話で、「上京するからきちんとした恰好で迎えに来い」と言われ、連れて行かれた先が、東映の社長室だった。強引に映画の世界へ。「17歳の逆襲暴力をぶっ潰せ」でデビュー、映画製作者協会・新人賞を獲得し、父に報告するが、「何が新人賞や。おまえのは芝居やない。役者というよりは、くしゃくしゃじゃ」と言われる。〜 「役者になって欲しかったんですね、お父さんは」「そうみたいですね。父親の子供ですから、親の姿見ててね、ボクの子供の頃はあんまり親が売れてなかったんですよ。オヤジもどっちかっていうと大器晩成ですから。同じ芸能界でも、ちょっと音楽の成績なんかよかったもんですから歌手になろうかなと単純に考えたんです」「ボクは子供の頃、『月影兵庫 クルミはなっていた』あればっかり見てましたけど」と岸部シローさん。 「あれはもうだいぶ晩年ですね」「昔のスターはほんとにスターですもんね。特にお父様は、銀幕のスターですからね」「そう、で、規格外ですから、すべてが。うちの父親だけじゃないんですよ、そういう人たちの方が多かったですよね。まあとんでもない親だったですから。」「普通ぐれたりしますけどね」「いや、それは母親です。母親はマリアさんのようで。あんな、っていったら近衛さんに怒られますけど、あの父親を何して、息子をぐれないで。」ここで再び再現フィルム 〜仕事のあとは家に帰らず酒に酔い、芸者と暮らす父に、「おふくろ、あんなオヤジともう別れろよ」「何言ってるの」と鼻でふふっと、笑みを浮かべ何も言おうとしなかった。 そのころ、松方さんは時代劇に抜擢される。(「片目の十兵衛」のポスター)しかし、柳生十兵衛との立ち回りシーンで、父を斬りに行くと、その瞬間、父の顔が豹変した。人間とは思えない鬼のような形相に、恐怖さえ覚え、一歩も動けなかった。何度もNGを繰り返し、激怒した父は「なにやってんだ」本番の合図とともに、何かが乗り移ったように、父の顔が豹変していくのを見て、「なんなんだ、このオーラは。これが芝居というものなのか」と、役者・松方弘樹が音をたててくずれていくのが判った。このとき、初めて役者として父を認めざるを得なかった。 連日、京都撮影所で、身をもって父に芝居をたたき込まれる。父は厳しく、ふがいない息子を本気で竹刀で殴り続けたこともあった。 そんなある日、母が他界。その日からあれほど家庭を顧みなかった父が泣き崩れ、医者から止められた酒を浴びるように飲み始めていた。 そして、母が亡くなって10ヵ月後、その後を追うように父もこの世を去っていった。近衛十四郎、享年61歳(正しくは、63歳)。一度は別れろと言ったくらい、荒んだ夫婦関係に見えたが、父は母を紛れもなく愛していたことを、この時痛い程知った。偉大すぎる父の死は、松方さんに大きな転機をもたらし、オヤジを目標に、役者の道に命をかける、役者として決して超えられない父の姿を追い求めて、同じ道を突き進む決意をされる。〜 お母さんに離婚を勧めたことについて、「ボクはほんとにバカなこと言ったって今でも思ってます」 (御茶屋がよいについては、次ページにもあります) 「徹子の部屋(’00年5月8日放送):「このごろはお父様をご存じの方が、もう後ろ姿なんか、お父様にそっくりと、お父様に似てらしたそうです」と目黒さんを紹介。 親子4人の写真。釣り道具を持つこのちゃんに、左肩に目黒さん、右前に松方さん。後ろに水川八重子さん。お母様は堪え忍ぶ昔のタイプの、 お父様は風呂・飯・寝る、のタイプ。、喧嘩に負けるなんて、とんでもない、家に入れんぞという父。5歳上の松方さんが喧嘩のトレーナー。 「オヤジが現役で活躍していた時代に、自分の年が重なってきましたのでね」(素浪人姿のこのちゃんと目黒さんの写真を比較して)「お父様もハンサム。目の大きさみたいなものが。鼻の感じや口なんか、とても欲にてらっしゃる、目の玉が似てる」と黒柳さん。 「(父と共演したことのある)北島三郎さんが、からかって、近衛さんと呼ぶんです。よく似てきたねって。古い方で最近オヤジさんによく似てきたと言われる方多いんです。」(刀を手入れするこのちゃんの写真)「(父の)ビデオ何本か持ってて見ます。じぶんでもちょっと体の動かし方とか、チャンバラのちょっとしたところとか、教わったとか、そういうんじゃないんですけどね。DNAなんでしょうかね。自分で意識しないでも、似てる部分は似て来ちゃうみたいですね。」 お母様は、お父様が亡くなる10ヵ月前に他界。父親は64歳。「母が癌で、周囲は死期を判っていたんですが、『蛍が見たい』というので、京都の郊外で捕ってきては病室に飾ってました。」その2ヵ月後にお母様はなくなった。翌年祇園の飲屋街で、1匹の蛍が目黒さん目がけて飛んできて、ふっとご自分の手に入ってきて光っていた。「おふくろが『祐樹お酒あんまり飲むんじゃないわよ、いい加減にしなさいよ』といってるようにボクに聞こえたんです。放すとその蛍、祇園の町に消えていったんですけどね。そんな町なかに。飛んでるときあるんですけど、ボクの方に、ふーっと。これはボクもう母親だと思いましたね。」 「素顔が一番(’01年1月20日放送)で、目黒祐樹さん:父は剣戟スターの近衛十四郎さん(浪人姿)。四人の家族写真(目黒さん9歳松方さん15歳)。 (父親が)引っ越し好きだったので、転校が多かったが、お兄さんと毎日のとっくみあいの成果で、同級生のトップとの喧嘩で勝ち、自分を認めさせた。 近衛十四郎さんは剣戟時代劇のトップスター。昔の明治時代の頑固オヤジというイメージをずっと持ってた人。オヤジの前で膝崩した事がない。 「これは黒だ」というと、白だと思っていても、「はい、黒です」、そういうオヤジ。 しかし、子役後、反抗期か、お兄さんも役者になって、ご自分だけは違う道をと思った時期があり、16歳で留学。4年半の留学で、ホームシックになり、そろそろ帰りたいと泣き言を書くと、ほとんど手紙をくれないオヤジから1通着いて、大きな字で4文字「君を信ず」そして小さく「父より」。たった一通受け取った手紙でどーんと胸に響いた。自分が父親に信じてもらえる子供であろうかと、しばし考え、立ち直って勉強した。 「たった一度だけオヤジに口を出したときがあるんです。おふくろが死にましてね、家の中のことは全部おふくろ任せで、がくっと来たんだろうけど、通夜の晩にね、みんなでお酒の飲んでんですよ。いつもはおふくろが側にいて、『そのへんにして、今日は飲み過ぎだから』ってストップしてたんですよ。 だけどおふくろが死んでるから、そのお通夜でオヤジがまた、がぶ飲みしてるから、おふくろ死んじゃって悲しいのはみんな悲しいんだけど、『オヤジお酒そのくらいにしたら』ってぽつっていったんですよ。と、オヤジもかちっと来たらしいんですね、『おまえにこんな事言われる筋合いない』って、もうお通夜の席で怒りだしちゃって。ボクも、おふくろ死んで気持ちこんなになっちゃって、『ボクはオヤジの体のこと思ってるのにね、”おまえにこんな事言われる筋合いないだろ”って言ういい方ないだろ』って生まれて初めてオヤジにくってかかって口答えしたんですよ。、そしたらね、、やはり時代劇の人なのかな、うちの親は、『おまえは破門だ』って言ったんですよ。それでね、私、おふくろのお通夜の晩から破門になっちゃった。破門のその日から、ボクのこと無視ですよ。ボクがそこにいてもボクのこと見ない。ボクも自分が間違ってないという意識があったから、謝れなかっんでしょうね。おふくろ死んでで半年くらい経って、周りの人から、『お父さんああいう性格の方だから、気持ちは分かるけど、あなたから謝った方がいいよ』って強力な勧めがあって、で、ボク心に決めて晩ご飯で一緒だったときに、『この間はおふくろのお通夜の席で、言い過ぎました、どうもすみませんでした』と謝ったの、オヤジの顔を見て。そしたら半年ぶりにボクの顔ふっとみてね。オヤジはボクの顔見て、『祐樹、判ればいいんだ』って。『それでな祐樹、半年間どうしてた?』みたいなもんですよ。それから普通通りに、半年間の無視したブランク無しに、『それでな祐樹、あさって俺釣り行くんだけど、おまえちょっと運転来いよ』って感じになってね。。それから4ヵ月でオヤジ死んじゃったんですよ。謝って、ボクが折れて謝っといてよかった。あのまんま、破門のまんまオヤジに死なれたら、私どんなに思い残すことがあったかと思いますね。」 将来のことを聞かれて。「私生活の中ではオヤジに少しずつ近づけるような男になりたいなというのもありますし、役者としてもやっぱり追いつけ追い越せたらな、だと、これは一生のテーマだと思いますね。 (すべて、中村半次郎さまのご協力) |