プロフィールに載せた写真資料は、すべて、北海道古典映画研究会の稲田博さまが収集されたものです。 稲田さまのご好意により、使わせていただいておりますので、無断転載はご遠慮くださいませ。 |
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実演時代第二次大戦前〜戦後映画界に復帰するまで。 |
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戦争の気配が強くなった’42年、 戦時映画会社統合で、日活、新興、大都が合併、 大日本映画(大映)になる。 フィルム制限により制作本数は減少、 大映には、大物時代劇俳優(阪妻、千恵蔵、寛寿郎、 右太衛門)がいたため、 近衛は、夫人となった水川八重子さんとともに、 一座を組んで、実演を始める。(28歳) 実際、映画界に残った、多くの大都出の俳優は、 出番を失った。 近衛の一座は、50人近い大所帯だった。 近衛は、実演でも、剣戟スターとしてのプライドは失なわず、 座員への稽古も、規律も厳しかった。 |
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〜北海道古典映画研究会会長 早川さまのお話〜 「実演は、現在で言うと、コンサートと同じような感じです。500人くらいはいる会場でやってました。」 |
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途中、再び、近衛は召集を受ける。(’45年3月) 出兵してすぐ朝鮮・羅南で終戦となったが、 捕虜になり満州・延吉に。 ひどい待遇の中、 栄養失調から壊血病、発疹チフスなどに 苦しんだ1年8ヶ月*の後、 ’46年、赤羽に復員。 日本に戻ってからは、実演を再開する。 当時、チャンバラは禁止されていた (面白いことに、拳銃を使った映画はOK)が、 監視不可能な実演では、行われていた。 戦後、多くの映画俳優が映画界に復帰したが、 近衛は、10年間実演でふんばった。 |
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参考資料(プロフィール部分) キネマ旬報 「殺陣 チャンバラ映画史」永田哲朗著 「近衛十四郎へのオマージュ」永田哲朗著 「ふるさと 長岡の人びと」(長岡市、H10・3発行thanks 中村半次郎さま) *「娯楽よみうり 大宅壮一のおしゃべり道中」(S33年5月2日号thanks 中村半次郎さま)には、1年9ヶ月とご本人談があるがFH↓によると実際は1年8ヶ月のようだ。 「ファミリーヒストリー 松方弘樹・目黒祐樹 〜芸能一家の歳月 兄に送ったエール〜」(NHK 2017年2月2日放送) 「警察時報」(’79年10月号thanks 中村半次郎さま) |
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