思い出ばなし3 掲示板のお話、見逃したまま消えていった、、そんなことさせません!みなさまのお話で甦る、このちゃん像です。
でも、困る、極秘だから、という方はご一報くださいませ。

「思い出ばなし1」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。最初のタイトルで飛べます。あとの2つは、その1、2つ先にあリます。
噂の殺陣に目を丸くした! 月影兵庫のころのインタビューは、 月影兵庫のころのインタビューその2
不遇の剣士、近衛十四郎! CM親子共演 CM親子共演の裏の悲しいお話
鯉自慢 鯉騒動 近衛邸?
アフレコは苦手 しかし、剣さばきは随一! 刀の重さ=3kgだってだす! 
目黒さんが語るには(サンテレビ’95年)  クルミ疑惑 お気に入りの殺陣師
「素浪人」の相棒といえばこの人! このちゃんの素顔を聞いた半時 引き続き、東映太秦映画村・近衛レポ
またまた、東映太秦映画村・近衛レポ ワイドショーのこのちゃん 不器用な生き方
ある晩の写真 「おもいっきりテレビ」のこのちゃん25回忌 「おもいっきりテレビ」その2・刀
戦前の目黒家・東京 生年月日はいつ? 映画界復帰についての推測
でも、やっぱり先輩の前では緊張? 素浪人シリーズの終わりと芸能界引退の理由 引っ越しマニア
松方さんが語る思い出 「怪談 お岩の亡霊」の直助権兵衛 松竹時代に見抜かれていたコメディー資質
ご自身が語る人生 大好きな釣りの時も、さすがプロ! 芸名の由来
クールな品川さん 右太衛門さん親子とこのちゃん親子 愛弟子・阿波地大輔さんのお話
「いつみても波瀾万丈」での目黒さんのお話 目黒さんの著書の後書き「オヤジの弁」 松方さんインタビュー(「星にスイングすれば」より)
「松方弘樹いいたい放談」より 上原げんとさんと松方さんと五木ひろしさんと 「ぶらり途中下車の旅」で目黒さんのお話
親父は厳しかった 松方さん目黒さんの思い出ばなしなど1〜8
「思い出ばなし2」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
ちょっと話しにくいこと 厳しい! 釣り堀の名は「釣り天国」
殺陣のうまいのは 品川さんが語られた思い出 目黒さんとの初共演
目黒さん出演の「ごきげんよう」 迫真の演技は本当に痛かった! 川野知介さん&小指のツメのこと
「我が人生に乾杯!」での松方さんのお話 品川さんにとっての半次は 小西博之さんのお話
十兵衛役目黒さんの決意   大都時代の近衛邸と撮影所 「俺は用心棒」ゲスト出演の経緯
目黒さんの十兵衛衣装、「月影兵庫」最高視聴率、「ローニンサムライ」、松方さんの殺陣評 誰が一番殺陣が上手いと思われますか?の問いに
映画界復帰作品と松竹端役の頃 「浪漫工房」の松方さんインタビューで  沢田音楽学院発表会(’04)での品川さんレポ
二度の召集の意味 大都移籍直後、時代劇ポスターの中で紹介される 丹下左膳をやらせたい俳優
錦之助さんとの関係 寄付に大枚だされてびっくり 殺陣師・上野隆三さんのお話
京都映画祭・目黒さんと山内監督のトーク 京都映画祭レポ2 京都映画祭レポ3
一時保存資料 カラミ役に斬りかかる殺陣 大都映画の意義
柳生十兵衛の片目と殺陣について 「博徒対テキ屋」の楽屋おち このちゃん譲りの目黒さんの性格
にしすがも活動写真館レポ 品川さん最新インタビュー 金子吉延さんから伺ったお話
松方さんのコメント(歌謡番組ゲスト) 小野監督の切ない思い出ばなし(1) 小野監督の切ない思い出ばなし(2)
「俺は用心棒」第一話のエピソード 沢田音楽学院発表会(’05)での品川さんレポ 福本清三さんのお話
「花山大吉」リメイクの複雑な思い 近衛さんとこの坊や S20年代ごろのご近所
「アニー」の楽屋で 「天下太平」の原題 釣り堀
萩原流行さんが語ったこのちゃんの殺陣 かなりの子ども好きだった 「柳生武芸帳」への意気込み
「大都映画撮影所物語」 母子のいいお話 満点!パパ
東映歌舞伎「油小路の決闘」と長年の想い 藤純子さんのお話 愛のキューピット?!
「華麗なる一族」の猟銃は・・ お茶目な一面 デン助さんとの親交
『全員集合』のライバル 長嶋番記者とこのちゃんの関係は? 『覇剣―武蔵と柳生兵庫助―』縄田氏の解説
松方兵庫を演じるにあたって チャンバラトリオ・山根さんのお話 近衛十四郎の弟子?
親子で斬りまくる近衛・松方 京都市民映画祭の記事3つ 猟犬がほしい
「思い出ばなし3」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
『城取り』の桝田利雄監督が語る近衛十四郎 おからと言えば・・・ 『寄席放浪記(色川武大著)』より
「ぴったんこカン★カン」の松方さん 「テレビ探偵団」の朝潮関 森田新さんインタビュー
「わが街 わが友」より 「戦国の剣豪」上映会レポ いろんな写真のお話
「近衛松方対談」 ある夜の品川隆二 剣聖小川金之助とこのちゃん
殺陣の工夫 「ぶらり途中下車の旅」その2 骨の髄まで剣豪だった
殺陣師 伏見の釣堀で 「意外に評価が低い近衛十四郎の実力」
抜き打ちタイムNO.1 病後に出た味 3代つながった「君を信ず」
「一場の夢・・・」より 「東京人」より 「月影」放送時の品川さんインタビュー
松方さんの座長公演時のケガ 少年の思いは・・ 星を喰った男
別冊近代映画「ひばり捕物帖 折鶴駕籠特集号」 福本清三さんインタビュー かなわぬ夢
水の江瀧子さんの訃報で 「開運なんでも鑑定団」に出た刀 素浪人シリーズの影響
目黒さん親子インタビュー 北島三郎公演(’10・6〜7)で 松方さんの楽屋の写真
「十三人の刺客」の松方さんは 品川隆二さんトークショー 目黒祐樹さんトークショー
松方さんの額の皺 北沢典子さんトークショー 上野隆三さんトークショー
もうひとつの「浪人独り旅」 「超近現代史3」で 清水一角と柳生十兵衛評
実現しなかった近藤勇役 ディープピープル「時代劇をいろどる殺陣」 「ごごばん!」でのお話
テレビ時代劇60年の軌跡 高田宏治先生トークショー 生まれ故郷西新町の今昔
「思い出ばなし4」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
近衛十四郎逝去報道と忘れられない殺陣 面影を求めて 「アフタヌーンショー」の葬儀レポート
知らされなかった訃報 かつての同僚、水島道太郎さんのコメント 松方弘樹さんのお話
葬儀の日は仕事を休んで  高田浩吉さんのお話 週刊各誌の訃報記事
新聞各紙の訃報記事 お墓と天国池のこと
「思い出ばなし5」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
大宅壮一のおしゃべり道中 近衛十四郎一座のころ 「十兵衛への愛着」
「親の私が言うのもおかしいけれど」 松竹時代のインタビュー 「喧嘩も我が青春のスポーツ」
ちょっと遠慮がち?な座談会 松方さんデビュー当時の話題、2つ 素浪人の頃
ご夫婦の歴史 写真記事4つ 「スタジオパークからこんにちは」
「落語時代Vol.2]の品川さん オニワバン!(時専ch)で ご近所の品川さん
「スタジオパークからこんにちは」の松方さんのお話 甦る!チャンバラ映画 永遠の時代劇スター名場面集 ”剣豪”近衛十四郎の子弟愛
近衛邸を垣間見る写真記事 「時代劇まつりin巣鴨」 趣味も豪快だった
小野監督のこと 東映のシステム 殺陣についての自負
スタッフから付き人へ、そして俳優へ 「スタジオパークからこんにちわ」のはなさんのお話 レジェンドトークなど
大吉・半次の声帯模写 近衛邸を訪ねる 小説「素浪人 月影兵庫」のあとがき
「時代劇オニワバン」品川さんインタビュー 京都映画祭レポ(2015年) 「市川、近衛のデビュー時代」より
「近代映画」の松方さんの記事より 「時代劇は死なず・・」でのこのちゃん評 釣り堀・天国での記念写真
「ファミリーヒストリー」 「ザ・インタビュー」 「徹子の部屋」(2017年6月)
『マキノ雅裕の映画界内緒ばなし』 「ザ・ドキュメンタリー〜松方弘樹」 ラジオ深夜便(2018年3月)
ラジオ深夜便(2018年6月)


『城取り』の桝田利雄監督が語る近衛十四郎

石原裕次郎がはじめて本格的な時代劇に挑戦した『城取り』。
作品は日活の配給。しかし、製作自体は「石原プロ」なので、東映、東宝、大映、日活からスターを集めたのだが、今井健二がやった役は、宍戸錠がやる予定だったらしい。
敵役の赤座刑部にすえられたのは近衛十四郎。大スターなので、とうぜん今井健二を殺すようなわけにはいかず、見せ場を作った。
剣戟スターである近衛には、独特の殺陣のスタイルがある。なので、「まずテストを見せてください」ということになり、殺陣師が直接指導することはなかった。 そして、ひとり黙々と殺陣の練習をしていた。これが、桝田利雄監督が目にした、最初の近衛十四郎の姿だったという。
ちなみに、『城取り』で殺陣を付けたのは、あの『用心棒』『椿三十郎』の久世竜だったのだが、東宝との兼ね合いから、テロップに名前を出さなかったらしい。『映画監督桝田利雄』より― (三四郎さま 2007年10月30日)


おからと言えば・・・

夕方5:40頃TV朝日を見ていたら「おからの不法投棄」の話題
黒く小山のように捨てられたおから。。。それが・・・インタビュアーが2人ほどマイクを向けたうちの一般のお年を召した方に「おから〜」と伺ったところ「むかしおからの好きな素浪人の〜」と言って〜・・・
すぐ「おから=旦那」の構図を思い浮かべたのですが キャスターが「おからといえば〜」といきなり!「花山大吉」が映って 鍋の中に手をいれてパクッ!半次も居たけど若様風の男に勧めてにこ!この笑顔が可愛かったのよ〜!
昔は庶民の重要な栄養源でよく食べていました〜と解説。それにしても真っ黒なおからは不気味でした。(Nezuさま 2007年11月16日)



『寄席放浪記(色川武大著)』より

小説『麻雀放浪記』で有名な故阿佐田哲也は、子供のころ、寄席の席亭(自分で番組を作って客に見せる)になるのが夢だったらしい。
その思いを綴ったものに、本名の色川武大で書いた『寄席放浪記』がある。そればかりか、阿佐田はチャンバラ映画にも大変な思い入れがあったらしく、『寄席放浪記』のなかには「時代劇の役者たち」という一章が設けられ、懐かしき日々を振り返っている。もちろん大都映画についても触れており、 まず、立回りが圧倒的に多く、ストーリーも動きで示され、題材によってはメジャーのチャンバラ映画よりずっとスッキリした出来のものがあったそうである。そして、その大都映画の時代劇を支えていたスターたちについては、以下のように評している。
杉山昌三九:剣豪タイプで押し出しはいいし、立回りも巧かったが、マイナー会社を転々としているうちにトウが立った。
阿部九州男:晩年の悪役の方が似合う。どう白く塗っても、少年ファンを魅くアイドルにはなりにくい。
近衛十四郎:なかなかの美剣士で、大都映画でも屈指の人気があった。特に大都映画最後の作品『決戦般若坂』の宮本武蔵役が好評で、戦後フィーチャーされて息を吹き返す。
大乗寺八郎:主役に敵対する剣士として大都でも面白い存在で、 ファンも多かった。
この「時代劇の役者たち」の終盤には、“チャンバラ映画にロマンを観た”と題された、色川とミステリー小説家菊村到の対談が収録されており、ここでも大都映画と近衛について語られている。
色川:あの頃、マキノ映画とか、市川百々之助のいた帝キネだとかがあった。ああいう会社のものもご覧になりましたか。
菊村:見ました。大都映画、極東映画、全勝キネマとかいろいろありりました。大都と極東は見ています。大都は近衛十四郎や大乗寺八郎がいて、松山宗三郎という役者が小崎政房という名前で、ムーランルージュの脚本を書いたりしていた。 小崎は良心的な現代ものの監督もやりましたね。
色川:阿部九州男とか。そういえば、杉山昌三九が健在で、この間何かの写真に出ていましたが、おじいさんになっているけど昔の色男の感じがあった。 (中略)
色川:時代物は大体リメークが多いですね。
菊村:多い。前進座で撮った山中貞雄の『河内山宗俊』は、色川さんはビデオをお持ちでしょう。 あれを戦後、松竹かどこかで萩原遼という監督が『江戸遊民伝』とタイトルを変えてリメークした。近衛十四郎が河内山宗俊で、宇野重吉が金子市之丞をやったんですけど、これはおもしろかった。
二人の対談は大都映画のエピソードにも及んでいる。
朝、雪が降ると、とにかく全員集まれという召集令が社長からかかってくる。「いま雪が降っているから、桜田門の井伊大老がやられる場面をすぐ撮れ」というのだが、シナリオも何もなく、その場面だけを撮って、後で映画作ったそうで、また、詩人で翻訳家だった田村隆一は大塚生まれで大都映画のそばに住んでおり、遊んでいると「坊やちょっと映画に出ないか」と誘われてチョイ役出演をしたことがあったらしい。

(三四郎さま 2007年12月14日)


「ぴったんこカン★カン(2008年1月29日放送)」の松方さん

弘樹さんはちゃんのことは少しだけ、「おやじが亡くなって始めてしっかりしようと思った。」と語れてました。(2008年1月30日 MaChidaxさま)
松方さんは「大樹」と このちゃんの事を表現されてました。
(2008年1月31日 のりりんさま)


「テレビ探偵団」の朝潮関

高砂親方、現役の頃は朝潮という四股名でした。その朝潮関、今から十五、六年前、三宅祐司が司会する「テレビ探偵団」という番組にゲスト出演したことがありました。この番組には毎回、ゲストが「もう一度見たい番組」をリクエストするコーナーがあるのですが、なんと朝潮親方は「素浪人花山大吉」をばリクエストしたのです。三分間ほどのコーナーで、大吉について語り合う・・・という図式なのですが、残念ながら例によって「おから」「長刀」「クモ」「しゃっくり」といったお決まりの観点しか話題にならず、突っ込んだコメントもありませんでした。流れた画像も短すぎて何のエピソードからのものだったかも忘れました。
朝潮関の「大吉」以外に「兵庫」をリクエストしたゲストも勿論いました。誰だったかは失念。そのときは「狂った刃におびえていた」の画像(悪党退治の山の中、ばったり出会った二人連れ、どこまで続く腐れ縁、という部分)が流れました。(キンちゃんさま 2008年2月3日、9日)

私もこれ、見ました。ゲストは、松尾貴史さんです。ただ、松尾さんは、「兵庫」と「大吉」をごちゃ混ぜにしていたようで、「この番組で『バカタレ』という言葉を知った」というようなことを言っていました。「バカタレ」は「大吉」ですものね。(イベールさま 2008年2月9日)


森田新さんインタビュー(by 春日太一さま)

行ってまいりました、森田新さんのお宅へ。3時間近くもお話いただき、大充実の熱いインタビューとなりました。「兵庫」の脚本作りの裏話は夏に発売予定の拙著を御覧いただきたく。
こちらでは、近衛さんとの交流についてのエピソードを少し羅列させていただきます。
・森田さんと近衛さんは京都でご近所に住まわれていており、テレビシリーズが始まってから交流するようになり、森田さんはよく近衛邸に飲みに行っていた。
・近衛さんは普段は気難しい人だったが、森田さんには心を開いてお互い楽しく飲んだ。
・近衛邸はテレビ「柳生武芸帳」が始まってから、小川の流れる日本庭園を擁する大豪邸となった。
・「柳生〜」の頃、実は近衛さんはよく、「もう少し柔らかい役もやりたい」と森田さんに相談していた。が、森田さんは、「あんたは剣は上手いけど、芝居は下手やから無理や」といって笑っていた。
・近衛さんは休みの日に魚釣りに出かけることが多く、大物が釣れたときは帰りに付き人が森田さんに魚を届けてきた。
・「兵庫」開始後は、コミカルな芝居をすることに近衛さんは勝手が判らず、戸惑いが多かった。その度に、森田さんと電話で演技プランを相談していた。東映京都で、脚本家に演技の相談をしてきたのは近衛さんただ一人。それほどまでに、「素浪人」シリーズに近衛さんは熱を入れていた。
・森田さんが撮影現場を訪れたとき、近衛さんはよく、「また面白い話書いてよ、みんな楽しみにしてるから!」
と言って励ましてくれた。
・品川さんと森田さんの親交も深く、二人でよく温泉に行った。
・シリーズの終了は、満足な動きができなくなった近衛さん自らの意思。その折、近衛さんから森田さんに、「アンタの脚本のお陰でいい仕事をやらせてもらえた。ありがとう」というお礼の電話があった。
……といったところが、近衛さんと森田さんの交流についての主なエピソードです。
近衛さんの実直な人柄、近衛さんに対する森田さんの想いが伝わってきて、お話をうかがいながら、こちらも思わず目頭が熱くなりました。
ちなみに、サブタイトルの半分近くは東映京都テレビプロの宮本プロデューサーが趣味で半分をつけていたそうです。
あと、これは余談ですが、初期の東映時代劇の予告編のナレーションは結束信二さんがされていたとのこと。
とにかく、他にも貴重なお話満載の贅沢な時間を過ごさせていただきました。
また、折を見ていろいろ披露させていただきたく思っております。(春日太一さま 2008年2月7日)


「わが街 わが友(東京新聞 2/8)」より

私が愛読している東京新聞では「わが街 わが友」と題して各方面の著名人が自らのおいたちや来歴の回想などを全15話に渡って紹介するコラムが連載されています。今回は小説家・脚本家の本庄彗一郎さんの記事が掲載中です。2/8はその三話目。滝野川・「母の実家は映画一家に」の巻。
興味深い冒頭を引用します。
「父の仕事の関係で北区滝野川に引っ越した。昭和17年、小学4年生だった。お地蔵さんで有名な巣鴨の現在の白山通りにあった大都映画のまん前に母の実家の小沢家も移転していた。戦前この活気あふれるユニークな撮影所に、なんと叔父が4人も働いていた!大伴龍三という年間16本も監督した外叔父をはじめ、脚本家、カメラマン、助監督といった映画一家に小沢家は変身していたのだ。巷ではB級三流といわれた娯楽映画専門の会社で杉山昌三九、阿部九州男、松山宗三郎、ハヤブサ・ヒデト、近衛十四郎(松方弘樹・目黒祐樹さんの父上)や藤間林太郎(藤田まことさんの父上)など二枚目がズラリ。そいて琴糸路、久野あかね、三城輝子、北見礼子(林与一さんの母上)などなどの美女たちが勢ぞろいしていた。で、早速その撮影所にもぐりこんだ私は、きれいな女優さんたちに可愛がられキャンデーやその頃では珍しいネーブルなどをもらって得意になっていた。」…
と貴重な大都映画の思い出を語られています。
すごいですね、撮影所内を遊びまわっている小学生。撮影所スタッフに親戚がいたという特権があったとはいえ、滅多に実現できない体験の持ち
主だったようです。ひょっとしたら若き日の近衛十四郎氏も遠めで見ていたかも知れませんね。(三太夫さま 2008年2月9日)



「戦国の剣豪」上映会レポ

殺陣師の尾形(伸之介)先生と帰り際お話出来たのは収穫でした。萬屋さんの「子連れ狼」の殺陣をつけられていたそうです。やはり、刀捌きは天下一品です!!それと、「斬人斬馬剣」での小田原城(本当は彦根、姫路城)の門番役に、芦屋小雁、雁平兄弟が出られていたことも発見でした。小雁さんは有名なホラー映画コレクターのマニアですよね。後、結城の哲ちゃん(元チャンバラトリオの結城哲也さん)も出られてます。
先ほど、検索したら(尾形先生は)「隠密剣士」で品川さんと共演されるんですねえ。で、本当近衛様の刀を改めて観たら確かに長けが尋常より長いですねえ、やはり、只者じゃないです。
それと、萬屋さんの殺陣は素晴らしかった事と「妖刀村正」の話や、柳生烈堂は実際は僧で剣客ではない等、勉強に成りました。村正妖刀伝説ですが私見ですが徳川家康公が刀というか鞘捌きが下手だった、ことに由来している様な気がします。やはり、どんな世界、道でも基本に素直で無いと怪我しますなあ。
それと、当時鞘が当たれば武芸者同士即戦いが始まるのは常だった様です。やはり、日本の剣の道は周囲に配慮が常だったんですねえ。
本当、尾形先生に学ぶことが多い一日でした。(MaChidaxさま 2008年2月23日、28日

このちゃんは殿様の役で、「この映画は、アラカンさんが主役ということになっているが、本当は近衛さんなんだ」と尾形さまがおっしゃっていました。そのくらい出ている時間が長かったです。それと(セリフが聞こえないので、想像しながら筋を追うしかないのですが・・)このちゃんが人の死を悲しんで泣いた(目から涙)シーンがありました。私は泣いたこのちゃんを初めて見たので、すごく印象的でした。あと、尾形さまの撮影現場でのお話の中で、「近衛さんとの練習中にはうまくいっていたのに、本番になったら自分を寄せ付けないように(腕をピンと張って刀を構える実演あり)し、ものすごい気迫で迫ってきたので「さすがスターさんだと思った」「くそ〜近衛め〜、と悔しかった」というようなことをおっしゃっていました。(鈴雪さま 2008年2月24日


いろんな写真の話

三太夫が知っている親子4人の写真は、
●「近衛一家の腕相撲大会(「平凡・週間平凡 スタアの40年」)」  ※撮影は昭和30年頃と思われます。祐樹がめちゃくちゃ可愛い!
箪笥の上にテレビが置いてある素朴な居間で寝そべった近衛先生が長男弘樹と腕相撲、中央で坊ちゃん刈りの物凄く可愛い祐樹が行司の位置、向かって左にそれを優しく見つめる八重子夫人…という構図の写真です。
●超貴重な「近衛父子の散歩風景(「20世紀アイドルスター大全集」Part-1)」※これも子供たちの年齢から推測して北区赤羽から引っ越したばかりの頃でしょうか。
親子3人の写真(近衛先生が雑種の犬を連れ、弘樹が自転車を押し、祐樹がバドミントンのラケットを担いでいる。遠方は京都の山々か)も確認しています。松方弘樹は映画界デビュー前で市井の少年って感じです。しかし映画スターの家の子だけあって、二人ともいい服を着ています。
図書館とかでリクエストすれば、見ることが出来るかも知れませんね。(三太夫さま 3月18、20日)

(”よく見る写真”として話題に上がったもの)
撮影時期は’60年頃で、場所は自宅。親子4人でうつっています。このちゃんと八重子夫人は和服です。弘樹クンは上は学ランで下が白っぽいズボン(何で?)、祐樹クンは白いセーターの上に千鳥格子のジャンバーを着ています。八重子夫人はきちっと帯を締めていますが、このちゃんはかなりラフな着方で(下に下着のシャツが見えてる)、あぐらと言うか立て膝というか、をしていて、その肩に祐樹クンが肘をのせて寄りかかりながら「ボクのお父さん、なんてかっこいいんだろう!」というようにこのちゃんを見ています。このちゃんは寄りかかられているせいか、身体は30度ぐらい傾いていて今にも倒れそうです(が、嬉しそうです)。このちゃんの髪はオールバックです。このちゃんと弘樹クンは、釣り竿を持っています。このちゃんは弘樹クンの持っている釣り竿を指さして何やら言っている(「この竿はな〜。ヘブラナがよく釣れるんだぞ」とか?)様子。そんな3人を八重子夫人は優しい笑顔で見ています。という写真でした。
写真といえば、時代劇マガジン16号(平成19年7月発行)に載っている、このちゃんと弘樹さんのツーショットの写真が好きです。撮影現場で、このちゃんがカツラと衣装をつけ、腕組みしていて、弘樹さんはこのちゃんの傍らに立ち、二人で談笑してる、って感じの写真です。このちゃんがりりしくて優しそうで、好き!何年頃の写真なのでしょうか?(鈴雪さま 3月18、20日)

週刊誌なんかに載った近衛一家の写真で私が見て覚えているのは、あの松山容子さんが近衛家を訪問したという記事です。「くれないお仙」に出ていた頃なので、昭和43年頃のものかな。なんという雑誌だったかは不明。(昭和43年12月の「週刊平凡」10巻52号、こちらにその記事の紹介)応接間らしき部屋で、松方さんと松山さんが寄り添って、壁に掛かった鹿の首(近衛さんが猟で仕留めたものとか)を見ていて、それを入り口のドアから半身乗り出した和服姿の近衛さんが冷やかしているというヤラセ写真でした。
それからもうひとつ。月刊明星で、スターの両親の婚礼写真を披露する特集があって、そこで目黒祐樹さんが自分の両親、つまり近衛さんですね、の写真の解説をなさってました。こっちの方は実家の段ボール箱に眠っているはずですから、また日を改めて詳しく報告します。(キンちゃんさま 3月20日)

キンちゃんさまご紹介の松山さんの近衛家訪問の写真ですが。
十四郎さま、松山さん、弘樹は着物姿。壁にかかった鹿の頭についての説明は、十四郎さまが松山さんにしていたと思います。「僕もあなた(松山)のファンですよ。」と言う松方に「いやだわぁ。」と照れる松山云々の文章が、写真の端に書いてあったはず。
このとき、すでに弘樹は結婚していたのですが、まだ秘密にしていたときです。「十四郎さまが冷やかした」というより、適当な写真に雑誌社の人がうまくセリフをつけたというものでしょう。(中村半次郎さま 2008年3月20日)


近衛・松方対談

近衛さんはいまどんな撮影を?」と松方さん。「近衛さんてのはよせよ、おかしいじゃないか」と前置きして映画の話に。
「二日ばかり前に『お岩の亡霊(’61年7月公開)』を完成して、この後がまた剣豪もので、これが十分立ち回りを楽しませてくれるよ」(対談の時の格好が十兵衛なので、『柳生一番勝負 無頼の谷』か?)
松方さんのサウスポー剣法を「板に付いてきたな」とほめると、松方さんは、「親父の血を引きながら、どうしてこうへたなのかな」「キャリアの問題だよ、まだまだだね」それから話は、松方さんの『水戸黄門(助さん格さん大暴れ)』へ進みます。(略)
北条さんに「一番好きなものは」と聞かれて松方さんが「鉄砲ですよ。もううちは親子揃ってなんだから」というと、「すぐに自慢するんでね」とこのちゃん。
誰が撃ち落としたかわからないから、「ぼくはいつも弘樹に譲っているんだ」と。松方さん「ちょっとオーバーだね」。
(家に飾ってあるキジやリスは、松方さんが撃ったものらしい)
皿撃ちやクレー射撃もいいので今度連れて行くと言う松方さんに、「そのかわりやみつきになっちゃうぞ(笑)」
サウスポー剣法について聞かれると、「映画演劇を通じて大変古い歴史があるんだけれども、その中でも一人もこれをやった人がいないんですよ」松方さんの場合生まれつき左利きなので、「本人ものぞんでいたことだし、最初からサウスポーにしたんだよ」
松方さんへの今後のアドバイスとして、「もうボクは20年以上もこの世界にいるんだけれど、今が一番映画界がピンチだと思う。昔のスターが育ってきた時と 終戦後の時代というものの社会情勢がぜんぜん違ってきているから、若い人も大変だろうと思う。種々の制約があったり、うかつなことをしていたんでは、ポツ ンと置いてきぼりをくうから。今までの俳優以上に勉強もしなければならないし、それからね、ボクが一番考えてもらいたいのは、これからの俳優というものは 動きが大切であり、激しい動きが要求される。だからまず、若い者は健康に気をつけること・・・すべてのことについて、例えば水泳でも馬でもなんでもやれる ような訓練もしていかなくっちゃ」と仰ってます。
やはり常々、映画界の行く先を考えておられたんですねえ。(thanks さざ波さま 2008年6月23日)



ある夜の品川隆二

だいぶ昔のはなし。
大阪のテレビ局が製作していた番組なのだろうと思いますが、毎週土曜の深夜に東京12チャンネル(現テレビ東京)で放映されていた、藤田まことがホストをつとめるトークバラエティーショーに、品川隆二が出演したことがあります。近衛十四郎はすでに亡く、品川もレギュラーを抱えてはいなかった、そんな時期の出演でした。
品川隆二といえば焼津の半次。どうしても一世を風靡した、その三枚目のキャラクターに話題が集中してしまう。なので、とうぜん藤田も半次の芝居に話を振る。
ですが、当の品川は、あまりその話題には触れられたくはなさそうでした。今のわれわれは、品川自身が三枚目役が嫌いだったことを知っていますから、それも理解することができます。しかし、当時はそんなことはわからない。なので、藤田もホストとしてのつとめから、なんとしても半次の話を引き出そうとする。そして揚げ句の果てに、「あの近衛十四郎の素浪人花山大吉。いま、再放送されてまんねんけど、あの焼津の半次、クモを見て驚く芝居、あれよろしいなあ」と、強引に話を持っていく。
品川はそこまでいわれては仕方ないと思ったのか、渋々ながら「ギャーッ、出た〜、出た〜、クモ〜ッ。は、早くどうにかしてくれ〜」と、椅子から転げ落ちての大サービスぶりを見せる。
そんな場面があったことを覚えています。(三四郎さま 2008年7月8日)



剣聖小川金之助とこのちゃん

昭和の剣聖小川金之助は、1884年に愛知県岩倉市で生まれ、北辰一刀流の内藤高治に師事。大日本武徳会に所属し、武道専門学校の教授をつとめる。昭和9年、皇太子殿下(今上天皇)御誕生を奉祝する天覧試合に、小野派一刀流の高野佐三郎、神道無念流の中山博道らとともに出場。のち大麻勇次、斎村五郎、中野宗助、持田盛二とともに、剣道十段の位を送られた。
剣道界では昭和12年に、はじめて六段以上の高段位を発行した。ときの最高位は九段で、小川、中野、斎村、持田、島谷八十八の五名である。
剣道に十段位がとり入れられたのは昭和32年で、真っ先に推薦の打診を受けたのは長老中山博道だった。しかし、博道は断った。範士だった博道は、「範士称号は実力、識見、人格ともに斯界第一であり、それ以上のものはない」 称号制があるのに、なぜ別系統の階級が必要なのか。九・十段というのは、範士の上なのか、下なのか、どこが違うのかというのが、その理由だった。
小川らにしてもこの制度に反対であり、先輩さえもらわなかったものを頂戴できないと固辞した。しかし、受けなければ制度自体が崩れ去るとの懇望により、やむなく受けたというのが実情である。
この小川金之助について、いっとき近衛十四郎が剣道の修練をしたことがあるのだが、それは、小川が京都の立命館大学で剣道の師範をしていた頃ではないかと思われる。
ちなみに、小川金之助は1962年に死去。そして、昭和49年に持田盛二、大麻勇次十段が相次いで他界したあと、十段は空位のままなのだそうです。
(三四郎さま 2008年7月20日)



殺陣の工夫

殺陣というのは、あくまでも舞台上や画面の中で観客にカッコよく見せるというのが第一なので、構え方・斬り方・受け方において、ある程度の誇張やポージングなどが必要になります。
目黒さんのお話によれば近衛さんは、刀を持った自分の姿や、刀を振っている自分の姿、斬った後のポーズなどについて、どうすればカッコよく画面の中に納まり、迫力を出せるのかについての研究に余念がなかったようで、その結果、ああいう構えや刀の振り方が生み出されたとのこと。
あの独特の刀身の剣も、画面での収まりのバランスを考えて独自に開発されたようです。
考証とか理屈にこだわってたら絶対に生れないアイディアかと。

自分が耳にした話ですと、舞台・映画・テレビそれぞれで映え方が異なることを意識されて、それに併せて構え方や剣のバランスを新たに開発されていたらしいです。
その辺りは、右太衛門さんの影響もあったのかな、と。なにせ「諸羽流正眼崩し」の構えを「どうすれば一番効果的に映るか」という観点から考案して、その上、カメラアングルによって微妙に変えたりした方でしたから。(春日太一さま 2008年7月24〜26日)


「ぶらり途中下車の旅」その2(’08年6月28日放送分)

横浜黄金町から”品川”までを旅されてました。(MaChidaxさま 2008年6月28日)
今回は横浜発京浜急行での旅。蒲田駅に向かっている車内にて目黒さんご本人が「蒲田は、昔ですけど、撮影所があったんですよね。うちの父親が俳優を
やってた時代の撮影所があった町です」と仰り、あわせて画面左下に白枠で近衛さんの顔アップ白黒スチール写真と 「提供 松竹(株) 大忠臣蔵 1957 監督 大曽根辰保」とテロップ、続いて、ナレーターの滝口さんが「父の近衛十四郎さんは、松竹や東映でも活躍した時代劇スター」と紹介されました。
(南まさとさま 2008年9月29日)



骨の髄まで剣豪だった

(戸上さんについて)先日、関係者の方からうかがったお話を一つ。
近衛さんご自身が戸上さんの腕前を相当買っていたということで、一対一の決闘シーンがある時は必ずといっていいほど相手役には戸上さんをご指名されていたそうです。
ちなみに、近衛さんは現場で怒ることはほとんどなかったのですが、スタッフがうかつにあの長刀を倒してしまうと「おのれ、武士の魂を!」と激怒されたそうです。普段から剣豪の精神で過ごされていたのですね。
あと、柿が大の苦手で、ロケ先に柿の木があると帰ってしまうこともあったようで。なんか、そのまんま兵庫な感じで微笑ましい話でした。

(春日太一さま 2008年10月2日)


陣師

殺陣師でいえば近衛さんの担当は谷明憲さんですね。近衛さんは谷さんに絶大な信頼を置いておられて、この方以外には基本的には殺陣をつけさせませんでした。稽古場で二人で新しい構えや動きを開発することもあったようです。ただ、60年代後半になると谷さんは任侠映画も担当することになり、素浪人シリーズ半ばあたりからは中々現場に入ることができなかったようですが。ただ、お体を崩された近衛さんのため、本人を傷つけないよう気づかれない範囲で殺陣の手数を減らしたり、といろいろお気を使われていたとのこと。
ちなみに足立さんのことですが、60年代以降の東映時代劇は「足立流の否定」が一つ潮流でした。
それだけに「三匹の浪人」では当人も必死だったのかもしれませんね。「三匹の浪人」は例外的作品です。
足立流はどちらかというと右太衛門に代表されるような「舞い踊るような殺陣」でした。が、それではもう黒澤明や五社英雄の時代劇の迫力に太刀打ちできなくなり、「新しい殺陣を」ということで「集団時代劇」になっていきました。(春日太一さま 2008年10月8〜9日)


伏見の釣堀で

私が中学校のころ住んでいた京都の伏見の釣堀に土曜日ごとに 近衛十四郎さんと松方さん目黒さんの3人が真っ赤なスポーツカーで訪れて楽しんでおられたのを思い出します。まだ、お二人さんは売り出される前でしたね。見たことのない〔ポケバイ〕ポケットバイクに乗った目黒さんが今も瞼に焼き付いています。可愛かったですよ。
釣好きはお父上の近衛さん譲りなんですね。

目黒祐樹さんとほぼ私と同じ歳。で松方さんは5歳 お兄さんですから当時高校生か18歳くらいでしょうかね?とにかくかっこいい真っ赤なスポーツカーでのお出ましでした。母が「近衛さんだよ」ってお父上のことを教えてくれました。多分近衛さんの運転だったんでしょう。まもなく釣堀がなくなって見ることもなくなりました。
ポケバイがあることすらまだ 知らない時代でしたね。 あの当時から目立つ父子さんでした。(夢子さま 2008年10月12、15日)



意外に評価が低い、近衛十四郎の実力

いまから30年ほど前のこと、昼のTBSの番組で、時代劇スターの人気投票をやったことがありました。誰が一位で、ドンケツだったかはさすがに記憶していませんが、人気の上位を占めていたのは竹脇無我、西郷輝彦、杉良太郎などで、近衛は20位ぐらいだったと思います。
この頃、近衛はすでに亡かったとはいえ、兵庫、大吉は、子供から年寄りまで、茶の間のファンをおおいに沸かしたはず。
番組のコメンテーターとして出演していた評論家小沢遼子の「へぇ、近衛さんてこんなに人気がないの!?」という、意外とも驚きとも受け取れる言葉が印象的でしたね。
近衛の柳生十兵衛に、柳生拵えの鍔の眼帯をするようにアドバイスした五味康祐も、剣戟スターとしての実力は「相撲の番付でいえば前頭、小結程度」と、評価はかなり低い。
東映に移籍して以降の近衛は、映画評論家深沢哲也の「横綱」は言い過ぎとしても、「大関」の実力はじゅうぶんにあると思うんですけど・・・。
そうそう、ちょうどTBSで時代劇スターの人気投票をを放送した前後、片岡千恵蔵、大友柳太朗、松方弘樹の3人が、NHKホールで近衛十四郎についての対談をしてます。
もっともこれは、テレビやラジオで対談しているのを直接見たり聞いたりしたわけではなく、当時、妻子がありながら、仁科明子と浮名を流していた松方弘樹が芸能記者に追っかけられており、「きのうはNHKホールで、片岡千恵蔵さん、大友柳太朗さんとお父様のお話をしたりして云々」と、ワイドショーでリポーターが報告をしていたという話。
実際、千恵蔵、大友、弘樹の対談は、テレビやラジオで放送されたことはないと思います。(三四郎さま 2008年11月4日)


抜き打ちタイムNO1

私は近衛さんの人柄がよりよく出てると思われる「素浪人」シリーズは勿論。あの顔つきで演じられる事によって他のキャラクターもより魅力あるものになったと思っております。
しかしなんと言っても殺陣の上手さが格段の魅力です。どこがどう違うのかどのような工夫がされてるのかスロー再生しながら見るのも楽しみのひとつです。題名の「抜き打ちタイム、NO1」は永田氏著の「殺陣」のなかの一項目です。その中で近衛さんが戸上城太郎と抜き打ちの早さを競って決闘する場面が記述されてます。
以下文中通り[戸上が抜こうとする出鼻を近衛が踏み込んでグッと刀の柄を出して牽制し、体が入れ違ったときにはもう斬っていた。いつ抜いたかわからないくらいのスピードで、戸上もうまいスターだし、この決闘場面は迫力があった。]以上
 刀身の長さを分かりやすく80cmとすると最速で抜くには鞘柄をそれぞれ逆方向に40cm移動すれば抜けます。上記の場面で近衛さんが柄を出したため、40cm鞘を引ける状態になりますから、鞘柄とも40cm動かせば抜刀できます。つまり普通の状態から抜くより半分の時間で抜く事ができます。居合では「鞘引き」といって技を形成させる上で大事なことです。
 ですから、落し差しの居合の達人は矛盾します。なぜならそれ以上鞘を引けないからです。萬屋版「小連れ狼」での一見だらしないように柄を前方にだして差していたのはその点では理に適ってます。
 近衛さんに関する記述では読んだことはありませんが、おそらく「居合」「古武道」なども研究して殺陣に使えそうなものを取捨選択してたのではないでしょうか。(村常丸さま 2008年11月4日)


病後に出た味

中原弥兵衛は、加藤剛の『大岡越前 騒乱』にゲスト出演した近衛十四郎が演じた役で、徳川幕府転覆を企む武田源柳斎一味の老剣客。ドラマのストーリー等については、このサイトの“このちゃん本”に記されているのでここでは省きます。
当時の『TVガイド』には、確か「千恵蔵、十四郎の見事な殺陣」という大見出しとともに、銃創を負って倒れ、顔を苦悶に歪める近衛と、それを抱き起こし声を掛ける片岡千恵蔵の顔がアップになった写真が載り、『大岡越前 騒乱』が紹介されました。しかし、この頃、近衛は糖尿病の悪化により体調は最悪で、したがって『〜騒乱』では見せ場であるはずの特異な立回りは精彩を欠き、新国劇の伊吹聡太郎に一歩も二歩も譲っていたというのが実情です。
ですが皮肉なことに、病気だったことが“剣のスター”ではない、一個の俳優としての枯れた演技を引き出した。その意味で、この中原弥兵衛は、兵庫、大吉以降の近衛のベスト。そしていま思えば、中原弥兵衛は、近衛が兵庫、大吉のイメージから脱却し、新しい役柄を開拓する、その道筋をつけてくれたのではないかという気さえします。
ところが、この中原弥兵衛に目を止めたプロデューサーなり監督はひとりもいなかったのか、糖尿病を克服した近衛は、兵庫、大吉の延長である、腕っ節は強いがどこか惚けた素浪人を主人公にした『素浪人天下太平』でカムバックする。そしてこれが終わると、今度は目黒祐樹との親子共演によって『いただき勘兵衛旅を行く』の放映が開始される。もっともここには、名コンビと謳われた相棒役の品川隆二はおらず、視聴率もいまひとつで、『素浪人月影兵庫』からはじまった近衛の“素浪人シリーズ”は、『いただき勘兵衛旅を行く』をもってようやく完結する。
近衛は、この“素浪人シリーズ”を完結するにあたり、愛着はあるが、進歩がない」(プロフィール「思い出ばなし1 でも、やっぱり先輩の前では緊張?「基い!」)という言葉を残しています。聞き手からすればこの近衛の言葉は、兵庫、大吉のイメージが、彼にとって手枷足枷になっていたとしか受けとることができない。僕自身、品川隆二と再びコンビを組むならともかく、そうではなしに兵庫、大吉のイメージで近衛を復活させも逆に気の毒だろうと、父親と話したのを記憶しています。
そうである以上、なおさら中原弥兵衛は、心のなかに深く刻み込まれているのだろうと思います。(2008年11月12日 三四郎さま)


3代つながった「君を信ず」

今日(2008年10月31日)のレディス4(テレ東系情報番組)に、目黒さん&近衛はなさん親子が出演されていて、トークの中で近衛さん(もち十四郎様の方)にちょこっと関係したエピソードがありましたので、一応ご報告いたします。
それは、はなさんが父目黒さんからもらった、とても大切にしている言葉、というもので、その言葉というのが「君を信ず、父」
はなさんがフランス留学をする時、友達がみんなで寄せ書きをしてくれた中に、目黒さんが書いてくれたんだそうです。
で、司会の大島さと子さんの、これはどういう経緯で・・という問いかけに、目黒さんがこちらの「思い出話」(「目黒祐樹さんが語るには」 「松方さん目黒さん出演番組でのこのちゃん関係・思い出話の8」)でもお馴染みの、ご自身の留学時に父近衛さんからもらった手紙のことを話されていました。あの時のことを思い返すと、自分が娘に送るのに、あれ以上の言葉が思い浮かばなかったそうです。
そして、自分があの手紙をもらって感じた、こんなに信頼されているのならしっかりしなきゃ・・という思いを、娘も同じように感じ取ってくれたら・・と思って送った、と仰ってました。又、はなさんの方も、目黒さんと近衛さんのこのエピソードはもちろん知っていたので、それだけに今度は自分がこの言葉を貰ったことがとても感慨深かったそうです。
話の中に、近衛十四郎、という固有名詞は一切出ませんでしたが、まさに今日の番組のテーマ、親子の絆(木曜日はこの辺がテーマらしい)にふさわしい、心温まるお話でした。ちなみに、はなさんは、近衛さんのことを「おじいちゃま」と呼んでいましたよ。
以上、目黒さんご出演というので、録画予約して帰宅後見たのですが、お2人のめちゃ仲睦まじい幸せ父娘ぶりに、仕事の疲れも吹き飛びました。
いゃあ〜いい番組でした〜(笑)
(2008年10月31日 南まさとさま)


『一場の夢−二人の「ひばり」と三代目の昭和−(西木正明著)』より

美空ひばりは二人いた。
そして、松竹歌劇団員から大都映画のスター女優に転じた初代美空ひばりは、近衛の紹介で知り合った大都映画の俳優香取英二と結婚し昭和18年に映画界を引退したことを、かつてこの掲示板に書き込んだ(思い出ばなし2「愛のキューピット?!」)。
平成元年に『凍れる瞳』『端島の女』で第99回直木賞を受賞したノンフィクション作家の西木正明氏は、このふたりの美空ひばりを軸に、『一場の夢−二人の「ひばり」と三代目の昭和−』(平成17年集英社刊)という、長編のノンフィクションノベルを書いている。
西木氏には、戦前から戦後にかけての一時期、異能のプロデューサーとして映画界で知られた小笠原武夫という義理の叔父がおり、昭和43年か44年頃、『二人の「ひばり」と三代目の昭和』と題し、あるテレビと組んで、初代美空ひばりのドキュメント番組を作ろうとしていた。が、『二人の「ひばり」と三代目の昭和』は製作されずに終わった。
ディレクターと構成台本を書くシナリオライターが、初代美空ひばりに会いひととおりの話も聞いていたところ、「われわれの企画が美空ひばりのおっかさんの耳に入り、強硬に反対されたらしい。そんな、お嬢が誰かの二番煎じと受け取られるようなことは、絶対にやめてほしい、と。あの当時の美空ひばりはまさに絶頂期だった。だから各テレビ局は、ことひばり問題となると必要以上にぴりぴりしたんだ」ということだった。
これに付随して小笠原の親友であった、住吉連合波木一家三代目の波木量次郎は、「あのときオガちゃんが立てた企画は、おおむねこんな内容だったと思う。そろそろ戦後も二十年、昭和の御世になってからは四十年の歳月が流れた。この際、戦後文化の申し子である美空ひばりと、裏社会で戦後を担ってきた山口組三代目、そしてその陰にひっそりとたたずむもうひとりの美空ひばりの生きた時間を映像でなぞることで、昭和という時代を掘り下げてみたい。ふたりの美空ひばりについてはなんとかなりそうだが、三代目がむずかしい。田岡親分のインタビューを取る手段はないかと、オガちゃんがわたしに聞いてきたんだな。そこでわたしが田岡さん本人は無理だが、ガキの頃から田岡さんをよく知っている人がいると言ったら、ぜひ紹介してくれというから、段取りをつけた。なのに、その後話が前に進んだ気配がないので、おかしいとは思っていたんだ。今聞いてはじめてわかったんだが、当初与しやすしと思っていたふたりの美空ひばりの線が壁になったんだな」といっている。
しかし西木氏は、生前、小笠原から渡されていた資料、『山本富久子氏(初代美空ひばりの本名、旧姓は高城)に関する取材帳』と、『沖田源三氏(波木が小笠原に、ガキの頃から田岡をよく知ると紹介した人物)の回想』、そして本の体裁にととのえられた、山本富久子のインタビューが時系列に整理されている『ふたりの「ひばり」と三代目の昭和』の台本草稿。さらには、小笠原の死後に子息の照夫から届いた、田岡と歌姫ひばりの母である加藤喜美枝が死去した昭和56年以降に書かれたと思われる『ふたりの「ひばり」と三代目の昭和」(追加分)を読み進み、独自の取材を続けてゆくうち、ある思いに突き当たる。
歌姫美空ひばりがあれほどのビッネームとなったのに対し、初代美空ひばりの存在がまったくといっていいほど忘れられているその背景に、田岡一雄が大きく関わっている。そのように小笠原は考え、ドキュメント番組は、それを証明するために企画されたものだった可能性が高いのではないだろうか・・・。
西木氏の『一場の夢−二人の「ひばり」と三代目の昭和』は、その過程が綴られているのであるが、その真偽はともかくとして、私にとって非常に興味深いのは、「初代美空ひばり台本草稿」に、近衛十四郎に纏わる話もいくつか紹介されていることである。
大都映画時代初代美空ひばり(以下、山本と記す)は、近衛十四郎とかなり親しかったらしく、これについては彼女本人が「はい、かわいがっていただきました」と語っている。そのいっぽう、近衛の愛人だったのではないかという噂もあったそうで、当時のスタッフの中には、あなたが近衛さんと同じ部屋で寝ていたなどと言った人もいるが、とインタビュアーの質問はかなり辛辣。山本は「あの頃、興味本位でおもしろおかしくそんな噂を流す人がいて、とても迷惑しました」と言いつつ「そういうことがあったかも知れません」と、近衛が山本の部屋で寝ていた事実については否定していない。しかし、「でもそれは(近衛が山本の部屋で寝ていたのは)、近衛さんがわたしの身を心配してくださったからです。ロケスタッフや共演者の中には、目をつけた女性の部屋に侵入して乱暴をはたらく人もいましたので。だから、そんなことを言う人は怪しいですよ」つまり、近衛は山本のガードマンを買って出ていただけで、男女の関係にあったのではないということを強調している。
昭和18年、山本は近衛の紹介した大都映画の俳優香取英二と結婚し、映画界を引退するのだが、これについては「一握りの大女優は別にして、結婚したら引退して家庭に入る」のが当時はあたりまえだったという。その山本が結婚した香取英二だが、彼は大都映画がなくなったあとは近衛十四郎一座に加わった。香取の話によれば、近衛は山口組三代目の田岡一雄と懇意で、昭和23年か24年頃、近衛一座は田岡の世話になって四国を巡業したのだという。
さらに彼女は言う。
「多少世の中が落ち着くと、近衛さん自身、映画などで忙しくなり、自分の劇団の面倒を見るいとまなどなくなったようです。劇団の活動がにぶると、当然ながら団員にも影響し、ひとり、ふたりと、櫛の歯が抜けるようにやめていきました。それでも主人は、昭和二十五年まで頑張りましたが、朝鮮戦争がはじまる少し前の六月はじめ頃、ついにおひまをいただいたのです」
ここから先は、これまでの台本構成を行うシナリオライターのインタビューではなく、小笠原自身が書いた台本草稿で、歌姫美空ひばりがデビューしたことについての執拗なまでのインタビューが繰り返される。
―さて、戦後の混乱も昭和二十三年ぐらいになると、ようやく少し落ち着いてきました。その頃です、あなたと完全に同姓同名の美空ひばりがデビューしたのは。あなたはいつ、それを知りましたか。
「いつだったか正確には覚えてませんが、あれはたしか昭和二十四年の初夏頃ではなかったでしょうか。古い友人から手紙が来て、美空ひばりの公演だというんで、あなたがカムバックしたのかと思って、その劇場へ出かけて行き、楽屋を覗いたら、あなたとは似ても似つかぬ小さな娘がいた。いったいどうなってんの、と言われたんです。その頃戦後して主人が、『悲しき口笛』という映画のポスターに、でかでかと美空ひばりという名前が出ていた。驚いて、あいつめ、いつの間に無断で映画なんかに出やがったんだと、怒り狂ったものの、ポスターをもう一度よく見ると、かわいらしい娘が刷り込まれていたというので、きょとんとした顔つきで帰ってきました」
―それはそうですよ。ご主人も驚かれたと思いますよ。それからどうなりました。
「別にどうもなりませんでしたよ。いつだったか、あれはたしか主人が近衛劇団を辞める少し前のことでしたから、昭和二十五年の夏ではなかったかと思いますが、家族ぐるみのつきあいをしていた近衛十四郎さん御一家とともに、一日千葉の海で遊んだことがありました。その時近衛さんが、にやにやしながら、ひばりちゃん、カムバックおめでとう、と言ったんです。わたしは怒ったふりをして、冗談でも、そんなことは言わないでくださいと言い返しました。その時いっしょにいた近衛さんの長男の浩樹(こうじゅ)くん、現在の松方弘樹さんですね、その浩樹くんが、こんなことを言ったんです。ひばりちゃんはもっとちいちゃいよって」
―あはは。なるほど。松方君は昭和十七年生まれですから、当時七つか八つですね。
「そうです。なつかしいですね。浩樹くんも今はあんなに立派になられて」
―で、どうなんですか。自分と同じ名前を持つ歌手が登場した時、あなたはどう思われました?
「(ひばり、複雑な表情になって、ぽつりと)どうって言われても、わたしはもう、彼女が出て来る何年も前に引退した身でしたから」
―何年も前と言われますが、あなたが結婚して引退なさったのは、昭和十八年でしょう。その時点からたった四年後にすぎませんよ。そこへまったく同姓同名の芸能人が登場した。少なくとも、驚きはしたでしょう。
「それはそうです。そんな時、驚かない人はいないと思いますよ」
―ただ、驚いただけですか。
「うーん、そうおっしゃられても、ねぇ」
―向こうから、事前に諒解を求められたとかいうことは?
「友人に言われてはじめて気がついたくらいですから、それはないです」
―だったら驚きを通り越して、文句のひとつも言いたくなったのではありませんか。
「そりゃあ、いったいこれはどういうことなんだろうとは思いましたよ。でも、文句を言おうという気にはなりませんでした」
―どうして。
「だって、どこに言っていいのかわからないかったんですもの」
―わかってたら、言いましたか。無断で芸名を使われたら困るって。
「でも、無断かどうかすらわからなかったのですから」
―そんなこと、大都映画の後身である大映なりに問い合わせればわかることではありませんか。
「そんなことすら思いつきませんでした」
―驚いた。あなたって人は、欲がないというか、なんというか。その時ご主人は、何かおっしゃってましたか。
「とりたてては何も」
―なんだか変だなあ。当時はまだ、ご主人は役者をやってたんですよね。「はい」
―だったら、役者にとって芸名というものの大切さを、身に沁みてご存知のはずだ。なのに何もおっしゃらなかったのですか。
「あの頃のわたしどもは、生きることに必死で、かつてわたしが使っていた芸名をどなたがお使いになろうと、そんなことはどうでもいい、今日明日どうやって食べていこうかと必死だったのです。子供たちも育ち盛りでしたからね」
この後、歌姫美空ひばりの身内が山口組と関わっていた不祥事や不幸、そして結婚に破れた以降の歌姫ひばりの来し方についてが触れられたあと、初代ひばりも山口組について聞かれ、近衛に纏わる話もこれで終わる。
「わたし自身は親しくしていただいたわけではないですが、親分をよく知る近衛十四郎さんや主人の話では、田岡親分は、人間的にもとても立派な方だった、と」
―あれほどのおお所帯をまとめあげた人物ですから、器はでかかったと思います。わたしもさる組のトップと面識がありましたが、その人なども、田岡さんは非常に優れた人物だと言ってました。でも、世間的にはやはり、日本最大の暴力団の元締めです。
「田岡親分が、終戦直後から長く社会を蝕んできた、覚醒剤などの撲滅に力を尽くされたことなど、世の中の人はあまり知らないでしょうから」
―あなたはどうして、そんなことをご存知なんですか。
「戦後も家族ぐるみでつきあっていた近衛十四郎さんから聞いたんです。映画俳優の中にも山口組の盃をもらった者がいる。そうした者が、突然姿をくらましたので、皆不審に思っていると、一年ぐらいにひょっこり姿を見せるんです。彼が山口組の一員であることは皆知ってましたので、おう、だれそれさん、しばらくあっちへ行ってたのかい、と言ってからかうんですね」
―あっちって、どっちです?
「ご存知のくせに。刑務所ですよ」
―でも、実刑くらって刑務所に入っていたのなら、一年程度で出てくるのはおかしいでしょう。
「さあ、そのあたりのことはわたしにはなかりません。ただ―」
―ただ、なんです。
「その時話に出てくるあっちなんですが、実は刑務所ではないんですね」
つまり山本富久子は、田岡が命を狙われている者を匿ったり、麻薬常習者を座敷牢に入れて矯正させていたのだというのである。
そしてこの後、昭和四十年代に山本が横浜に住む母親の世話をするため、南区蒔田に住んでおり、歌姫美空ひばりが紅白へ落選した翌年の昭和49年に膵臓癌で夫を失い、昭和50年には、自分たちの仲人をつとめてくれた水川八重子(近衛十四郎夫人)、さらに52年には母が他界し悲しみに暮れていたことなどが語られる。
そして最後に、「引退されてから今日まで、マスコミにまったくといっていいほど登場されなかったのは、誰かに頼まれたり、極端な言い方をするなら、沈黙を強制されたりしたからではないのですね」さらには、「ご主人が芸能界を引退なさったあと、ある方の紹介で建設会社に入ったといわれましたが、その方というのは、もしかして・・・」と書かれ、小笠原が残した『ふたりの「ひばり」と三代目の昭和』の台本草稿は終わっている。(2008年12月5日 三四郎さま)



「東京人(’09年1月5日発売 都市出版(株)」から

特集「剣豪の世界」ということで、内容が濃くて読み応えがあったと思います。近衛さん関係としては、まず特集ページの最初に「十兵衛暗殺剣」での大友さんとの、湖での対決シーンのスチールが見開きでどど〜んと。もちろん近衛さんには、柳生十兵衛のキャプション付き、さらに同映画の紹介もあります。
それから縄田さんと川本さんの対談にも、近衛さんの話題がちょこちょこと。
当然ながら、お二人が選ぶ「剣豪を演じて際立つ俳優」にも近衛さんのお名前があります。(おすすめのチャンバラ映画には、「十兵衛暗殺剣」と「剣豪乱れ雲」が)
あと、殺陣師久世浩さんのインタビューにも、久世さんが近衛さんの剣さばきの巧みさに感心していた、という記述がありました。素浪人シリーズをよくご覧になっていたみたいです。ちなみに、他に印象に残っているのは大友さんの豪快な殺陣とのことでした。
そして肝心の松方さんインタビューは、写真ページを含めて6ページ。内容は、父近衛さんに関する思い出がメインで、プラスご自身に関することという感じ。近衛さんについて語ってらっしゃる部分は、他の媒体(時代劇マガジンとか)でのインタビューや、こちらの「思い出ばなし」にUPされている内容とほぼ同じだと思います。ただ、松方さんが父親に殺されるかと思ったという、「崖っぷちまで追いつめられて、竹刀で叩かれる」シーンのある映画のことを、時マガ16号では「中山道のつむじ風」だと仰っている(こちらの「思い出ばなし2」にも同様の記述がありますよね)のに対し、この本では「勢揃い関八州」だと仰っていて、それが松方さんの勘違い(汗)なのか、それとも2つの映画に似たようなシーンがあったのか、私には判断つきませんでした。
で、写真ですが、近衛さん関係は全部で3枚、「独眼一刀流」の親子ツーショットスチールと、他の2枚が家族写真。うち1枚はこちらの「思い出ばなし3」に載っている釣り竿を持った近衛さんで、もう1枚は親子3人で碁盤を囲んでいる写真です。もうこの写真が個人的には大ヒットで〜(笑)中央に和服姿で胡座をかいた近衛さん、右手にビール瓶を持ち、左手のコップを口元に寄せてらっしゃいます。その前に碁盤、それを挟んで、右に学ラン姿の松方さん、左に和服姿の目黒さんで対局中・・という図。もの凄く楽しそうな笑顔の近衛さんもさることながら、ご子息ズがめっさめさ可愛いんですよ〜(特に目黒さん)きっとそう(お正月)だと思います。松方さんの後ろに、何やらお正月飾りのようなものが見えるような気がするし。本当に、よき時代の幸せな家族のひとコマっていう感じです。見ているこちらまで幸せになります(笑)近衛さん、本当に素敵な笑顔なんですよ〜。(南まさとさま 2009年1月12日)



「月影兵庫」放送(NHK・BS)時の品川さんインタビュー

昨日(時代劇専門チャンネルで’09年1月〜「花山大吉」放送時)品川隆二さんのインタビューが放映され、元気そうな姿を見て胸が熱くなりました。平成3年にNHKの衛星で月影兵庫が再放映されたときにも品川隆二さんのインタビューが放映されましたが、この時はなにか疲れた様子が見られて、胸が痛みましたが、今回は貫禄も増して、かえって若々しくなったのではないかと思えます。
NHK衛星の月影兵庫再放映は平成3年の6月にスタートしましたが、放送の後に5分から10分くらいの品川隆二さんのインタビューが1回のみ放映されました。「昔の撮影所には時代劇がそこら中にいっぱいあったし活気もあった、それは今は感じられない」「近衛さんとは余計なこと以外は話さないようにしていた、それが端から見ると、あの二人は仲が悪いんだなあと思われる原因になったのかも知れない」と言うようなことを言われてました。表情も冴えなかったのですが、話の内容がどうも焼津の半次役を好んでいないような印象を与えるもので少しがっかりした記憶があります。(長沢威さま 2009年1月27〜28日)



松方さんの座長公演時のケガ

松方弘樹の座長公演といえば、こんな話がありました。
いつのことかは定かではないんですが、多分これも近衛が病気療養中の頃の出来事だったのでしょう。松方弘樹がケガをして入院したことがあり、これによって座長公演が中止になったのかどうかについては記憶にないのですが、知らせを聞き駆けつけた近衛が、事情を説明する間も与えず「バカヤロー、何てぇざまだ!」と、烈火のごとく怒ったんだそうです。(三四郎さま 2009年5月10日)

十四郎さまが弘樹を叱ったかどうかは覚えていませんが、弘樹のけがは覚えています。勝新さん(だったと思います)たちと野球をして、ピッチャーの弘樹とランナーがぶつかって、ろっ骨を折ったというものです。場所は岐阜の羽島で、最初の奥さんが夜中にタクシーを飛ばして駆け付けたとか。
座長公演はちゃんと興行されました。(中村半次郎さま 2009年5月11日)


少年の思いは・・

小学生の頃、病気見舞いの手紙を書いたことがありました。
大吉の放送が終わり、近衛が糖尿病の療養をしていた時です。読売新聞に、新宿のコマ劇場かどかでやる松方弘樹の座長公演の案内が刷り込まれており、たぶん昭和30年代のものだと思うんですが、それに出演する近衛のスーツ姿の写真が小さく載ってたんです。そしてその写真を切り取って封筒に入れ、確か「松プロ」でしたねぇ、近衛本人にではなく松方弘樹に、「このようにふっくらとした元気な姿を、早く見せるように伝えてください」って手紙を出したんじゃなかったかなぁ。
もちろん返事は来なかったですけど…。(三四郎さま 2009年5月10日)



『星を喰った男』(P.211〜212)

↑は、潮健児さんが1993年に出版した著書のタイトルです。
「他にも松方弘樹さんが、映画デビューしたとき、お父上の近衛十四郎さんがね、わざわざ僕のところまで訪ねてきてくださってね。
『今度うちのボンがデビューさせていただきましたんで、よろしゅうお願い申しあげます。』
なんて頭を下げられたりして、かえって恐縮しちゃいましたが、そんなことがあったんですよ。脇役にいじめられるとスターは伸びませんからね、まあ僕らのところをずっと回ってこられたんだと思いますが、だれでも息子はかわいいんだなあ、なんて思って。それがいまではあんないい役者ですからねえ。」
潮さんは大正14年生まれなので、このときは68歳です。
(中村半次郎さま 2009年5月29日)


別冊近代映画「ひばり捕物帖 折鶴駕籠特集号」のインタビュー

先だって昭和35年発行の別冊近代映画「ひばり捕物帖 折鶴駕籠特集号」を手に入れたのですが、そこに「スタアの窓」と題して、近衛さんへのインタビューを織り交ぜつつの紹介記事が、2ページに渡って載ってました。ちょっと抜き書きしてみると、丁度この頃東映に入社した松方さんに対しては、「子供のころから私の生活を見ているので、俳優の苦労を知っているのだと思いますよ。(中略)弘樹は俳優としての心構えを知っているように思います。年に似合わずしっかりしているので、どんな苦労にも耐えてくれるものと思う」と仰っていて、目黒さんも併せて芸能一家となったことについては「ファン・レターが息子たちに多く来るんで、しっかりしないとオヤジは食われてしまいそうなんです」てなご冗談も。そしてご自身については、「私も、もうひと花咲かせるつもりですよ。今度の東映入社を機会に・・」「心機一転して、大いに頑張るつもりです。大体、俳優というものは、競争相手がいないとダメなもんです。その点、昔、右太プロにいた私としては、昔の師匠の下だし、それに諸先輩がズラリといますから、上の目標には困りません」とのこと。また、立ち回りについては「若い人にも負けないようにしっかりやるつもりです。立ち回りはきついといえばきついものですが・・。しかし、おかげさまで、身体だけは至って丈夫ですから若い人たちと一緒でも負けない自信があります」と。そしてカラミ役の方達について「でも、この私を立ててくれますので、やり易いんです。東映のカラミが上手なのは、もう映画界の定評ですしね。ですから大変私も楽なんですよ」と褒めてらっしゃいました。(南まさとさま 2009年7月21日)


福本清三さんインタビュー(読売新聞夕刊東京版’09・0812)

7面に福本清三さんのミニインタビューが載っています。
その中で「松方のお兄ちゃんも、長い刀を力強く操った偉大な父親に近づこうと、すごく意識していましたね」とあります。
弘樹、十四郎さま、錦之助さん、千恵蔵さん、右太衛門さんの顔写真も。小さいですが。
(中村半次郎さま 2009年8月12日)


かなわぬ夢

昔、尾型伸之介が『テレビガイド』誌上で、活躍の場を映画からテレビへ移して後の近衛の立回りに関して、「刀を軽々と扱っているようで重そうに見せているのは類がない」というようなことを言っていたのを記憶していますが、正にそれが芸というものであり、“剣のスター”と呼称される所以でもあるのでしょう。芸のない役者があれだけ人を斬ると、興醒めさせられるのが普通です。
しかし、『殺陣という文化』という本の中の対談で、中島貞夫監督が「近衛十四郎と若山富三郎は殺陣に自信をもっている」と語っていることからじゅうぶん推察されますが、自らもアイデアを出し、チャンバラを見せることに徹したでしょうから、当然、カラミ役のテンションも上がるという相乗効果をも生むわけで、近衛に限っては魅入らせられるわけです。
僕は、ストーリーはさておいて、近衛と若山の対決だけを見せる、これだけでも十分に面白いチャンバラ映画が作れると確信しているのですが、今はそれも、かなわぬ夢となってしまいましたね。(三四郎さま 2009年8月17日)


水の江瀧子さんの訃報で

水の江瀧子さんが亡くなられましたね。

題名は忘れてしまいましたが(「スターのお宅訪問」か?)、彼女はかつて日テレで放送されていたスターの豪邸を訪れる番組で、近衛十四郎邸を訪れたことがあります。『素浪人天下太平』の撮影現場における水の江との対面があり、そのあと近衛邸を訪れ邸内を案内されたあと、インタビューが行われました。近衛夫妻は共に和服で、インタビューは豪華な造りのリビングで行われたのですが、話をしたのはほとんどやゑ夫人のほうで、近衛はほとんど頷くか笑っているだけ。水の江に「ちょっと、あんたも笑ってばかりいないで何とか仰いなさいよ」と突っ込みを入れられ、「笑うしかしょうがないですな」とタジタジだった近衛が印象に残っています。
ちなみに水の江瀧子は、戦時中に劇団たんぽぽを主宰しており、ここには有名になる前の有島一郎と田崎潤、そして二本の現代劇を監督したあと大映をやめた小崎政房がいました。小崎政房は、大都映画時代に松山宗三郎の名で時代劇スターとしても活躍し近衛十四郎との共演作もあり、亜細亜映画プロダクションの『叫ぶ荒神山』が両者のはじめての出会いでした。小崎は劇団たんぽぽをやめたあと、田崎潤や左卜全を引き連れて劇団空気座を結成。この空気座が上演した『肉体の門』はあまりにも有名ですが、この後昭和二十七年、小崎は東映と連合映画の提携によって製作された、田崎潤と大友柳太朗主演の『遊侠一代』を天辰大中と共同で監督し、近衛もその他大勢の端役ではあるものの、これで『決戦般若坂』以来十年ぶりとなる映画出演を果たす。近衛が主演スターとして売り出されたのが吉良の仁吉を主役に据えた『叫ぶ荒神山』で、端役ではあるにしても、同じく吉良の仁吉を主役にした『遊侠一代』で映画界復帰を飾るというのも何か因縁めいていますが、これから八年後、松竹から東映に移籍した近衛が挨拶代わりに撮った主演作の『砂衛呪縛』に、今度は田崎潤が敵役の鳥羽勘蔵で出演するわけです。(三四郎さま 2009年11月24日)

水の江瀧子のインタビューに対して、やゑ夫人が主人は非常に子供っぽくワガママであり、住まいもひとつところに落ち着いて構えていられず、何度引っ越しをしたかわからないということを強く訴え、それがまぎれもない事実であることから、当の近衛は頷くか笑っているしかなかった、という経緯がひとつあったと記憶しています。
あと、水の江の「今回の主人公(天下太平)の年齢は三十代後半から四十代前半の設定でしょ?」という問いに、「そう、そのぐらいの年齢でしょうな」と、近衛は応えていましたけど、風貌は大吉の終盤あたりとほとんど変わらず、まだかなり痛々しかったですね。もっとも数ヶ月あとには、顔もふっくらとして健康そのものという感じになるのですか…。
近衛がはじめて主役を張った亜細亜映画の『叫ぶ荒神山』、そもそもこれに主演するはずだったのは、まだ結城重三郎を名乗っていたころの松山宗三郎で、詳しいことは不明ながら、監督をつとめた白井戦太郎との当初からの約束だったそうです。ところが、結城は役者をやめて新宿のムーランルージュ文芸部に入る決心をしていたため、自分は脇の神戸の長吉役へ回り、主役の吉良の仁吉を近衛に譲ったと、こう云われています。
しかし結城は役者をやめることができず、河合徳三郎に三顧の礼をもって近衛よりも早く大都映画へ迎えられ、名前を松山宗三郎と改名。再び時代劇スターとして活躍する一方、本名の小崎政房で良心的な現代劇も数多く監督し、とりわけ水島道太郎主演の『級長』は、大都映画現代劇屈指の名作との評判が高いです。その後、松山は監督して大映に残り、現代劇を二本監督したあと 水の江瀧子の劇団たんぽぽへ入ったわけです。(三四郎さま 2009年11月25日)



「開運なんでも鑑定団」に出た刀

今日放送の『開運なんでも鑑定団』に、近衛十四郎使用の刀が登場。
新春スペシャル時代劇『柳生武芸帳』の番組宣伝を兼ねて、反町隆史ら主な出演者がお宝を持って登場。そして山田浮月斎役で出演する松方弘樹が持って来たのが、近衛十四郎特注の刀でした。
松方曰わく、近衛が映画の『柳生武芸帳』で使用したものとのことですが、つくりから見て、どうも兵庫、大吉でのもののようにも思えるのですが…。
いずれにしても、鑑定額は50万円。あくまでも小道具としての金額だそうです。近衛が使用した特注品としての付加価値込み。松方が使用すれば、付加価値はなお上がるとのことで、それでなくとも、市場に出れば百万単位の金額が付くかも知れないとのことでした。
なお、近衛十四郎の紹介では『八州遊侠伝 白鷺三味線』での秋山要助のスチール、そして映画の『柳生武芸帳』では『片目の十兵衛』の剣戟シーンが流れました。
この刀が、松方のいう『柳生武芸帳』シリーズのものではなく、テレビの兵庫、大吉で使用されたものではないかと僕が思った理由は、柄の長さ。番組のナレーションでも近衛の使用する刀の長かったことは強調されてましたが、それにしても松方の持って来た刀は、刀身と比べて柄の長さが異常だったためです。(三四郎さま 2009年12月29日)

このチャンの長い刀は松方氏が持っていた。本人は柳生武芸帳シリーズで私用との事であったが、刀の束が長いので三四郎様が仰っていました兵庫か大吉のではないか?自分もそう思いました。それはともかくあの長い刀をさっと抜いてみせるのは、今では松方氏だけしか出来ないそうです。このチャンはどんな狭い所でも難なく自在にあの刀を使っていたのです。改めてこのチャンの凄さが解ります。鑑定士も言ってましたね。「剣豪スターだった近衛さんは所作・殺陣・振る舞いはNO.1と言われ別格的な存在だったと。あの刀評価額は50万だったけどオークションにかけたらうん百万はなりますね。
(yukimente2005さま 2009年12月29日)


素浪人シリーズの影響

「日経キャラクターズ」の2005年5月号に載ってた、マンガ家の北条司さん(「キャッツ・アイ」や「シティーハンター」の方です)のインタビューによると、マンガを描くにあたって影響を受けたものは、「漫画以外かな。作風のハードな部分は、時代劇「燃えよ剣」の俳優・栗塚旭さんのイメージだし。コミカルな部分は近衛十四郎さん。「月影兵庫」や「素浪人 花山大吉」の方ですね。」(←「」内原文のまま)だそうです。
きっとこれらの2作品って、大地監督やこの北条さん以外にも、色んなジャンルの方々に様々な影響を与えてるんじゃないかという気がします(^_^)(南まさとさま 2010年1月16日)


目黒さん親子インタビュー(時代劇専門チャンネル「瓦版」’10年3月放送と’10年4月6日放送の「徹子の部屋」)

映画「獄に咲く花」で親子共演された目黒祐樹さんと近衛はなさんへのインタビュー。
まずは、映画での役どころについて。その後、インタビュアーの「親子で初共演ですね」の問いに、目黒さんは、照れくさい、はらはらどきどき、複雑な気持ちが混ざり合って一言で表現しにくいが、基本的には嬉しかった、幸せなきかんでしたかね。近衛はなさんは、初めての時代劇で主演ということで一杯一杯で、あまり共演の幸せ感を味わう余裕はなかったが、映画ができてみて一緒に映っていたりすると嬉しいですね、幸せなことだなと思いますと、仰ってました。
続いて、映画で、罪人役のはなさんが牢を飛び出して、慕っている吉田松陰の入っているかごをお追いかけるシーンで、力が入って目黒さんを突き飛ばしてしまったと言うお話では、目黒さん、「私は自分の娘がこんなに力持ちとは知りませんでした」と。
そしてインタビュー中、一番長かったのが「近衛十四郎さんについて」!(以下、は=近衛はなさん、目=目黒祐樹さん、問=インタビュアー)
は「生まれる前に亡くなってしまったので、会ったことはないんです。でも映像ではたくさんあっているので」
問「映像から受ける印象はどうですか?」
は「もうかっこいいですね!(と目黒さんの方を向いて:目黒さん「うん」)。なんか、大きいというか(目黒さん「こわい」)、自由だし」
問「どういうお父様でしたか?」
目「昔の日本の親父ってみんなそうだったと思うんですよ。スクリーンでもそうですし、プライベートでも威厳があったというか、父親が一言発すればみんな『ははーっその通りでございます』っていうそういう構図でしたよね。」
問「お父様の仰ったことにああだこうだということはできなかったと?」
目「誰も」
問「誰も?」
目「はい」
問「そんなに厳しかったですか」
目「こわかったですね。ただ年がら年中怒ってたわけではないので。ただその言葉一言一言の重みが、僕らの時代では全く違いますよね」
問「お父様と共演なさったことは?」
目「もちろんあります。花山大吉のあとのシリーズで、素浪人ものが続くんですが、妻が女優なんですが、江夏夕子とですね、うちの親父と私と3人で共演したことがあります。
問「そういうときは嬉しいという気持ちと、やっぱり怖いとか?」
目「今回の映画じゃね、うちの娘は自分のことで一生懸命であんまり親子共演意識しなかったようなんですが、僕はやりたい放題やってたんですよ、父親とやってるときも。でも、今僕が、こういう立場になってみて、親として僕の事見てたら未熟な点ばかりで、それはそれはもう気を遣ってただろうな、はらはらどきどきしてただろうなと言うのは、やっとこの年にになってちらっと分かったという、そういう感じします。
問「(はなさんの方を向いて)そうですって」(笑)


(2010年4月6日放送の「徹子の部屋」の親子インタビューより目黒さんが留学中ホームシックにかかったときこのちゃんより「君を信ず」の4文字だけが記された手紙をもらってふっきれた。その同じ言葉をはなさんの留学時に贈った話)
目黒さんますますお父様に似てきましたね。目黒さんが留学中お父様からもらった四文字「君を信ず」明治の人らしいシンプルだけど重みある言葉ですね。同じ言葉をまた娘さんに伝える目黒さんもすばらしいです。(ろくりんさま 2010年4月6日)
(同インタビューより)
はなさんと言えばストレートの黒髪っていうイメージだったんすけど、今日は緩やかにウェーブがかかっていて、メイクも専門の方が担当されたのか、結構はっきりしていたんで、いつもの清楚な感じに比べて、より華やかな雰囲気を纏ってらしたように思います。本当に仲の良さそうな親子で、見ていてとても心が和みました。(←でも、ちょっと羨ましかったかな。自分の父親が早くに他界したので)
(”近衛”のほうが”目黒”より偉そうに見え、威圧されてしまったという目黒さんのお話)
はなさんが近衛という芸名にしたときに、最初は抵抗があったという目黒さんのお話が面白かったです。時専のインタビューにもありましたが、やっぱり近衛さんは目黒さんにとって、厳しいお父さんでらしたんですね(笑)(←もちろん、それだけではないと仰ってましたが)
いつもの一家四人の写真も登場したし、例の手紙のエピソードも聞けて嬉しかったっす。(南まさとさま 2010年4月6日)



北島三郎特別公演(2010年6月〜7月)で

夜の部のショーの最後のサブちゃんの言葉ですが。祐樹のことで、「僕が最初(のころ?)の新宿コマではお父さんの近衛さんとやっていたのが、今は息子さんとだもの。」です。(中村半次郎さま 2010年7月1日)
(パンフから)ちょっと抜き書きしてみると、制作発表時の記者会見から、サブちゃん曰く「(前略)目黒さんのお父さんの近衛十四郎さんと新宿コマ劇場で共演していますが、最近目黒さんと一緒にやっていると、だんだん近衛さんに似てきて、勘違いしているくらいです(笑)(後略)」とのこと。
そして目黒さんが、親子二代で大役を演じる事に対しての心境は?という問いに対して、「自分にプレッシャーをかけずに、そしてかつて父親が演じた水野十郎左衛門は意識しないで、自分なりの演技をすることを心がけています」と答えてらっしゃいます。その他、目黒さんは近衛さんとサブちゃんがコマで共演した舞台を見てらしたものの、その時は存在が大きすぎて声もかけられなかったので、初めて共演の話をもらった時はすごく嬉しかった、っていうのも。(南まさとさま 2010年7月2日)



松方さんの楽屋の写真

日テレプラスで、元気が出るテレビの再放送をしていて、先日「俳優松方弘樹の素顔に迫る」という企画をやっていたので、念のため見てみました。
まぁ、内容自体はどうってことなかったですが、東映京都撮影所俳優会館内にある、松方さんの楽屋内部が映った際、壁の上部に並んでかけられていた、近衛さんと八重子夫人のパネルが大写しになったんです。松方さんによると、「親父とお袋。いつも見守ってもらおうと思って・・」とのこと。お二人ともお顔のアップで、近衛さんはオールバックの背広姿でやや控えめに笑ってらして、右隣のパネルの八重子夫人は、にっこりと微笑んでらっしゃいました。松方さん、楽屋にいる間は、ずっとご両親と一緒だったんですね。
番組の本放送は1985年なんですが、今もあのパネルは、変わらずに松方さんの楽屋にかけられているはず・・と勝手に思っています。一瞬でしたが、とても嬉しい映像でした。あ・・そのVTRを見ていたたけしさんが、近衛さんが映った途端「親父さんだ」と仰ったのも印象的でした。ひょっとして、たけしさんも近衛さんの映画やテレビに親しんでらしたのかも知れませんね。(南まさとさま 2010年7月12日)
10年程前のテレビ番組で、俳優会館の弘樹の部屋を映したときは、十四郎さま、八重子さまは写真立てにおさまっていて、パネルではありませんでした。そうですか、昔は大パネルだったんですね。(笑)
(中村半次郎さま 2010年7月12日)


「十三人の刺客」の松方さんは

ビッグコミック10/10号に、三池崇史氏とさいとうたかを氏の対談が載っています。そのほんの一部です。↓
三池  「(略)松方さんは、やればやるほど東映調になるんです(笑)。」
さいとう「松方さんが出てきたときはビックリしました。暗いところから出てくるんだけど、親父さんの、往年の名優・近衛十四郎に雰囲気がよく似ていた。彼だけちょっと演技が違うんだよ。立ち回りで刀が重くないもんね。」
三池  「松方さんは手首で斬りますからね。」
さいとう「そうそう、親父さんの立ち回りも踊りみたいでキレイだったからね。(略)」
(中村半次郎さま 2010年9月28日)


品川隆二さんトークショー(ラピュタ「剣聖 近衛十四郎」で、 2010年10月6日)(写真:中村半次郎さま、斉九さまご提供)

品川さんのお話のまとめ(?)です。話の順序は、バラバラというか、記憶が維持されていません。

品川さんは入り口近くの後方、補助席に座られて、「唄祭り赤城山」をご覧になっていました。上映後、椅子・テーブルがセッティングされ、舞台向かって左側から、「唄祭り〜」のポスター、品川さん、円尾さんです。

「唄祭り赤城山」は試写で見た限りだった。最初の雨宿りのシーンは少し「焼津の半次」がはいっていたね。二枚目役ならば、あそこは違った照れ方をしなければいけない。「唄祭り〜」は近衛さんが好きな役回りだった。近衛さんはさむらい役が嫌いだったわけではないが、やはり三尺物が好きだった。

大映時代は留置場だってこれほど汚くはない大部屋に入れられて、掃除しなければ殴られるので掃除する。すると今度はなんで掃除したんだ、と殴られた。手足を縛られてプールに投げ込まれた。いまなら殺人罪だが、ちゃんと時間を見計らって、誰かがロープを切るようになっていた。鶴田浩二が主役の予定だった映画を、鶴田浩二がどうしても嫌だと断った。自分は他の映画のロケで中央線に乗っていたのに、電報で呼び戻された。

兵庫のアフレコについて
付き人に自分の言ったセリフを記録させ、あとで自分で整理していた。そうしないと、口とセリフが合わなくなるため。左目で映像を見、右目で台本を見ながらなので0.3秒遅れる。人間の脳が物を見て信号を出すのにどうしても0.1秒かかる。だから0.2秒遅れていたことになる。シンクロになってからはラクになり、アドリブがいろいろできた。

役者の仕事で「家老役」が来たが、膝の故障で座れないため、断った。

円尾さんが四国から来た人がいるとおっしゃって、南さまを紹介。南さまが花束を贈り、円尾さんから「質問はないの」と促されて。「近衛さんと共演してよかったこと、もしあるならいやだったことは?」よかったのは(肝心なことなのにどういう言い方をされていたかが・・・・。記憶欠落) いやだったことはいっぱいあったなぁ。でも、皆さんも働いていていやなことあるでしょう。

私が第一シリーズから見ていたので、第二シリーズから猫嫌い、蜘蛛嫌いになったのが嫌だったと言ったら、なぜと聞かれてしまいました。円尾さんが補って説明されたら、第一シリーズのことはあまり覚えていなかったと。「浅間は怒っていた」は一番最初に撮影した作品ですかと聞いたら、「浅間〜」は良く覚えていると答えられて、あれが最初ですとお返事。
別の男性が1話だけ半次が出てない回があると言ったら、覚えていないのお返事。
いろいろいい加減に作っていたから、近衛さんだって「なぜ、おからなのか」はわからなかっただろう。

昔は芸能界の『常識』があったけれど、今はそんなことはない。勝新さんのパンツが最後でしょう。当時は薬局で売っていたので、2年ぐらいヒロポンは打ったが、禁止の後は打っていない。麻薬は絶対いけない。

あとは大地監督がツイッターで紹介されたように、「サービスするのは良いが、媚びては行けない」のお言葉が印象的でした。これは焼津の半次を演じていく過程でのお話で言われたことですが、品川さんの役者としての矜持のお言葉だと思います。

しっかりした口調で、楽しくお話してくださいました。次の回の時刻が迫ったので、2階のロビーに移りました。そこで、サイン、写真攻めの品川さんでした。私は「巌流島前夜」を見るべく、そこを離れたのであとはわかりません。

(引き続き、掲示板でのおはなし)品川さま曰く「護送されてきました」で、楽しいトークショーでした。
片足(左でしたか?)の膝のお皿を全部割ってしまったということで、杖はつかれていましたが、お元気でした。血尿が出て膀胱炎で、左わき腹を開腹して手術なさったそうです。なんと、その手術から10日ということでした。今も止血剤と他の薬服用中。
そんな大変なお身体で、十四郎さまの映画祭にいらしていただき、感激・感動しています。
トークの途中で、「今、傷が疼いた」とおっしゃってました。(中村半次郎さま 2010年10月7日)


一昨日は楽しい時間をいただきました、品川さん体調不良も条件として、サービスされてました。
当時の酒盛りシーンに関しては確かに近衛さんは当時酒豪でらして地に近い酩酊演技?だった様です。
品川さん自身「当時稼いだ金は全て京都市に寄贈致しました。」と笑わせていらしました。
後月影兵庫の猫嫌いはスタッフが麻雀中にまとわりつく猫を追い払う所から、浮かんだアイデアとか大吉のおから好きもどうしてそう成った近衛さんも記憶に無いとか、時代的に「てなもんや三度笠」を意識して番組を制作してたとか貴重なお話が聴けました。
もう一度ぐらいお逢いしたい品川隆二さんでした、風来坊笠半次兄さんお疲れ様でした。(MaChidaxさま 2010年10月7日)


再放送のこと:いくらリピート放送されても、俳優さんには一銭も入らないそうです。兵庫も大吉も、今までに数え切れないくらい再放送されたので、もし入るシステムだったら、今頃大金持ちだよね、と仰ってました。ドラマの場合、お金が入るのは、脚本家さん、監督さんと、美術と音楽に対してなんだそう。円尾さんによると、ハリウッドは俳優さんにも入るしくみになっているそうです。
友達は大切に:この年になると、仲の良かった方々がみんな死んでしまって寂しいね、と仰ってました。腹を割って話せた鶴田浩二さんも、若山富三郎さん、山城新伍さんも亡くなってしまったと。だから友達は大切にしないといけないよ、と会場に向かってしみじみと仰ったのが印象的でした。
あと、中村様のレポにある、「近衛さんと共演してよかったことは?」に対してですが、「もちろん、近衛十四郎という偉大な時代劇スターを知ったことだよ」と仰っていたと思います。「砂絵呪縛で初めて共演して・・お互い剣豪の役で・・こっちは新参、向こうは古参でね・・・いゃあ〜・・近衛さんは本当に凄い人だよ」という感じでした。
それと、始まってすぐの時、「今日は相棒の・・勝手に相棒って呼んじゃってるけどね・・」と、ごく自然に近衛さんのことを相棒と呼んでらしたのがめちゃ嬉しかったです。(その後は近衛さんでしたが)そして終わりに、「今日は近衛さんも本当に喜んでると思うよ」と言って下さったのにまたまた感激でした。(南まさとさま 2010年10月8日)


目黒祐樹さんトークショー(ラピュタ「剣聖 近衛十四郎」で、 2010年10月17日)(写真:中村半次郎さま)

トークの最初と最後に、祐樹が、「父の映画祭にいらしていただき、また多くの方が亡くなって34年になる父の事を偲んでくださり、とても有難いです。」の旨、おっしゃっていました。大地監督と春日太一さまが司会でいらっしゃったのですが、なんと控室で楽しいおしゃべりを先になさっていたそうな。そのお話の一部をトークショーで披露してくださいましたが、監督、春日さま、いいなぁ〜〜(笑)
トークショー終了後、1Fロビーでサイン会でした。
お一人お一人に、お名前を聞き、丁寧に「○○さん江」と書き、「素風」サイン、押印をして、そして握手、ツーショット写真に応じてくださいました。お一人が座右の銘を書いて下さいとお願いしたら、「座右の銘はないからなぁ。」とおっしゃいました。横から私、出しゃばって「君を信ず」はどうですかと申したら、「あれは親父の言葉だから」とおっしゃいました。それで、書かれた言葉が「春風深山」です。
これは以前、私がラジオ番組のプレゼントでいただいた色紙にも書かれていた言葉なのですが、意味がわかりませんでした。なんと、「人には春風のようにやさしく、自分には深山のように厳しく」の意味がこめられていました。祐樹さま、ごめんなさい。無知でした。(恥ず)
斉九さまは、祐樹の丁寧な優しいファンへの応対に感激されてました。
私はどさくさにまぎれて、興信所のように聞いてしまいました。八重子さまの旧姓は「角西(かどにし)」です。弘樹・祐樹を育ててくれたお祖母ちゃんは、「ノブさん」、長男になる方は早世されて、十四郎さまは「姉と妹」の間の「次男」だったそうです。
本日は江夏夕子さまもいらしていまして、これまたちゃっかり図々しく、お写真を撮らせていただきました。本当にいつもお二人で、仲がよろしいです。(中村半次郎さま 2010年10月17日

●弘樹がプロデュースした映画「蔵」では、新潟県魚沼市の『目黒邸』がロケに使われました。目黒邸は国の重要文化財になっている豪農住宅です。
祐樹に、目黒邸となにか関係はあるのですか、と聞きましたら、「いえ、ないです。」のお返事でした。でも、「”目黒”の姓は新潟では多いんですよ。多いといってもものすごく多いということではないですか。」と付け加えてくれました。
でも「きっと遠いご先祖さまはいっしょよ。」と勝手に思ってます。素晴らしい、すごい建物のようで、いつか行けたらばいいですねぇ〜。(中村半次郎さま 2010年10月18日)


トークショーは対談から、観客の質問を受ける形式で行われました。
対談なので、誰が発言したかなどの細かい点は、はっきり覚えていませんが、「祐樹の言葉」としてまとめました。また、メモ帳を忘れ、レシートの裏・余白に書き込んだものですから、話の順序が違っています。なにしろ記憶力が無い上に、かなり衰えていますので、不確かな部分が多いです。
その点はお許しの上、ご了承ください。
(最初に)
今日はここで話すのに、お客様がいらっしゃらなかったらどうしようと思っていたが、いらしていただいて大変嬉しい。父が亡くなって34年経つが、未だに近衛十四郎を覚えていてくれて、偲んでいただき有難い。
当時としては「十兵衛暗殺剣」は異色作、意欲作、大傑作であった。柳生十兵衛という時代劇の主人公が、松竹・東映と会社をまたいで制作され続けたというのは珍しく、だんだんリアルな作品に変化していった。
―大地監督― 十兵衛の眼帯が刀の鍔になり、今ではそれが定番になってしまっている。
アイデアをいろいろ出していた。今までにない初めてのことをたくさんしていて、常にいろいろと考えていた。どういう風にやれば良いか、刀はどんなものにするか、鬘ひとつにしてもいろいろ工夫していた。小道具にも凝る人で、周りの人は苦労していたのではないか。
(「十兵衛暗殺剣」で竹生島へ行く船に乗るために準備をする着物をあちこち切り裂くシーンについて)
水の中で着物を着たままでは泳げず、死んでしまう。そのために着物を切り裂くのだが、そのアイデアも父が出した。
「いただき勘兵衛」で共演したとき、立ち回りの凄い父親と同じようには立ち回りができないから、最初は手拭いに石を入れて振り回して、その後に刀で立ち回りをするパターンにした。その石を振り回すのは父が考えた。家で練習したけれど、上手くいかず、顔などにぶつけてばかりだった。
倉田監督もアイデア豊かな監督で、現場でいろいろ監督と父がアイデアの出し合いをしていたのではないか。
「十兵衛暗殺剣」は血まみれ、泥まみれで、時代劇の在り方が変わった。
幕屋大休という役は、大友先生が必要だった。圧倒的存在感である。評価が高まったのも、大友先生抜きでは考えられない。
近衛十四郎・大友柳太朗という大物の役者2人が、組んずほぐれず、水の中をコロコロ回るのだから、凄かったけれど、倉田監督はそういうのが好きだった。僕もある撮影で、足元のおぼつかない山の斜面で立ち回りをさせられた。究極のところまで役者を追い込んで、演技させた名匠。
高田宏治さんの脚本も素晴らしい。
十四郎さまが水の中でもがいて必死で戦っているのに、船の中で大友さんは女と寝ているという、コントラストが絶妙。大友さんのラブシーンも珍しい。
大友柳太朗さんのエピソード(控室で話していた話を披露)
東映の撮影所で。スタジオから俳優会館(俳優の控室がある建物)へ行く途中で台本の台詞を声を出しながら歩いている大友先生に会って、こちらが挨拶しても素通りされた。台本に集中されているので気付かれなかったのかと思うと、台詞の区切りがついた場所から、後戻りしてきて、挨拶をされる人だった。
殺陣の谷さんも研究熱心でいろいろアイデアを出した。父、倉田監督、谷明憲さんが三人三様でアイデアを出していた。
―大地監督― 寝ろと言われるので親に隠れて、こっそりと深夜放送の「十兵衛暗殺剣」を見た。それまでは花山大吉で大笑いしていたのだから、この作品にはとてもびっくりした。
(春日さんの話だったと思うが)
谷さん曰く、「如何に手を、足を飛ばし、血を出すか考えていた。しかし、当時映倫がうるさく、残虐シーンはカットされたりなので、「黒沢(監督)は良くて、どうして自分たちのはいけないのだ。」と言っていた。
映画のラストシーン近く、河原崎長一郎さんの刀を手にいれ喜んでいる山本一郎さん(湖賊・左手の無い男)の話となり、「竹生島に渡る時、十兵衛に斬られて湖に落ちたけれど、船の縁に手が残っていた。」の説明。
―大地監督― アニメの「十兵衛ちゃん2」を作った時、「十兵衛暗殺剣」と6カット同じ絵コンテにして、それを祐樹さんが吹き替えにいらした時に、その話をした。
萬屋錦之介さんの「柳生新陰流」で目黒さんは柳生十兵衛の役を演じたが、そのときのエピソードはないかの質問で。
衣装係の方が父の使っていた十兵衛の衣装を探し出し、プレゼントしていただいた。それを使って十兵衛を演じた。それは今でも僕の手元に残してある。僕がテレビで「鞍馬天狗」を演じた時は、既に父は他界していた。
立ち回りについては、手取り足取り教わったことはない。「自分のを見て盗め」と言っていた。まねているわけではないが、ちょっとした仕草、後ろ姿などが似るらしい。
野球は好きだった。自分でチームを作り、監督、ファースト、四番を打っていた。チームの練習も厳しかった。元南海の選手で、現役を退いた人を引っ張って来てチームに入れていた。常に負けたくないというわけだった。
北島三郎さんが座長公演を初めてしたころ、父が2回出演した。初めは僕の事を目黒ちゃんと呼んでいたのに、最近は近衛さんとわざと呼ぶ。脚本家の高田宏治さんにも、近衛さんと呼ばれたりする。
おからは好きで、酒の肴にしていたが、つまみより酒がメインだった。
―春日さん― 大吉のおから好きは、脚本の森田新さんが、おからが好きだった。
「戦前大都映画が合併され大映になったが、その第一作「維新の曲」の土方歳三役のオファーが来たか?」の質問から。
残念ながら戦後生まれなので知らない。映画から実演に行ったのは、当時はフィルムも少なくなり、映画自体が制作するのが難しい状況になっていたためと聞いている。
最後にまた、お礼の言葉を述べられて、1Fのロビーでサイン会になりました。
(中村半次郎さま 2010年10月20日)



松方さんの額の

ズーッと昔にテレビで聞いたのですが(知ってる人は知っている)松方さんが汗を拭くときハンカチをロール状にしておでこの汗を下から上に拭き上げるのです  司会の人が「どうしてそんな拭き方なんですか?」と聞かれて「私はね眉はこう上がっているからいいんだけど おでこの皺がミンナ下がってんです なんか情けなーい顔に見えるでしょ?ホントは親父みたいに皺の端が上がってたらカッコいいんですけど・・だからチョットでも上がるようにこうやって拭いてるんです」と 答えていました
今でもそういう風に拭いているのを見たことあります(2010年10月21日 のりりんさま)

まあ、そんな努力(?)をしていたとは、知りませんでした。若いころ、健さんの額のシワに憧れて、熱いお湯と冷たい水に交互に顔をつけて、シワができるようにしたということですが。シワはできたけれど、理想的なシワにはならなかったんですね。(笑)
(2010年10月21日 中村半次郎さま)


北沢典子さんトークショー(ラピュタ「剣聖 近衛十四郎」で、 2010年10月24日)(写真:中村半次郎さま)

メモ取りに気を取られて聞き逃していることがあります。また翌日から旅行だったので、まとめる時間がありませんでした。実は旅先でレポの整理をしようとし たのですが、肝心なメモを忘れてできませんでした。帰京してからも時間が無く日が過ぎてしまいました。意味の取れないところが多々ありますが、お許しくだ さい。
聞き手は円尾さんです。トークショーの始まる前に、北沢さんから「当時のことは覚えていない」と伺ったようです。
【北沢】こんにちは。ようこそ、たくさんの近衛十四郎のファンのみなさま。映画に感動して動揺しました。あまりに昔のことで、そんなことがあったかしらと夢のようです。
【円尾】フィルムは白黒ですが、近衛さんの肌も美しくて。
【北沢】この映画は好きで、DVDでいただきました。大きい画面の方が、さすが剣のスターさんで立ち回りが素晴らしい。映画時代の話は忘れています。ちょっと思い出せない。週替わり、2本掛け持ちでアチラのスタジオ、こっちのスタジオということで、役のところの台本を読んで、自分の(シーンの)スタジオに入るだけ。監督、共演者との話の記憶がないんです。忙しくしていました。
【円尾】昭和30年、本名(茂呂由紀子もろゆきこ)で映画出演。新東宝で1年、本名で10本弱ぐらいで、そんなにやってない。
【北沢】芸名をつけたのはオオクラミツル社長。美空ひばりさんの「雪之丞変化」の渡辺邦男監督のお嬢さんに「のりこ」さんがいらして、監督と社長でつけてくれました。
【円尾】北沢になり30数本新東宝で出て、東映に1年半くらい。後半ごろに結婚して引退。映画はやらないで、テレビをちょっとやって、映画は木下恵介監督の「父よ母よ」の1本のみ。今日の映画は昭和37年で、私が2歳の時で封切りで見てないが、この映画はインパクトが強かった。映画を見て北沢さんの印象、思い出したことはありませんか?
【北沢】新東宝にいたころは時代劇に出ていたんですが、作風が変わって、出るものが無くなった。別の会社、「時代劇は東映」で、両御大、若手は錦之助さん、橋蔵さんで華やかで羨ましいと思っていました。5年間は他社に行くことができませんでした。テレビが出始めて、まだ生(放送)のころで、すごく楽しかったです。後ろの大道具が倒れたりして。錦之助さんのお兄さんの時蔵さんと共演して、その関係で「東映はどうですか」となり、「家光と彦左と一心太助」の昭和35年、東映に。
【円尾】近衛さんとの共演は「豪快千両槍」「無法者の虎」「祇園の暗殺者」の3本。「豪快」と「無法者」は上映プリントなし。「豪快」では男の恰好でワンカット出ていたのを覚えている。
【北沢】記憶にないです。
【円尾】今日ので3本めですが、近衛さんはどんな感じですか。
【北沢】近衛さんはお顔を見ると濃い。息子さんの下の方の目黒さんがそっくり。ちょっと怖そうな感じですが、静かな方です。無駄口が出ないで優しかったです。あまり話さなかったです。息子の上の方は愉快な方でした。
【円尾】「無法者の虎」は?
【北沢】忘れました。
【円尾】「祇園の暗殺者」で人殺しの2人に惚れる。菅さんの役(田代)との出会いなどは?
【北沢】記憶にないです。出会いってあんなもので、何でもなく、次から次へとお会いするもので。

円尾さんが会場から質問を受けることに。
【私の質問】「無法者の虎」の菅さんが素敵で好きなんですが。
【北沢】菅さんのこと、覚えていません。
【私の質問】「無法者」と「祇園」のどちらがお好きですか?
【北沢】「祇園の暗殺者」です。
【質問】新東宝の中川信夫監督について
【北沢】面白い、愉快な方です。お酒を召し上がったら。撮影所では無口、照れ屋です。自分の気に入った方はバンバン叩きます。「今日は何回叩かれた」とか(スタッフが言ってました。)筆マメでした。お酒を贈ったら、すぐお礼状がきました。一口で「優しい」と(簡単に)言えないような方です。
【質問】「怪談 お玉が池」について
【北沢】覚えていません。
【質問】嵐寛寿郎さんについて
【北沢】渋い方でした。嵐先生もこちょこちょと面白いことをおっしゃるらしいけれど、大先輩でいらっしゃるから。普通のえばった感じのなさる人ではないです。
【質問】映画「雷電」について
【北沢】(北沢さんは恋人役です。)少女から女性の過程を見ると、恥ずかしい。もっと上手な人だったら良かったと思ったりします。
【円尾】ポスターだと、宇津井健さんにおぶわれていますね。
【北沢】小さいのでオンブするのも、さらわれるのもラク、からかわれました。丹波哲郎さんのような大きくて力のある方に抱かれると、息ができなくて、台詞が言えなくなりました。
【円尾】テレビから映画「父よ母よ」への出演のきっかけは?
【北沢】(女優は)嫌いで辞めたわけじゃないです。(結婚で)不承不承、家にいました。台本も全部処分しました。母もいて、子どもたちも手がかからなくなったんですが、母が急死してうちに籠るようになりました。数年後、事務所から話が来たので、それでやりました。北海道へロケに行きました。
【円尾】京都弁は学んだんですか、お手のものだったんですか?
【北沢】生まれは京都市内です。
【円尾】千原しのぶさんは岡山県出身ですが、職業柄、京都弁を覚えたんでしょうかね。 「祇園」の菅さんと北沢さんが出会うシーンは霧雨で、本間精一郎の暗殺シーンは土砂降りになる。暗殺シーンは移動にクレーンを使ってますね。三島ゆり子さんは本名・木内で出ています。三原有美子さんは北沢さんより若いけれど(2000年ころ?)亡くなられた。(この映画は)いろいろな会社のスターが出ています。主役が亡くなる、肝心要のところで銃で死ぬという、大分残酷な話です。(北沢さんが)ご主人と付き合っていた頃、昭和37年暮れごろに契約が終わって(結婚へ)で、他の男優さんに目が行かなかったのでは・・・。
【北沢】個人的なエピソードはないです。

もう少し、お話は続いたのですが、十四郎さまの話題でないので、メモとりも終わりにしました。
(中村半次郎さま 2010年11月14日)


上野隆三さんトークショー(ラピュタ「剣聖 近衛十四郎」で、 2010年11月6日)(写真:中村半次郎さま)

大地監督、春日太一さんが聞き手です。
メモを取り、写真を撮りながら、話を聞き、実演を見たわけで、忙しかったです。そういう状態だったものですから、聞き間違いも多くありますが、お許しください。速記ができませんから、上野さんのお言葉をずいぶんはしょっていますが、なるべく忠実になるよう、努めました。席はいちばん前を陣取ったものですから、近すぎて上野さんのお身体全体がはいった写真は撮れませんでした。もっとも、実演は動きが早すぎて撮れるものではありませんが。写真の面では難しい席でしたが、上野さんの足の運びなどをしっかり見ることができました。
今回は「忍者狩り」上映の前のトークショーだったので、観客が質問する時間はありませんでしたが、上映後にロビーでサインをいただき、質問をすることができました。

【大地】殺陣師というのはどういうことをなさるんですか。
【上野】アクション・ディレクターです。脚本を読んで監督と打ち合わせし、俳優に立ち回りを振付して指導する。いかに映画を生かすか、リズムなどを考えて作っている。作品によっては監督がいないときもある。(アクションの)監督をしていても、ギャラは安いけれど。(笑)ラス立ちなどになると、監督が「はい、上野くん、次やってぇ〜」と言われ、引き揚げてしまう監督がいる。それで続けてやっていると、監督に「まだやっているのか」と言われたりして。
【大地】現場で(立ち回りの)手をつけるんですか?
【上野】はい、現場でつけるけれど。台本を読んだとき、自分でイメージを作ります。想像と現場が一致すれば良いが、足場が悪いとかで困るときがある。あと、背景がイメージと合わないとかも困る。俳優に怪我をさせないようにも努める。
【大地】松方さんが一回見ただけで立ち回りを覚えるが、どうなんですか?
【上野】持って生まれたもので、ベテランはうまい。弘樹、里見、英樹、錦兄、橋蔵。いちばん早く覚えたのは、ひばりさん。お母さんとしゃべっていて、こちらを見ていないと思っていても、覚えている。ひばりさんのほうが僕より一週間早く生まれたので、僕の事を「坊や」と呼んでいました。天才です。踊りもそうだった。(覚えるのが早かった。)個人差があって、ダメな人は一日やってもダメで、疲れる。最近の人は、訓練・基礎ができていない。手でなくて、腰なんです。
【大地】うまくない人にあたったときはどうするんですか?
【上野】腰と足のバランスを教える。稽古に来たいと言う(気持ちのある)人ならば、多少下手でも「良し」とする。根性が必要です。できない奴は下を向くようになっていく。心です。なんでも心です。
【大地】近衛さんの立ち回りについて。
【上野】それは一番です。小学校のときから、見ていて。松竹作品では高田浩吉さんの敵役で、凄い人と思っていた。東映にきて、ごいっしょできた。凄い人で、西京極の広いグランドで、軟式なのにレフトスタンドに入れたんだから。東映(フライヤーズのことか?)にいたカタオカ(さん)でも、外野には入れられなかった。(カタオカさんは)同志社で3番打っていたんだもの。

ここから、前列の男性に立ってもらって、刀をもち、向かい合います。

【上野】これだけ接近していると、刀の鞘から抜こうとしても前の人に当って抜けない。 それをこうやって(と言い、刀を横の方にすぅっと抜いて)抜くんだから。グリップが強いから、剣さばきも早い。腰もなにもない。松方のお兄ちゃんには、先生のマネをするな、松方の柳生十兵衛を作れ、と言った。(近衛さんは)足腰が強いため、少々刀に振られても、(足腰が)付いていく。(刀を持って動きながら説明)青眼、右八双、左八双、大上段、(と次々にその型を見せる。)下段は刃を下にすると、上(峰)から押さえられて刀を動かせなくなる。だから刃を上に向ける(写真)。そうしたら、押さえることはできない。(近衛さんは)返しが早い。手首だけで。(と刀をさっと反対側に動かす。)僕はまだ腰を入れてるけれど。人より1.5(秒か?)早い。返すのが早い。
練習なんてしないから不思議。毎晩、お酒を飲んで。「忍者狩り」の試写の日、月影兵庫のロケに行ってた。(撮影の後)試写を見に行くと思ったら、家に連れて行かれた。「試写だから、飲みに行こう。」と言う。ダルマ、オールドだけど、それを10本ぐらいずらり、大工に作らせた棚に乗せていた。 オールドは当時なかなか手に入らず、1600円だったのを覚えているけど、手に入ると持っていった。試写はマネージャーの荒木さんから電話があり、「オレの今までの作品の中で最高傑作だ、嬉しい、飲もう。」と言っていた。酔っばらって2階に連れていく階段の途中で寝ちゃった。(階段の)下に落とすにも行かないし。しかし、次の日は8時にすっと出てきた。そこはさすがだ。飲み過ぎて挙句の果てに糖尿になってしまったが、逆に飲んでいなかったら、あんないい仕事はできなかった。
【大地】兵庫など酒を飲むシーンは楽しそうですものね。
【上野】水なのにね。本物(の酒)を飲んでいるみたいだけど、飲んでいることはない。本物の酒を飲んだのは錦之助さん。猿踊りのシーンがあって、飲まないとできないと言って飲んだが、イザとなったら寝てしまった。
「忍者狩り」がこれから上映されるけれど、初めてじゃない人もいるだろうが、内容を言ってはいけない。自分の作品の中でも、これは自慢できる作品です。

【大地】この映画を見るポイントは?
【上野】刀の切っ先を見てください。(刀を取って動きを見せながら)普通はここまでの切っ先が、(その先までもっと)伸びる。(刀を持つ右腕を示して)まっすぐになる。重心の持って行き方、バランスの良さで、他の俳優ではできない。それで身体の回転にしても、こうくるっと回って良い格好でできる。(そういう風に回らなくても)普通に回れば良いんだけれども。(笑)

「忍者狩り」上映後の質問に対しての上野さんのお話。
【最後の霊廟シーンの顔のメイクの汚れについて】
あのセットはブリキでできているので、水をかけたんです。ライトを当てると焼けるので。下は砂です。顔を擦りつけると自然に汚れるので、改めて(汚れを)つけることはなかった。泥が付きすぎると逆に落としていた。(落そうとすると)本人は「いいよ、いいよ」と言ってたが、顔がわからなくなるから。 眼も何回も洗っていた。目薬持って。眼球が傷ついたら、怖いから。
【山城さんが高森和子さんを投げるとき、思いっきり投げているが、あれも上野さんが付けたのか?】
そうです。高森さんにサポーターをつけさせていました。
ちょっとえげつない質問を私がしました・・・・。
【山内監督のお話では、山城さんが高森さんとのキスシーンで舌を入れたと喜んでいたと聞きましたが。】
あんなの嘘っぱちで、作り話や。(ちょっと怒った口調で。)
【近衛さんは出演作品の試写に行かないのですか?】
(「忍者狩り」の試写のときは)ロケが遠いところで、しかも時間が延びた。電話で連絡したが、近衛さんは「遅れるから、明日見る。」と言った。僕は今日見たかったし、時間ぎりぎりで間に合いそうで。「車に乗れ。」と言われたから、てっきり試写に行くと思ったら、家に連れて行かれたわけ。風呂も入らずに飲み始めた。

【NHKの「オードリー」に出たいきさつは?】
(「オードリー」は太秦が舞台の朝の連ドラ。福本清三さんもちらり出演しました。) 僕は出たくなかったけれど、頼まれて出た。殺陣師の役の俳優は別にいたんだけれど。それで「上野」の名前を反対にして、「下野(しもの)」にするにならば出ると言って出た。

聞きそびれて、どういう話で出たのかわかりませんが、途中で「近衛さんはもてたようです。」の発言がありました。
あと、「十一人の侍」などの話の質問が出たりで、ロビーでのサイン会は終わりました。 (中村半次郎さま 2010年11月12日)



もうひとつの「浪人独り旅」

私がまだ二十歳ごろのことだったでしょうか、東映が制作したテレビドラマの主題歌(曲)ばかりを集めたカセットテープが発売されたことがあります。子供向けの『河童の三平』から大人向けの『キイハンター』『特別機動捜査隊』『新選組血風録』、はてはお色気タップリだった『プレイガール』まで、非常に懐かしく一度聴いたら忘れられないものばかりで、もちろん『素浪人月影兵庫』も収録されていました。
ファンの誰もが知っているように、『素浪人月影兵庫』の主題歌は、北島三郎の『浪人独り旅』。子供のころに私がはじめて観た、タイトルバックが参堂における鎖鎌との対決である第二シリーズ以降はもちろん、BSで放送された第一シリーズ全作もそうであることから、これについては疑う余地はないでしょう。
ところが、先のカセットテープのものは、北島三郎の歌がないインストルメンタルなのでした。かといってカラオケではなく、第二シリーズ以降のエンディングで使われているテンポの速いものでもない。正に美しい旋律でスローテンポの、聴いていてウットリするモノだったのです。
なぜ、兵庫の主題歌だけを違えたのかはわかりませんが、現在もっている兵庫のビデオにも入っていない曲なので(もっとも全作あるわけではありませんが、持っているものすべてに挿入されている音楽を耳を凝らして聴きました・・・汗)、サントラCDにも入っているかどうか・・・(三四郎さま 2011年2月16日)


月影兵庫のオープニング入りカセットテープですが、昨年中村半次郎様からお借りして飛び上がりました!!何とそのオープニングは貴日様のサントラには入っていないものでした。
イントロはテレビ版からの流用で、効果音付き。タイトルが入るあたりからスローテンポで美しい旋律の主題曲のアレンジでした。どの場面で流れたのかまでは分かりかねますが、諸事情で北島三郎さんの唄が使用出来なかったから、苦肉の策として劇盤が収録されたのではないかと思われます。
いずれにしても、あの当時主題歌よりも貴重な劇盤が収録されていたという事は今となってはかえって幸運だったんではと思っています。
何とか皆さんにもお聞かせできれば良いのですが・・・貴重なテープをお貸下さった中村様、改めて御礼申し上げます。(斉九さま 2011年2月22日)

そうそう、あのテープには斉九さまの仰っているとおり、兵庫が河原でチャンバラをしている、「第一シリーズ」オープニングの効果音が入っていました。
(三四郎さま 2011年2月24日)


「大河バラエティ 超近現代史(3)」で(日本テレビ’11年2月22日放送)

一昨日夜のことなのですが、日テレの所ジョージとさんまが進行役をつとめるバラエティ番組に、松方弘樹が出ていました。
私が見たときは、丁度「スター名鑑」のことが話題に上がっていたのですが、昭和四十年代はじめまでは住んでいる家の住所までが載っていたらしく、これにについては弘樹の場合も例外ではなかったようで、同居していた、京都の父・近衛十四郎邸のそれが書かれたそうです。しかし、「弟子にしてほしい」「付き人をさせてくれ」という困った頼みごとで訪ねて来るファンは多くいたものの、嫌がらせをされたことは全くなかったとか。このころ、私はまだほんの洟垂れ小僧に過ぎませんでしたが、現在では考えられない、大らかでイイ時代だったんですね。
(三四郎さま 2011年2月24日)

住所は京都市北区平野(番地のところはモザイク)でした。
番組中、伝書鳩の話になり、弘樹が「50羽飼っていた」と言います。板東英二が「伝書鳩って高いですよ、それを50羽」とびっくりしてましたが、これって十四郎さまが飼っていたと言うことではないでしょうか・・・・・・(笑)伝書鳩も血統書があるようで。
それと空襲で母親に手を引かれて防空壕に逃げこんだ話もしていました。空襲って、弘樹が3歳前後の話ですから、余程記憶力が凄いか、忘れられない程怖い体験だったということでしょう。
(中村半次郎さま 2011年2月23日)


清水一角(「忠臣蔵」)と柳生十兵衛(「片目水月の剣」)評

かつて、東映が萬屋錦之介と深作欣二のコンビで、『赤穂城断絶』という忠臣蔵映画を制作公開したことがあります。
大石を演じた錦之介と、刃傷事件を起こした浅野長矩を徹底的に擁護する幕府の目付役多聞伝八郎を演じた松方弘樹の芝居の上手さが印象に残ったくらいで、ほかに見るべきところがない駄作なのですが、とにかく、映画で本格的な忠臣蔵が制作されるということが話題となり、テレビで特集番組が放送されたんです。
そして、この中で「敵である吉良家にもスーパースターがいる」ということで紹介されたのが、戦前、阪妻が主演した日活の『忠臣蔵』と、東映創立十周年記念映画『赤穂浪士』でそれぞれ清水一角を演じた嵐寛寿郎と近衛が、池の上に掛かっている橋の上で二刀を振るってチャンバラをしている場面でした。
あと、これも東映が工藤栄一監督で『影の軍団』という忍者映画を制作したさい、日テレで水野晴郎と松方弘樹がナビゲーターをつとめる忍者映画を紹介する番組が放送され、これでは『柳生武芸帳 片目水月の剣』の終盤、鹿児島城内における近衛と大木実の決闘場面が流れました。
このとき「お父様の近衛十四郎さんは、本当に立回りがお上手だったですねえ」という水野の振りに対し、「怖かったです」と弘樹が応えていたのを記憶しています。
(三四郎さま 2011年5月24日)


実現しなかった近藤勇役

PCで司馬遼太郎の『新選組血風録』を検索していたところ、出典は不明ながら(キネマ旬報社刊『日本映画俳優全集 男優編』かも)、舟橋元のプロフィール中に以下の記事がありました。
1965年、東映京都テレビプロの人気時代劇『柳生武芸帳』(主演・近衛十四郎)の後番組として『新選組血風録』が企画されるが、キャスティングでは意外にも近藤勇役が最後まで難航した。東映京都撮影所では近衛十四郎を強く押していたが、時代劇のベテラン俳優である近衛が近藤役に決定すれば、アクの強い近衛の演技で、土方歳三役の新劇俳優・栗塚旭は完全に食われてしまい、『血風録』は失敗作に終わっていたかも知れない。子会社であるテレビプロの製作サイドは、企画部長・神戸由美、監督・河野寿一、脚本・結束信二とともに、それを強く懸念して反対派の意見を押さえて、現代物の出演作品が多かった舟橋元の起用に踏み切った。
テレビプロの製作サイドが舟橋元を近藤勇に起用した背景には、かつて市川右太衛門の近藤勇で『血風録』を映画化したさい、「これは自分の作品とは似ても似つかないものなので、絶対に観ないように」という回状を出したばかりでなく、「東映には俺の作品は二度と使わせない」と司馬を激怒させたということもあったのでしょう。
私も、原作の魅力のひとつである田舎者で朴訥、かつ「ダメ社長」的な近藤のキャラクターイメージを近衛では出せないと感じるので、実現されなくてよかったと思います(汗)
ちなみに舟橋元の近藤勇を、大御所大衆小説家の海音寺潮五郎や林房雄は非常に気に入っていたとか。
(三四郎さま 2011年5月28日)


ディープピープル「時代劇をいろどる殺陣」(2011年6月20日NHK総合22:00〜)

清家三彦さん(東映の殺陣)、林邦史朗さん(大河ドラマの殺陣)、松方さん( 当代屈指の立ち回りの名手)の3人でトーク。
テーマ@刀は当てない
一番注意するのは怪我で、刀は基本的に当てない。役者のリアクションとカメラの位置で斬られるように見える。
テーマA刀を抜く・振る
松方さんの刀(松方さんの撮影用)は身も柄も長い、と清家さんが比べる。「うちの父親は柄もこれくらいありますしね。長さも柄もワングリップ長い」と説明。(そこで、「座頭市 血煙り街道」のクライマックス、勝新さんとの立ち回りが映る。ナレーション「松方さんの父、近衛十四郎、殺陣日本一とも言われた時代劇スターです。近衛さんは、普通より15cmも長い刀をダイナミックに振っていました。長い刀を使うには、抜き方振り方など、高い技術が必要です。」)
刀を抜くのに、腰をひねる、鞘をひく等の方法。斬る時、はじめから力を入れては、まったくスピードが出ない、絶対剣先が走らない、と松方さん。
テーマB武術を極める
林さんは、本当の武術の動きに基づき、リアルな動きをアレンジして動きを作る。立ち回りに必要な身のこなしでこのときに大事なのは姿勢で、正中線がぶれないように歩くのが侍の歩き方。隙がないように見える。刀は、本物を使って重さをつかむ。殺陣と本物は違う、殺し合いと、スポーツの違いで、剣道では斬るのでなく打突、足もすり足だが、これでは立ち回りは成立しない。
テーマC明るく華麗な東映調
清家さんは、武道的にはあり得ない動きも工夫し、でも芝居の中で、ひょっとしたらあるかもと思わせる動きも、チャンバラの魅力の一つ。松方さんから教わった一番好きなのは、引いた隙に背中に刀を持っていき相手の刀をうける動き。あり得ないけど、ものすごくかっこいいんですよ、と清家さん。「あれも、父親の十八番だったんです。十兵衛なんかでもね、たくさんあの手をやってたんです。ぱっぱーっとやってね。(と座ったまま動いてみせる)」「あれを決めるのが難しいんですよね」「絡んでくる人が、この瞬間にぱーっと行かないと。間一髪でぴしっといかないと」(「血煙り街道」でこのちゃんがやっているシーンも映る)
実演・殺陣の魅力
ここで東映剣会の3人。福本清三さん、浜田隆広さん、木下通博さんが登場。三人に殺陣をつけてもらう。「縁側にたたずむ武士の前に、三人の刺客が現れる。武士は冷静に攻撃をかわし、斬り伏せる」という設定。
清家さんは、踊りの要素をいれて傘をつかって。最後は3人一片に倒れる。
林さんは、冷静で剣の達人という感じの動き。無刀どりと合し突きを取り入れた。
松方さんは、動と静の対比。後ろの敵に注意し、刀を向けるところや、足場固め風のすり足が、このちゃんに似ている。が、最後のピースサインは松方さん!
テーマD殺陣はチームワーク
「十三人の刺客」ではエキストラ300人。殺陣ができるのは5人くらい。大変だった。昔は、スターはお抱えの絡みがいた。何年も一緒にやってると、タイミングが分かるが、下手な人は、キャメラに分かるくらいの合図しないと行けない。殺陣は、オーケストラなんですよね、と松方さん。



「ごごばん!」でのお話

昼の二時過ぎ、ラジオではふたりの声に聞き覚えのある女性が、何がそんなに楽しいのか「キャッ、キャッ!」と騒いでいました。時代劇評論家のペリー荻野と、漫才師の宮川花子です。
これは、上柳昌彦がパーソナリティーをつとめる「ごごばん!」(ニッポン放送)という番組でのことで、ゲストとして呼ばれたペリー荻野とアシスタントの宮川花子が、ちょうど韓流時代劇の話で盛り上がっていたようです。この後、上柳が「記憶に残るいちばん好きだった時代劇は?」と質問をしたうえで、「私は近衛十四郎さんと品川隆二さんの作品」と前置きして『素浪人月影兵庫』を挙げたところ、宮川花子が「キャ〜、花山大吉、(松方弘樹の)お父さん。シナガワショウジ???(品川隆二)の焼津の半次」とテンションをさらに上げ、正に暴走状態。
上柳はまた、近衛の兵庫と大吉の「再放送された回数が非常に多かった」ことも熱く語っていましたが、これに応えてペリー荻野が、「近衛十四郎の素浪人シリーズは男性ファンがもの凄く多く、CSでのリクエストも最も高い」ということと、「昨年、京都で焼津の半次を演じた品川隆二さん宅をお訪ねしたのですが、矍鑠として非常にお元気でした」という、非常に嬉しい近況、さらには「半次の台詞はほとんどアドリブだったという話を披露していました。
やはり、ある年代の人たちにとって、近衛十四郎と品川隆二は忘れられない存在なのでしょう。
ちなみに宮川花子の師匠は山根伸介で、いっときチャンバラトリオにいたことがあるそうです。
(2011年7月14日 三四郎さま)


「テレビ時代劇60年の軌跡(2)」(日経)

9/8(木)の日本経済新聞の夕刊の16面(最終面)に,時代劇プロデューサー能村庸一さんが『テレビ時代劇60年の軌跡(2)』を書かれ,その中にわれらの(そして姫さまの)近衛十四郎さんの事がチョッとだけ載っていました. 以下にその一部分を引用しました.
 ...東映からNET(現テレビ朝日)へ異動となった大月信二は脚本家結城信二らと共に、スターシステムの東映時代にはできなかった新しい時代劇作りを模索していく。 (途中省略) また映画時代はあまりパッとしなかった近衛十四郎の「素浪人月影兵庫」がおおらかな剣豪ものとしてバカ受けするなど、 ...(2011年9月9日 相談屋さま)



高田宏治先生トークショー(2011年11月6日(日)剣聖近衛十四郎2011で)(写真がこちらにあります)

〈お断り〉生まれつき能力がないのに、脳力も衰え、メモを取りつつ話を聞くことが、私には至難の技になっています。途中、メモに神経が行って、聴きそびれてしまった部分もあります。
高田氏は話されることが好きということもあり、どんどん話が進んでいき、到底私には追いつけません。後半の方は疲れて、メモを大分放棄しました。(御勘弁)
切れ切れ話のレポートになり、聞き間違えもあるでしょうが、なるべく高田氏の言葉に忠実であるよう、努めましたので、お許しください。

高田氏は現在山梨県の石和温泉にお住みになって、小説を執筆中とのこと。
庭が広いんだけれど、石が多くて、それの撤去で腰を痛めた。机に座ると痛い。昭和9年生まれで、77歳。母親がお腹にいるとき、鰯と豆腐をよく食べたとかで、骨は丈夫、身体は堅い。中央線で1時間半ぐらいのところにいて、仲間にゴルフに連れて行かれて、腰痛が良くなったが、三日前までは動けなかった。いま、コルセットはしている。

最近は藤沢周平の作品が流行って(映像化されて)いるが、あれは時代劇とは思わない。時代劇のコスチュームをつけたメロドラマ。時代劇は集団と集団の戦い、テリトリーとしての権益を如何に守るか、歴史劇でなくては。

柳生十兵衛と言うのは、歴史には出てこない人物。父の宗矩は少し出てくるが。その十兵衛を出したのが五味康祐さん。

結束信二さんは一年に最高24〜25本の脚本を書いていた。「しらいし」という旅館を定宿にしていた。私が入社したのが、昭和33年で、一万円札が発行された年であり、使い走りをさせられた。結束さんは部屋の四隅にそれぞれ机を置いて、そこを順々に回って脚本を書いていった。パターンは一緒だから書けるんです。(手抜きということではない。)そのころの給料が13500円。結束さんのワイシャツのポケットに一万円札の束が見えて、生まれて初めて盗み心が起きた。(笑)
結束さんは一本25万円。私は十年くらい、2万円。フリーになって12万円。師匠の比佐芳武が一本100万円。お金の話ばかりするけれど。段々認められて「風雲児半次郎」やNHK「人形佐七(捕物帳)」の脚本を書いた。師走に実家へ送金してしまい手元にお金がなく、脚本料の小切手を京都の三菱銀行に入金した。ところが、その小切手が不渡りになるから、銀行から戻せと言われた。その手数料が150円で全く残金がなくなり、六日間水だけで過ごした。

柳生シリーズは記念的作品で、五味康祐さんに挨拶にいったところ、「片目の十兵衛」を褒めてくれた。品川隆二が「俺ごと刺せ!」と言うシーンがよかったとのこと。五味さんはとてもいい人だった。柳橋の芸者やへ連れて行ってもらった。「柳生武芸帳はどうして思いついたか?」と聞いたところ、「芸者の腹の上で」と答えられた。五味さんが麻雀で生活をしていたことを知っていたが、対戦するにもこちらはお金がない。五味さんはパイを着物の袂のなかに入れて、見ないでやるとの条件を出されてやった。盲牌でピンズの清一色(?)をされてすごかった。

柳生武芸帳に書いてある謀反人の名前は自分で考えた。五味さんは「『武芸帳』と言う名前だけで良い。」(武芸帳の内容がどうとかではなく、それがあるだけで小説になるということ。)

「片目の十兵衛」の忍者の黒装束集団と言うのは、自分で考えた。当時は「忍びの者」があったかな。学生運動で厚木(?)に行ったとき、ファントムで凄い恐ろしい経験をした。その後、沖縄へ行ったときにファントムの編隊を見て、その恐怖をなんとか表現したく、顔を隠した忍者集団を作り上げた。

(「片目水月の剣」の長谷川安人監督について。)満鉄から引き揚げてきた船の中で知り合った女性と結婚した。監督よりはるかに年上の人で、(義理の)息子が監督より年上だった。生涯、息子の方が自分より年上だということを自慢していた。「いたがき」という幕末からある古い旅館がある。隠し部屋などもあるところ。(すみません。この前後、メモのため、散漫になり聞き逃しました。)いっしょに生活して同じ部屋で寝ていたが、「安さん」は怒りで眠れないのに、私が何事もなく、平気で寝ている姿を見て、本気で怒った。阿蘇で騎馬戦をやりたい、変わったことをしたい、東映のパターンから抜き出たい、など闘志があった。

最近のテレビ作品はスケールが小さい。人間の大きさが出ていない。町内でちょこまかしているような芝居。当時の東映は松田定次、比佐芳武、内田吐夢、今井正、田坂具隆、伊藤大輔、加藤泰などの錚々たる人達がいて、なんでもよく知っていた。加藤泰さんは本を書くと、難しい知らない漢字ばかりだった。
皆、凄い知識があった。線香にしても、(それぞれに特徴のある線香であり、)線香の煙の上がり方が違う。上がり方が良くないと撮り直ししたりもした。
片岡知恵蔵さんの「大菩薩峠」撮影の助監督は、チーフが倉田順二、セカンド山下耕作、五番目が私。東映のオープンセットで、10メートルのレールを引いて、撮影。机龍之介の上に落ち葉を撒く仕事をさせられ、下は山陽本線が走っているという場所の幅の狭い所を走らされ怖かった。ところが撒き方が良くないとNGでやり直し。それなのに、本編では、落ち葉は映っていなかった。

TBSで正月の5時間ドラマを10年くらい。やくざに取材にいって、話を聞くが「どう嘘をついているか」を見る。実録物の親分はしゃべらない。任侠物の親分はしゃべりたがる。ある博打うちは笠原さんが書いた話を、(自分がしたことのように)話した。写真を見せてもらうと警察に捕まった時の写真。刑務所に出たり入ったりが彼らの勲章。

映画で直しが生じる時は、脚本に来る。俳優、ロケ地などの直しになるとお金がかかる。脚本はかからない。
どう言ってくるかわからないが、楽しみでもある。腹の中は怒っているが、黙って受ける。間違いは言っていたとしても、悪いことは言わないから。

近衛十四郎さんは象徴的な存在だった。松竹で脇ばかり。へたで不器用。(柳生武芸帳シリーズができた背景として)ニュー東映が、若手の企画が通るところで、おこぼれが回ってくる。生命力があった。小さい火だが、生き生きとした火だった。(制作)のボードがあり、そこに大きい作品が2本、小さい作品が10本書いてあるのだが、その10本のうち8本が私の名だったときもあり、腕を磨いた。プロデューサーとの本読みで、一度、別の映画の原稿を持ってきてしまったので、「勧進帳」をやった。(白紙なのにさも書いてあるように読む。)上司は気づかなかったが、上司でも年寄りの方、仲間は(「勧進帳」だということが)わかっていた。
それから一字一句、脚本を覚えることにした。ワープロでの完成脚本を全部消したことがあったが、そのおかげで、書きなおすことができたこともある。
経験が必要で、数を重ねないといけない。脚本家はギャラが安いので、断わったことがない。評論家の高田評は「秀作、駄作、ごちゃまぜを書く。」

スターの前で本読みをして、OKを出してもらう。近衛さんのところへ行ったら、ぐでんぐでんに酔っている。近衛さんは気が弱い。本が気に入らないと、酔っていないと(不満の箇所が)言えない。「片目の十兵衛」で、伊達正宗が山形勲さんだったかな、正宗の肩を揉むシーンがあった。今ならそんなシーンは書かないが、そのときはまだ若かった。肩を揉みながら、耳ごしに十兵衛が正宗に囁きながら何かを聞き出すというつもりだった、近衛さんにしたら、なんで肩を揉まなきゃいけないんだということらしい。戦った後に息をハアハアさせるなど、近衛さんは褒められるとそれを延々とやる。(笑)いま、松方などは涼しい顔をしているが、当時はお母さんに頼まれて、(お茶屋さんに)泣いて家に帰ってくれと、近衛さんを迎えに行っていた。松方に今日は来いと言ったが、マグロを釣りに行くと言っていた。
目黒はまだ(子どもで)ちょろちょろしていた。(林さんから「目黒さんからくれぐれも宜しくとお電話がありました。」と、伝えられる。参考上映の前にお話したときに、「目黒は真面目」とおっしゃっていました。)

銀幕スターでおしゃべりだったのは、大友柳太朗さんと□□さん。(すいません。聞き取れませんでした。)大友さんと松田定次監督が階段の上と下とで、話をしていたが、自分が仕事を終えて帰ってきた時も同じところでそのまま。朝から夕方までしゃべっていた。

東映の撮影所も、今は東映の作品を一本も作っていないで、貸スタジオになってしまった。先日撮影所に入ろうとしたら、守衛に止められた。誰がこの撮影所を作ったと思っているんだ。(笑)500本以上、作っている。

「うこん」と言う店があったが、中島貞夫はママと結婚した。大島渚がワインを飲むというので、中島、深作欣二らと買っていったら、「この手のワインは飲みません。」と言われた。笠原和夫さんは、仕事の相談に乗ってくれた。

質問タイム
★「忍者狩り」について。
山内鉄也監督は真面目で、シャイだった。同い年だが、私は浪人しているので撮影所では一年専輩。(高田氏は山内監督を「てっちゃん」とおっしゃっていました。)
「七人の侍」のマネをしたかった。お金がなく、ロケハンでも、旅館を値切ったり。中島も入り、脚本を三人の名前にしてもよいくらいに、中島が知恵を出してくれた。
「闇の蔵人」を出し、ラストの霊廟のシーンは「闇」が成功した。

★実録物について。
笠原さんはずっこけた男はうまいが、女は書くのが下手だった。「北陸代理戦争」ではずっこけたハナ肇の役を、深作監督が上手く描いていた。
脚本は現場で変わるものだから、本を渡したら、忘れることにしている。(参考上映の前に聞いたお話では、何も残さないそうです。たまたま「片目水月の剣」の脚本が残っていたそうです。引っ越しされるときに手伝いに来た方が「下さい」というとあげてしまうので、残らないということもあるようですが、DVDもないそうです。)

★「五人の賞金稼ぎ」
若山富三郎さんがアイデアマンで、現場でいろいろアイデアを出してくる。「賞金稼ぎ」は初め、伊上勝さんが脚本を書いていたが、途中で書けなくなり、交代となった。なので、続編の「五人の賞金稼ぎ」は私が書いた。

★「十兵衛暗殺剣」の脚本家・紙屋五平は架空の人物との説があるが。
二つくらい短編があります。剣豪の対決ではなく、「戦い」の話になっている。幕屋大休は福井県、若狭の百姓。小太刀を編み出した。(不確かですが、高田氏が他の方とお話していたとき、「湖賊」は高田氏が作ったとおっしゃっていたような・・・・。)

★普通の脚本家は「立ち回り」は殺陣師にすべて任せて、脚本には「ここで立ち回り」としか書かないが、高田氏は立ち回りについても詳しくよく書き込んでいるが。
運動はしないが、立ち回りは好き。(立ち回りだけでなく、町名も詳しく書き込みされる。)

人を刺すのに、匕首の刃を下にしている。それを殺陣師がそういうふうに指導している。今の殺陣師が(匕首での人の刺し方を)知らない。NHKの大河ドラマ「江」で、勅使が家康に太政大臣を宣下するシーンは、家康が上座で「うん」とか言っている。そんなことはありえない。勅使は天皇陛下(と同じ)なんだから。(など、今の時代劇についての批判のお話もありました。)

(最後に高田氏の想いを一言)
小説で関ヶ原の戦いを書きたい。鎧を着て戦いつづけることは、一時間も持たない。(映像では)撃たれればすぐ倒れるが、当時の鉄砲の弾はなかなか当たらず、貫通力が弱い。そうなると、個々の武将の力(戦闘能力)が重要で、如何にたくさんの武将を持っているかになる。文献は、九条という公家の日記に、関ヶ原について書かれている。当時の人は、弁当を持って、合戦見物に行っているくらい。リアリティ、あったことを、書いていきたい。

トークショー後の懇親会で、好きな男女優を聞かれて。
男優はジャン・ギャバン女優はビビアン・リーとジュリエット・ビノシュ特に、ジュリエット・ビノシュの「イングリッシュ・ペイシェント」「存在の耐えられない軽さ」の2本は、高田氏と奥様共通の、はずせない作品とのこと。  (2011年11月13日 中村半次郎さま)


生まれ故郷西新町(にしあらまち)の今昔

往時は駅に近いこともありそれなりに栄えていたと思います。ですが今は郊外に大規模店舗が続々と出来、駅近くの地下車場が入りにくく出にくいという悪条件のため、昔ながらのラーメン屋さんとか個人店が細々とやっている、
というイメージです。目立ったお店もこれと言って見つからないのが現状かと。
長岡という地域は信濃川を挟んで川東、川西、と呼ばれてきました。川東は発展しているところ、川西は田んぼや畑の田舎、というイメージでした。
新町周辺は勿論駅に近いので川東です。ですので、昔は川東に住んでいるというだけでちょっとしたステータスがありました。でも今は川西地区に郊外店舗がバンバンできて、
逆に川西に住んでいる方が住環境は恵まれている、そんな状況です。
駅周辺を歩くにつけ、どんどん寂れていくのを見ていると本当にやりきれなくなる思いです。
駅前周辺の店舗は再び活況を取り戻すためさまざまな努力をしていますが、なかなか実らないのが現実です。
ちょっとさびしいレポートになりました。ごめんなさい。(2012年2月7日 元長岡在住さま)

このちゃんとお母様が向拝幕を奉納されたいう神明宮について)西と東の違いがあるので『町内』というワードから外れますが、辺り一帯をざっと見たところ、ここが一番その『神明宮』に近いのでは、と思われます。ただ電話がないのか、掲載されていませんでしたので確認をとることが出来ませんでした。
お役に立てたかどうか…。(2012年2月7日 元長岡在住さま)






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