三四郎さまが、時間を掛けて丁寧に書き下ろしてくださった新しい見解から書かれた近衛十四郎ストーリーです!
三四郎さまのご許可のない無断転写は、ご遠慮下さいませ。



松竹・東映時代


(1)


近衛は自主製作映画を掲げて映画界に復帰するつもりだった。
かれは昭和27年8月に公開された、発足間もない東映と連合映画の提携作品『遊侠一代』へ出演している。この作品は尾崎士郎の『吉良の仁吉』を映画化したもので、主演は田崎潤。そして、元大都映画の時代劇スターで、近衛との共演作も残している松山宗三郎が、小崎政房名義で天辰大中の協力のもとに監督した(松山宗三郎は、大都映画時代にも小崎政房名義で監督を務めている)。
だが、現在までのところ、近衛が『遊侠一代』で演じた役柄等については、まったくの不明である。それほどに小さな役での出演だったのだろうが、10年間も映画から遠ざかっていれば、それも仕方のないことだった。そして、このような羽目に陥ることは、近衛本人がとうぜん予期していた。
つまり、近衛は主演映画を自主制作し、自分自身を映画会社へ売り込むつもりだったのだと思われるが、仲間による資金の持ち逃げという憂き目を見て、映画の製作は実現するには至らなかった。

近衛が本格的に映画俳優としての再スタートを切ったのは昭和28年で、東宝の系列である綜芸プロに所属し、新東宝との提携作品に出演した。そして、案の定ポスターに名も載らない、端役に近いところからの出直しを余儀なくされたのだが、ここで問題なのは、いつ一座を解散したのかということである。
松方弘樹は、近衛が一座を解散したのは昭和28年だったといっていることから、当たり前に考えれば綜芸プロの所属となった時点で一座は解散していたということになる。
ところが、目黒祐樹はこの頃は正月用のミカンも買えないほど、生活が苦しかったといっている。そのうえ、自主製作映画の資金の持ち逃げにあったことで、莫大な借金を抱えてしまっていたと考えられる。
だとすれば、近衛は極貧生活を強いられていたはずで、家族3人を養うに足る充分な実入りは期待できなかったとはいえ、当面は重要な生活資金源ともなる一座の公演を打ち切ることはできなかった。
つまり、近衛は一座を解散することができず、東京を生活の基盤にせざるを得なかった。これが綜芸プロの所属となる、そもそもの要因だった可能性が高い。
したがって、近衛は暫くのあいだ映画俳優と劇団の座長という二足のわらじを履き、場末の劇場で細々と公演も続けていた。そして一座を解散したのは、松竹と専属契約を結び単身京都で生活することを決意した、昭和28年の夏ごろだったのではないか、と私は推測している。

昭和28年7月7日、大映との契約が切れた後、松竹時代劇を牽引していた大スター阪妻が、52歳で死去(ただし、阪妻は松竹と専属契約を結んでいなかった)。綜芸プロの端役に近いところで失意に暮れていたであろう近衛は、この偉大な先人の死と入れ違いに、松竹京都の専属となり、昭和29年1月に公開された『お役者変化』(監督 大曽根辰夫)の黒羽根弥太夫役から高田浩吉相手の敵役として急速にクローズアップされる。
高田浩吉は昭和2年3月に公開された、林長二郎(長谷川一夫)主演の松竹作品『白井権八』(監督 山崎藤江)が映画初出演。長谷川一夫、坂東好太郎とともに“松竹下加茂の三羽烏"といわれ、昭和11年には『大江戸出世小唄』で歌手としてもデビュー。戦後は「高田浩吉劇団」を旗揚げして巡業をしたが(この時の弟子が鶴田浩二)、昭和26年に松竹へ正式復帰。昭和28年から再び主演スターとして活躍しはじめ、阪妻の死後、松竹時代劇の看板スターとなった。

「あの役者はいい」と、松竹時代劇のチーフ監督だった大曽根辰夫に気に入られスカウトされた。
これは松方弘樹が語る、近衛が松竹の専属となった経緯である。

高田の『傳七捕物帳』シリーズを見る限り、敵役とはいえ扱いは高田とほぼ同格。つまり、大適役といっていい。
また、近衛は敵役を演ずるいっぽうで、昭和29年8月に公開された『浩吉・ひばりの びっくり五十三次』(監督 野村芳太郎)で清水次郎長、そして10月に公開されたオールスター映画の『忠臣蔵』(監督 大曽根辰夫)では堀部安兵衛。さらに、11月に公開された『喧嘩鳶』(監督 堀内真直)では大前田英五郎というように、二枚目スターがやるものと相場が決まっている大立者をも演じている。
したがって、近衛は高田浩吉に続く逸材(松竹時代劇の将来を担うスター候補)と見込まれた。だから近衛も松竹と専属契約を結び、単身京都で生活する決意をした。ただし、高田は準主役として早くから活躍しており、いっぽうの近衛は端役に近いところからの出直しだったことでハンディを背負わされ、敵役をやらされた。
昭和20年代の後半、松竹、東宝、大映の既存3社に、東映、新東宝の新興勢力が加わり、さらにはフィルムの飢饉も解消され映画館が濫立されたことで興行面の競争が激化し、2本立てのプログラムを組む映画館があらわれた。
こうした気運に乗じ、時代劇の新作2本立てプログラムを編成して市場の拡大に成功したのが東映、そして大映だった。
これに対処して、松竹は映写時間を4、50分に仕上げるシスター映画(SP)を製作し、随時2本立てプログラムを編成する方針を打ち出すとともに、スタッフ、俳優陣の強化にも意を用いた。そして、高田浩吉以外めぼしいスターのいなかった時代劇では北上弥太郎を大々的に売り出すとともに、近衛とも専属契約を結んでいることからも、その可能性は非常に高いように思われる。

だがここでわからないのは、大曽根辰夫が近衛のどこに惹かれたのかということである。
すでに述べたように、近衛は松竹の専属となるまえは新東宝の映画に出ている。その映画を大曽根が見たことはとうぜん考えられられる。が、近衛は端役に近いところでの出演しかしていないので、高田に続く逸材と見込むまでには至らない。

ただし、近衛が映画に出演する傍らで、一座の舞台にたっていたとしたら話は別。
かれの一座は人気があったかどうかは措くとしても、立回りの激しいことで有名だった。これは事実である。そして、その評判を聞きつけた大曽根辰夫が直に近衛の舞台見て、事実、凄まじい立回りを演ずることに目を見張らされ、映画からは窺い知れることができない、これまでの松竹時代劇スターが持ち合わせていなかった、八方破れと言ってもいい生きの良さに惹きつけられ、「あの役者はいい」と気に入り、高田に続く逸材と見込んで松竹へスカウトした。
現時点では、このように見るのがもっとも妥当なのではないだろうか。



補追

近衛は昭和28年10月に公開された、先代の松本幸四郎が主演する松竹の『花の生涯』(監督 大曽根辰夫)と、嵐寛寿郎が主演する東映の『危うし!鞍馬天狗』(監督 萩原遼)に出演している。いずれも京都で撮影されたものである。
しかし、『花の生涯』は勤皇の志士頼三樹三郎と、浦賀奉行戸田伊豆守の二役出演で、扱いも端役に近い。そして、松竹は綜芸プロと提携しており、鶴田浩二の主演映画を製作しているので、その関係による出演だった。
さらにまた『危うし!鞍馬天狗』は宝プロの企画で、宝プロは新東宝の寛寿郎主演映画もいくつか企画している。もっとも、近衛が宝プロの企画した作品に出演した事実はないが、新東宝の寛寿郎主演映画へもっとも多く出演している。
したがって『危うし!鞍馬天狗』は、寛寿郎のお声掛かりによる出演だった。
つまり、いずれの作品も綜芸プロ在籍時に出演したものだった可能性が高いと考えられる。





(2)



近衛が立回りの凄さをまざまざと見せつけたのは、昭和30年1月に公開された『八州遊侠傳 白鷺三味線』(監督 岩間鶴夫)においてである。
この映画は、白鷺の源太こと大岡源太郎と、秋山要助の剣の遺恨による対決に、講談の『天保水滸伝』で有名な笹川繁蔵と飯岡助五郎の確執を絡めて話が展開する。
近衛が演じたのは秋山要助で、高田浩吉扮する主人公の大岡源太郎を執念深く付け回し、さらには源太郎を慕う元海賊の娘お町に横恋慕する敵役だった。
ところが、全編に渡って繰り広げられる決闘場面では、キャメラがブッチギレんばかりの物凄い迫力で源太郎を圧倒したばかりではなく、あくまでも正々堂々と勝負を挑み、苦味走った風貌ながら呵々と大笑する姿は、単なるワルではない、豪放磊落なアウトローという人物像をも印象付け、主役である高田浩吉を完全に食ってしまった。

これに付随して、永田哲朗は『殺陣』のなかで「(近衛は)主として(高田)浩吉の相手役をつとめだが、浩吉の立回りが全くお粗末なのに比べ、近衛のそれが光、評価が高まるにつれて、松竹でも彼をバイプレイヤーのまま放っておくことができず、主演スターに」したと述べている。

確かに高田浩吉は、カラミが横に回ると怒ったほど立回りが下手だった。それに、『八州遊侠傳 白鷺三味線』が公開された半年後に封切られた、続編の『八州遊侠傳 源太あばれ笠』(監督 岩間鶴夫)において、前作では敵役として登場した秋山が、お町との関わり合いをとおして善の心を芽生えさせてゆく過程にも脚本のウエイトが置かれ、これと同時に大都映画の最後をも飾った『決戦般若坂』以来13年ぶりとなる主演作の『元禄名槍伝 豪快一代男』(昭和30年6月公開。監督 芦原正)が公開されている。

だがしかし、『八州遊侠傳 白鷺三味線』は、村上元三の小説を映画化したもの。したがって、続編である『八州遊侠傳 源太あばれ笠』において、お町との関わり合いをとおし秋山に善の心が芽生えゆく過程に脚本のウエイトが置かれたのは、原作自体がそのようになっているからだと考えられる。またこれ以前、2月公開の『酔いどれ囃子』(監督 滝内康雄)や、5月に公開された『風雲日月双紙』(監督 酒井辰雄)へは、それぞれ準主役で出演している。
そしてすでに述べたように、近衛は松竹の専属となった当初から敵役を演ずるいっぽうで、堀部安兵衛、清水次郎長、大前田英五郎といった、二枚目の大立者を演じているのである。
さらにいえば、これも前に述べたように、そもそも近衛が松竹の専属となったこと自体、立回りの真価が認められたからである可能性が高く、それを物語るように、当初から立回りの多い役柄を演じている。

したがって、あらかじめ近衛をスターとして売り出すためのレールが引かれていた。そして近衛はその上に乗っていたと見るのが妥当で、ことさらに高田の立回りがお粗末だったことでバイプレイヤーとして放っておくことができなくなったというようなことはなかったのではないかと思われる。

映画『元禄名槍伝 豪快一代男』は、講談の『忠臣蔵外伝』で有名な、赤穂浪士の仇討ちを陰から助ける、槍の俵星玄蕃の豪快な生き様を描いたもので、阪妻が死去して以降の松竹時代劇では絶えて久しかった、本格的な剣戟映画である。
俵星玄蕃は架空の人物なのだが、昭和34年には東映で、片岡千恵蔵が玄蕃を主役に据えた『血槍無双』(監督 佐々木康)を撮り、東宝の創立30周年記念映画『忠臣蔵』(監督 稲垣浩)では、脇役ながら三船敏郎が玄蕃を演じた。

膳所本多家に仕える俵星玄蕃は、大島流槍術の達者だったことで近隣諸藩まで名が聞こえ、道場を建ててもらうほど殿様(演じているのは藤間林太郎という元大都映画の俳優で、この人は藤田まことの実父)のお覚えもめでたいのだが、飲んだくれで気ままなのが玉に瑕。
ある日、玄蕃は殿様から「道場を持てば一家の主、この際結婚をしたらどうか。まして飲んだくれで気まま者のお前にはぜひ必要だ」といって、家老頼木主水の娘早苗を妻に娶ったらどうかとすすめられる。そればかりでなく、早苗は一人娘だから頼母木家へ養子へゆけ。そして金輪際酒をやめろ、さもなければ道場の建築は取り止めるとまで言明されるのだが、早苗と相思相愛である玄蕃に否やはない。
ところが、槍と早苗を秤にかけられたのが気に入らないといって大酒を喰らいながら管を巻き、その勢いで、江戸へ下向する途中だった播州赤穂の城主浅野内匠頭の行列を止めてしまうという騒ぎを引き起こし、腹を切らねばならない窮地へ追い込まれる。だが、玄蕃の人柄に好意を持った内匠頭から騒ぎそのものを不問に伏されたために切腹を免れ、江戸へ出て道場を開く。
しかし、せっかく集まったた門弟も、玄蕃に容赦なくしごかれることから一人二人と去ってゆき、仕舞いには誰もいなくなる。食うにこまった玄蕃は大道芸人にまで身を窶し、また、道場はヤクザ者孫三に賭場として貸し与えるのだが、いかさま博打に引っ掛けられ槍ともども巻き上げられてしまい、居候のような境遇で生活する始末。
そんなとき、江戸城松之廊下で浅野内匠頭が吉良上野介へ切りつけ、赤穂藩が撮り潰されるという大事件が起きる。

上映時間は、60数分とかなりみじかい。しかし、玄蕃の波乱万丈生き様もさることながら、玄蕃に密かに思いを寄せる孫三の娘お小夜の心情、そして、「玄蕃より立派な男は他に沢山いるかも知れない。しかし、立派であろうとなかろうと、ただ玄蕃が好きなのだ」と、玄蕃を慕って江戸へ出て来た早苗との駆け引きや赤穂浪士との関わり等が手際よく処理されて話が展開するので、みじかさは感じられない。かつての大都映画の作品を彷彿とさせる仕上がりになっている。それに、「困った」といって酒ばかり飲んでいる玄蕃には、実演時代に多岐にわたる苦労を強いられ、かなりの酒豪でもあった近衛本人の姿が投影でき、感情移入もしやすい。

だが、それにも増してこの映画の見どころは、なんといっても上野介を討たすまいと、赤穂浪士が討ち入った吉良邸へ上杉家が差し向けた剣客団を、両国で待ち受けた玄蕃が撃退する終盤のチャンバラである。
この場面で、近衛は優に3メートル以上はあると思われる長い槍を電光石火のスピードで、柄で脚を払い叩き伏せ、穂先で威嚇し石突で突くというように縦横無尽に扱い、致命傷を全く与えないという殺陣を見せた。しかも動きが激しいにもかかわらず、フォームは流れるように美しく、全く渋滞がない。
道時、これほどの剣戟面を見せることができたのは、近衛を措いてほかにいなかったはずである。


ただし、さすがにまだ芝居は一本調子で後年のような巧みさはまだない。そして、この後暫くの間は主演作がないことから、この映画は『八州遊侠伝 白鷺三味線』の立回りによって誘発され、あくまでも試験的に製作されたものだったのだろう。


     


(3)



近衛が松竹の主演スターとして大々的に売り出されたのは昭和32年。
1月に月形龍之介を相手役に迎えた『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』(監督 倉橋良介)が公開。さらに4月には『浪人街』が公開された。
松竹は、昭和26年以降ずっと興行収入トップの座についていた。ところが昭和31年に、時代劇の新作2本立てで市場を開拓した東映によって、その座を奪われてしまう。これが、近衛を主演スターとして本格的に売り出すことにした要因だったと思われる。
なかでも『浪人街』は、昭和3年に公開されベストテンの第1位についた同名映画をリメイクしたもので、長谷川伸門下の山上伊太郎が執筆したオリジナル脚本に、これまた長谷川伸門下だった、時代小説の大家村上元三が手を加え、監督には、これもオリジナル版を演出したマキノ雅弘が当たった。そして、近衛の荒巻源内を取り巻く助演陣も、高峰三枝子、北上弥太郎、河津清三郎、藤田進、石黒達也、竜崎一郎と豪華な顔ぶれ。これによって、松竹が近衛を売り出すのに、並々ならぬ力を入れていたことがわかる。

近衛の『浪人街』は、リメイク版のなかで傑作との呼び声が高い。だが群像劇なので、いわゆるスーパーヒーローは登場しないため、近衛の立回りも見るべきものはあまりない。しかし、今回はそれを補って余りある演技で観客にうったえた。そして、この頃になると映画評論家の口の端にも名前が上るようになり、「最近グンと伸びたひとりだ。これまで邪魔だった新潟訛りが、台詞回しの個性になっている。いずれは喜劇をやらせてみたい」と評されていたのは、注目に値する。

たしかに、近衛の芝居は昭和32年を境に、それ以前と以降では雲泥の差がある。
おそらく、立回りの真価が認められたことで「存在している」という意識が芽生え、あらためて役者であることを自覚したのであろう。

ちなみに近衛の『浪人街』に関して、監督、出演者ともにノーギャラだったという話がある。が、これは昭和26年に東横映画(後の東映)が製作した、これも『浪人街』をリメイクした『酔いどれ八万騎』での話が誤って伝えられたもので、しかもノーギャラだったのは、これも演出を務めたマキノ雅弘だけだった。

この『浪人街』以降、近衛は『赤城の子守歌』(昭和32年12月公開。監督 芦原正)、『江戸群盗伝』(昭和33年4月公開。監督 福田晴一)、『江戸遊民伝』(昭和34年3月公開。監督 萩原遼)といった主演作品を撮るのだが、特筆すべきなのは後に東映でシリーズ化される、近衛が柳生十兵衛をはじめて演じた、記念すべき『柳生旅日記 天地夢想剣』(昭和34年10月公開。監督 萩原遼)『柳生旅日記 竜虎活殺剣』(昭和35年3月公開。監督 萩原遼)が製作公開されたことである。

いずれも豊臣秀頼生存説や海賊退治に題材をとり、徹底した講談調で話が展開する。したがって柳生十兵衛も剣のスーパーヒーローとして描かれ、近衛の立回りも堪能でき、好敵手役を演じた森美樹との一対一の決闘場面は圧巻。とりわけ『柳生旅日記 竜虎活殺剣』では、後に座頭市のトレードマークとなる逆手斬りがはじめて披露されている(しかも、逆手で二刀を振るう場面がある)。

しかし、これから松竹時代劇で主演映画を大量に撮るという矢先の1959年。
不運にも、松竹映画の時代劇製作が中止となった。そこに第二東映構想が発表されて、時代劇は東映、からの誘いを受けた形となった。時を同じくして、大映より、黒川弥太郎、品川隆二が移籍。松竹の看板、高田浩吉はすでに東映に招かれていた(快傑赤頭巾さま提供)。

そもそも剣戟を主に描かない、どちらかというと女性受けするものが松竹時代劇の作品カラーだった。そのために多数抱えていた歌舞伎役者や、時には現代劇のスターを主役に据えることでじゅうぶん間に合った。だから高田浩吉以降スターを育てなかったという経緯があり昔から時代劇は振るわず、チャンバラ映画らしきものは、昭和20年代の中頃から後半にかけて、大映との契約が切れた阪妻、右太衛門、寛寿郎の作品が数本あるぐらいである。
さらにまた、松竹時代劇は総体的に企画が悪かった。
これに付随して当時の松竹には「マゲモノは地方の小屋へ掛ければ何でも当たる」と広言するプロデューサーが少なからずおり、高田の『傳七捕物帳』シリーズなどのおとなしいものでお茶を濁すのがほとんどだった。したがって近衛の主演作も、彼の個性がじゅうぶんに生かされたものは『浪人街』と『柳生旅日記』のみで、結果として高田の相手役に甘んじさせられたという印象が強い。

ひょとっとすると、松竹には常にベストテンの上位にランクされる現代劇があったことで、昔から時代劇そのものを軽視していた。
これが時代劇の製作を中止したそもそもの原因なのかも知れない。

しかし、次のようなことも考えられる。
近衛の東映での初出演映画は、昭和35年2月に公開された市川右太衛門主演の『あらくれ大名』(監督 内出好吉)。そして、近衛は右太プロの研究生からスタートしている。
すでに述べたように、近衛が松竹から東映に招かれたのは高田浩吉のあとだった。
つまり、松竹は近衛だけは残しておきたかった。しかし、右太衛門の強い要望があり、結局は近衛も手放すことになり、その結果時代劇の製作を中止せざるを得なくなった。

もしそうだとすれば、松竹と近衛の間に、一悶着あったということもじゅうぶん考えられる。

いずれにしても、松竹には本格的なチャンバラ映画を製作する土壌がなかった。
そして、近衛がじゅうぶんに腕を振るう場でなかったことは確かである。





(4)





東映は、片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大を筆頭に、大友柳太朗、中村錦之助、大川橋蔵、東千代之介らが週替わりで主演作を公開し、敵役にも月形龍之介、進藤英太郎、薄田研二、山形勲、阿部九州男、吉田義夫などの個性派が顔を揃え、さらには美空ひばり、丘さとみ、桜町弘子、大川恵子、花園ひろみといった可憐な女優陣が花を添えていたことで、時代劇では独走状態。
この余勢を駆った社長の大川博が、「日本映画の収入の半分は東映がいただく」と豪語し、昭和35年に第二東映を発足。
松竹から東映に移籍した近衛は、高田浩吉、黒川弥太郎、品川隆二らとともに、この第二東映の看板スターとして活躍するのである。

だが第二東映は、千恵蔵、右太衛門をはじめとする、本家のスターは出演できない決まりがあった。さらに、スタッフ、共演者ともに、本家とは明らかに差を付けられていた。
これらの制約により第二東映は客が入らず、ニュー東映と名を変え、製作する映画を現代劇一本に絞るものの、昭和36年に本家へと吸収される。

それでも、東映はさすがに時代劇の“メッカ"だった。本家に吸収されるまでの1年間に『砂絵呪縛』(昭和35年3月公開。監督 井沢雅彦)を皮切りとして、『遊侠の剣客 片手無念流』(昭和35年6月公開。監督 井沢雅彦)『獄門坂の決斗』(昭和35年9月公開。監督 秋元隆夫)『遊侠の剣客 つくば太鼓』(昭和35年12月公開。監督 深田金之助)『柳生武芸帳』(昭和36年3月公開。監督 井沢雅彦)『柳生武芸帳 夜ざくら秘剣』(昭和36年3月公開。監督 井沢雅彦)『豪快千両槍』(昭和36年6月公開。監督 倉田準二)『無法者の虎』(昭和36年7月公開。監督 深田金之助)の、8もの映画に主演。
そして本家へ移ってからも、正に“水を得た魚"のように本領を発揮し、“柳生十兵衛もの"7作品や『祇園の暗殺者』(昭和37年10月公開。監督 内出好吉)『雲の剣風の剣』(昭和38年12月公開。監督 河野寿一)『忍者狩り』(昭和39年9月公開。監督 山内鉄也)『十兵衛暗殺剣』(昭和39年10月公開。監督 倉田準二)などの主演映画を撮った。

東映に移籍した近衛が挨拶代わりに撮った初主演作は、第二東映の『砂絵呪縛』である。彼がこの映画で演じた浪人森尾重四郎は、社会のあらゆる権威や価値、規範を否定して生きるニヒリスト。いかなる政治的な権力抗争や色恋もそれを変えることはできない。純真無垢で懸命に生きる女性の姿に一時だけ目を開かされ、豪剣を振るい立ち去ってゆく。
この敵役でさえある重四郎のキャラクターは、娯楽性を強調するあまり絢爛豪華なだけの、没個性的なチャンバラショーに陥りがちだった東映時代劇にあって、観るものに鮮烈な印象を与えた。

松竹時代、主演スターとしての近衛は、あまり良い企画に恵まれなかった。しかし『砂絵呪縛』以降、“豪放無頼"“闘う男"という、既存の東映時代劇スターとは明らかに一線を画す路線を開拓し、特異な足跡を残してゆくことになる。

たしか『キネマ旬報』誌上でだったと記憶するが、映画評論家の深沢哲也が

あるとき近衛に「自分に相応しい企画はないか」と聞かれ、『砂絵呪縛』の森尾重四郎などはどうかと答えた。これは東映で実現されたのだが、後に近衛から丁寧な礼を言われ、大変恐縮した覚えがある。

というようなことを書いていた。

この文中から、近衛自身にとって『砂絵呪縛』の森尾重四郎が、いかにエポックメーキングな作品になったかがわかる。

近衛が生涯関係を持つことができなかった大スター阪東妻三郎は、多く酷薄な社会に生きる浪人者を演じた。
東映に移籍した当初の近衛は、この阪妻の路線を継承した。そして『砂絵呪縛 』『遊侠の剣客 つくば太鼓』など、阪妻の作品をリメイクしたものに主演した。

近衛が東映の水に慣れたころ、東映時代劇が斜陽を迎える。

東映は普通に撮れば50日はかかる時代劇を、20日から25日で仕上げていた。つまり、手を抜いており作品の内容もマンネリしていた。にそこへもってきて東宝が、昭和36年に黒澤明の『用心棒』、翌る37年に『椿三十郎』をそれぞれ公開。いずれの作品も、人物同士の葛藤、絡み合いでドラマが組み立てられ、殺陣も、スタイル、ポーズよりも合理性をねらっている。
さらには倒産した新東宝が、時代劇をすべてテレビに売ってしまった。

つまり、チャンバラいわゆる舞踏的な立回りはテレビで観ればいいので、それが興行成績に現れてきた。

そして、近衛は大きな時代の流れに翻弄され、ギリギリと歯軋りをしながら闘う男を主人公とした『祇園の暗殺者』『忍者狩り』などの主演作品を撮り、陰りのみえはじめた東映時代劇でひとり気を吐くばかりでなく、阪妻路線から脱却する。

映画『祇園の暗殺者』の志戸原兼作は、時代のうねりと集団の掟の板挟みにあい、壮絶な死を遂げるのだが、近衛は極力チャンバラを抑え、アイデンティティが崩壊してゆく男を上手い芝居でみせた。また、『忍者狩り』の和田倉五郎左衛門は、宿敵である甲賀忍者“闇の蔵人"を倒す以前すでにズタズタに斬られ、絶叫しながらのたうち回っており、これも瀕死の重傷を負っている仲間の長永八右衛門の手助けによって、ようやく蔵人を討ち果たす。

当時、スターが死ぬことはタブーとされた。
それを破り、作品のなかで死んだいまひとりのスターに、大映の市川雷蔵がいる。
だが、雷蔵の死は美しく格調高かったのに対し、近衛の死は虫けらを踏みつぶすように、あくまでも壮絶に描かれる。

近衛は、戦後松竹で高田浩吉相手の大敵役として鳴らしたあと、主演スターになった。
したがって、どのような役柄を演じてもいっこう人気に差し支えがないという強みがあり、彼の映画は作品のテーマの面白さを追求することができた。
いってみれば、俳優としての器が広かったのである。





(5)



松竹の『柳生旅日記 天地夢想剣』ではじめて柳生十兵衛を演じた近衛は、その続編である『柳生旅日記 竜虎活殺剣』を松竹への置き土産に東映に移籍した。そして第二東映で『柳生武芸帳』『柳生武芸帳 夜ざくら秘剣』を撮り、本家に移ってからも、『柳生一番勝負 無頼の谷』(昭和36年10月公開。監督 松村昌治)『柳生武芸帳 独眼一刀流』(昭和37年9月公開。監督 松村昌治)『柳生武芸帳 片目の十兵衛』(昭和38年2月公開。監督 内出好吉)『柳生武芸帳 片目水月の剣』(昭和38年5月公開。監督 長谷川安人)『柳生武芸帳 剣豪乱れ雲』(昭和38年8月公開。監督 内出好吉)『柳生武芸帳 片目の忍者』(昭和38年12月公開。監督 松村昌治)、そして『十兵衛暗殺剣』の7本が製作され、これが近衛の唯
一のシリーズとなった。

当初、東映の柳生十兵衛は両眼がパッチリと開いていたり、話の内容も明朗なコメディ調だったりと、観ていてかなりの違和感があった。
しかし、『柳生一番勝負 無頼の谷』から左目を黒い眼帯で覆い、さらにそれは『〜剣豪乱れ雲』から“柳生拵え"の刀の鍔に変えられ、衣装もぶっさき羽織をはおい括り袴を履くという、兵法者スタイルになり、「近衛の前に十兵衛無し、近衛の後に十兵衛無し」とまで云われる、独特の十兵衛像をつくり上げた。
また、『〜片目の十兵衛』から話の内容も政治的な背景を持つ抗争劇化して剣戟場面も凄絶さが増し、十兵衛もこれまでの剣のスーパーヒーローとしてではなく、兵法家としての面が全面に押し出される。
とりわけ『〜片目の忍者』は“柳生"をコマンド部隊として捉え、2500丁の連発銃を擁する砦に、柳生忍群の死屍累々と迫ってゆく姿が凄まじく、ハリウッド映画『史上最大の作戦』でのノルマンディー上陸シーンを彷彿とさせた。
そしてこれは、千恵蔵の『十三人の刺客』(昭和38年12月公開。監督 工藤栄一)とともに、後になって“集団時代劇"が製作される魁になった映画である。

数ある剣戟スターのなかで、近衛ほどチャンバラを見せることに徹した役者はいない。

ふつう、刀の長さは75〜80pなのだが、近衛は85pもの長い物を好んで使った。
これは実演時代の名残で、舞台では長い刀のほうが映え、凄みも出る。そして、彼は運動神経がいいから、変わり身が早い。

松竹の殺陣師川原利一は、「うますぎる。どういう手でもこなしてくれる。大きな体でよくきれいに動くと感心している」(『殺陣』)と、近衛の立回りを評した。
川原はまた、

「近衛さんの剣は非常にセッカチというのか、カラミがかかってこないのに自分の方からかかっていく。これも聞いてみると舞台生活の影響だという。カラミが次から次へと間合いかかってくれればいいのだが、地方巡業のレベルではなかなかそうもいかない。現在の松竹のカラミがそれほどヒドいものではないにしても、近衛さんにはまだ不満があるらしく、そういう弱点をカバーするため、自然と主役らしくない殺陣になるのだ」(『殺陣』)

ともいっている。

『砂絵呪縛』や『水戸黄門 天下の大騒動』(昭和35年12月公開。監督 深田金之助)、そして『雲の剣風の剣』の大立回りなど、ありきたりの役者があれだけ大勢の人間を斬ると興醒めさせられる。
だが、近衛は相手の打ち込みを左の二の腕に刀の棟を当てたまま受けたり、また刀を肩に担いでチャリンとはじいたり、そして鍔迫り合いで相手の臑を蹴りバランスの崩れたところを斬り下げたり、さらには突きや飛び斬りを繰り出したりと、殺陣の手数が多いので唸らされる。
しかも片手斬りのときなど、左の拳をグッと握って肘を張ったり肩を突き出したりするので動きがダイナミックなばかりでなく、目をつり上げ歯を剥くので迫真力がある。これに付随して、『鳴門秘帳』(昭和36年1月公開。監督 内出好吉)『鳴門秘帳 完結編』(昭和36年2月公開。監督 内出好吉)では、お十夜頭巾の剣怪関屋孫兵衛に扮した近衛と、主役の法月弦之丞を演ずる鶴田浩二との決闘場面で、近衛の凄さに圧倒された鶴田が、殺陣の手順をすべて忘れてしまったという、面白いエピソードがある。

「一番必要なのはスピードじゃないかな。昔は型の美しさを大切にしていたけど、最近はスピードを重視しています」(『殺陣』)

これは近衛本人の言葉だが、乱闘シーンなど、早く鋭く、烈しいから、それこそカラミは必死で、時には自分ばかりではなくカラミにも真剣を使わせたことで、緊迫感も漂う。

さらに、近衛は「スピードのつぎに大切なのは腰の安定」だと説き、若い頃はふだん家の中でも刀を差しており、洋服を着るときはバンドにキセルを差していたという。
このような日頃からの修練が格調高い殺陣を生む素地になるわけで、立回りとアクションは違うということがわかる。

また、殺陣に革新をもたらしたといわれる、黒澤明の『用心棒』『椿三十郎』が公開される以前、近衛は「(略)いくら映画の中でも大根を切るように人を殺すのは考えもの。..(略)私は何十人もの人間を殺さなくても、一対一で十分チャンバラの面白さが出てくると思ってます。..(略)対決のためにストーリーが展開する。こうなるとチャンバラがもっともっと面白くなるのじゃないですか」(『殺陣』)ともいっている。

そして昭和39年、近衛が主張する一対一の対決ドラマである『十兵衛暗殺剣』が生まれた。

将軍家指南役をつとめる柳生宗矩の嫡子十兵衛(近衛)に、新陰流正統を名乗る幕屋大休(大友柳太朗)が対決を挑み、天下第一の剣を競うというのが、ドラマの骨子。
相手役に、スターの序列では近衛よりも上である大友を持ってきたことで、幕屋が恐るべき人物であることが認識できる。それに、琵琶湖に棲む“湖賊"をからめた水上水中の乱闘も面白い。
野駆けに出た将軍家光の面前で、十兵衛は大休に敗北を喫する。その上、挑発に乗った柳生の門弟が、ひとりの臆病者を除いて大休に惨殺される。終盤、“湖賊"の襲撃を多くの門弟の死によって切り抜けた十兵衛は大休と琵琶湖で対決するが、大休の小太刀の秘技によって刀を折られ、命からがら逃げる。
再度大休に闘いを挑む十兵衛は、刀のスペアを舟の舷側に突き立てておき、またも刀を折られるや、タイミングをはかり奪い取っていた“湖賊"の手裏剣ですかさず大休の腕を刺し、スペアの刀を突きつける。しかし大休もさる者、敗北を認めたうえ、新陰流正統の印可状を渡すといってその中に忍ばせた短刀で十兵衛を刺す。十兵衛はひるまず大休を拝み打ちに斬り、ようやく勝負のカタがついた。
スターダムに復帰後の大友は、この映画ではじめて敵役を演った。もっとも敵役にし過ぎたきらいがあり、大休に挑戦を受けた天下の御流儀“柳生"の苦悩が描ききれなかったうらみがあるが、力を抜かず一生懸命突き進むタイプの両雄の激突は迫力満点で、対決ドラマとしては最高の出来だった。





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東映時代劇の近衛は、バイプレイヤーとりわけ敵役としても注目すべき活躍をしている。すでに触れた『鳴門秘帳』『鳴門秘帳 完結編』の、お十夜頭巾の剣怪関谷孫兵衛、『酔いどれ無双剣』(昭和37年9月公開。監督 沢島忠)の十木典膳や『薩陀峠の対決』(昭和37年12月公開。監督 山崎大助)の陣場弥十郎、そして『主水之介三番』(昭和40年6月公開。監督 山内鉄也)の木島弥十郎などがそうで、いずれも特異な剣技で、鶴田浩二、市川右太衛門、東千代之介、大川橋蔵といったスターを窮地に追い込んだ。
しかし、そこは主演スターでもある近衛のこと、単なるワルではない、“負のヒーロー"とでもいうべき魅力的な人物像に描かれる。
その代表的なものが、『きさらぎ無双剣』(昭和37年5月公開。監督 佐々木康)での神念流の剣客蒲生鉄閑と、『十七人の忍者』(昭和38年7月公開。監督 長谷川安人)の根来忍者雑賀孫九郎だろう。

蒲生鉄閑は、自分より強い相手を探して諸国を流浪する浪人剣客で、右太衛門扮する主人公竜胆月之介が属する吉宗派に敵対する、尾張派に味方する。自分より強い月之介が吉宗派にいるからというのが、その理由だった。
そして最後には月之介に斬られるのだが、「きさらぎ無双剣、はじめて見た―見事」とひとくさり言ってから死んでゆく。雌雄を決する宿敵同士には、いつの間にか敬意が生じているのである。
また、『十七人の忍者』の雑賀孫九郎は、徳川忠長に抱えられている一匹狼の根来忍者。謀反の連判状を奪って忠長に詰め腹を切らせようと幕府が駿府城に送り込んだ、大友柳太朗扮する伊賀の甚五左以下十七人の忍者を相手にするばかりでなく、駿府侍からも「新参者よ、田舎者よ」と蔑まれる。そして、打つ手をすべて妨げられ、謀も企ても一笑のもとに退けられ、四面楚歌のうちに壮絶な死を遂げる。

いずれの場合も、進藤英太郎や山形勲が敵役を演じたものと違い、物語に奥行きを与え、作品自体も厚みを増しているのである。

もちろん敵役としてばかりでなく、右太衛門の『浪人市場 朝やけ天狗』(昭和35年3月公開。監督 松村昌治)における“人斬り浅"こと浅岡伊助や、大河内伝次郎主演の第二東映作品『水戸黄門 天下の大騒動』の、丹下左膳をもじった丹上右近、そして美空ひばり、里見浩太郎主演の『花笠道中』(昭和37年1月公開。監督 河野寿一)で演った伊丹隼人などの、頼もしい助っ人役も好演している。

この助っ人役でとりわけ印象に残るのは、昭和38年1月に公開された、東映時代劇最後のオールスター映画『勢揃い東海道』(監督 松田定次)の見受山鎌太郎。次郎長役の千恵蔵、山岡鉄舟の右太衛門、そして近衛の3人が顔を揃えて台詞のやりとりをする場面からは、高田浩吉の演じていたのが次郎長の子分大政だったことも相俟って、大スターの貫禄さえ感じられた。

さらに、若山富三郎主演の『怪談お岩の亡霊』(昭和36年7月公開。監督 加藤泰)では、江戸の街中に棲む小悪党直助権兵衛役の燻し銀の演技で加藤泰を喜ばせたり、戦時中に阪妻が主演した『狐のくれた赤ん坊』をリメイクした『無法者の虎』では、主役であるガサツな川越え人足“張り子の寅八"を見事なユルフンで演じるなどの、新境地もみせた。

昭和35年、近衛の長男である松方弘樹が、東映映画『十七歳の逆襲 暴力をぶっ潰せ!』(監督 佐藤肇)で本格的デビュー。その後、昭和36年3月に公開された、東映の創立10年記念を謳ったオールスター時代劇『赤穂浪士』(監督 松田定次)で親子初競演を果たした。もっとも、親子が絡む場面はないが、近衛は吉良家の付け人清水一角で松方は大石主税、敵同士の役だった。
そして、松方は『柳生武芸帳』シリーズにも『〜独眼一刀流』から『〜片目の忍者』まで、計6作品に出演したのだが、この親子共演に付随して大変面白いエピソードがある。

近衛は、昭和38年3月に公開された、松方主演の『中仙道のつむじ風』(監督 松田定次)に出演した。彼が演じたのは門倉新八という侍で悪代官の黒幕。松竹の『天保水滸伝』(昭和33年7月公開。監督 渡辺邦男)で演った飯岡助五郎以来、久しぶりの徹底した悪い役で、最後は松方扮する“つむじ風の百太郎に"メッタ斬りにされて殺されるのだが、この場面になると映画館では拍手が湧いた。

しかし、近衛本人はこれが相当気にいらず、この後しばらくの間時代劇のプロデューサーを捕まえては「俺にも東映歌舞伎でイイ役をやらせろ!」と連呼し続け、その結果『油小路の決闘』の主役篠原泰之進をやることになったのだそうである。

また、斬られ役である“剣会"のメンバーは、酒代に詰まると、よく近衛の家を尋ねた。しかし、近衛はいやな顔ひとつせず「こんなものしかないんだが」と、サントリーオールドで歓待してくれたという(山根伸介談)。

ちなみに、近衛の次男目黒祐樹は、昭和28年12月に公開された、嵐寛寿郎が主演する綜芸プロと新東方の提携映画『やくざ狼』(監督 萩原遼)で子役デビュー。
その後、昭和30年2月公開の松竹映画『喧嘩奴』(監督 福田晴一)、31年4月に公開された『流転』(監督 大曽根辰保)同じく6月に公開された『傳七捕物帳 女狐駕篭』(監督 福田晴一)、そして昭和32年1月に公開された、近衛主演の『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』でそれぞれ親子競演を果たしている。





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時代劇王国を誇っていた東映は、昭和39年を境に、時代劇の製作本数が激減。
この年の1月に公開された『忍び大名』(監督 佐々木康)へ主演したのを最後に右太衛門が映画界を去り、千恵蔵もワキに回った。高田浩吉が映画界を去ったのも、この昭和39年のことである。
結果、東映時代劇をささえる主だったスターは、中村錦之助、大川橋蔵、近衛の3人となった。

いわゆる、黒幕明の『用心棒』『椿三十郎』ショック。さらには倒産した新東宝がすべての時代劇をテレビへ売ってしまったことで、チャンチャン、バラバラはテレビで観ればよい。つまり、舞踏的な立回りは映画では通用しなくなった。
これが、東映時代劇に陰りが見え始めたそもそもの原因だったことは、すでに述べた。

しかし、崩壊に至った最大の原因は、東映自身にあったと思われる。

たとえば、昭和39年12月に公開された、加藤泰監督の『幕末残酷物語』という、新選組を描いた救いようのない、それでいて大変に面白い映画がある。この映画の主演は大川橋蔵なのだが、同性愛の隊士に言い寄られたり、切腹する隊士の介錯をさせられたりと、血なまぐさい日常に翻弄されながら人間性が崩壊してゆき、最終的には芹沢鴨の甥で敵を討つために入隊したことが露見し、沖田総司の刀が首を貫く。
そして、血まみれで苦悶に歪む橋蔵の顔がストップモーションになり、映画が終わる。
つまり、それまでの白塗りで美しい橋蔵に惹かれていた女性ファンを手放してしまった。
これは大友柳太朗、錦之助についてもいえる。

それに加え、昭和38年に公開された鶴田浩二主演の『人生劇場 飛車角』(監督 沢島忠)のヒットによって、任侠路線に突っ走る(ちなみに近衛には、昭和39年8月に公開された大西秀明監督の、明治の大阪を主な舞台とした『悪坊主侠客伝』という任侠映画の主演作があり、また、敵役でもいくつかの任侠ものに出演した)。

昭和40年に「東映京都テレビプロ」が設立され、これを機に橋蔵、近衛は活躍の場をテレビに移し、錦之助は41年に「バカヤローメ!」という捨てぜりふとともに、東映を去った。
が、近衛は映画からすっかり足を洗った訳ではない。
東映時代劇の最後の出演は、昭和41年1月に公開された『十七人の忍者 大決戦』(監督 鳥居元宏)だが、前年の昭和40年には、日活が製作した石原裕次郎主演の時代劇『城取り』(3月公開。監督 舛田利雄)。そして昭和42年には,大映の勝新太郎に是非ともと請われ、『座頭市血煙り街道』(12月公開。監督 三隅研次)。さらに昭和44年には、市川雷蔵の遺作である『博徒一代 血祭り不動』(2月公開。監督 安田公義)に出演している。

ここで注目すべきは『座頭市血煙り街道』で、近衛は赤塚多十郎という幕府の隠密に扮し、終盤に勝新と、殺陣師による段取り無しの壮絶な決闘を演じた。しかし、これに劣らず凄いのが、中頃の、浅丘雪路に絡むゴロツキを、近衛が棟打ちで撃退する場面である。

正木流居合いの宗家でもある作家の名和弓雄によれば、棟打ちは相手に「斬られた!」と思わせ戦意を喪失させるのが目的なので、斬りかかる寸前に刃を返して叩くのが本来のやり方。したがって、刀を抜いてゆっくりと、それもガチャリと鍔鳴りをさせて刃を返し、最初から相手に棟打ちと悟らせるようなことは、絶対にしないのだそうである。

近衛の凄いのは、抜き打ちざまに相手に棟打ちを食らわせ、しかも肩、臑、腰など、すべて違う部位を叩いているところ。
正に、近衛が映画で見せた、最後の究極のチャンバラ芸と言っていい。

活躍の場を映画からテレビへ移した近衛は、十八番だった『柳生武芸帳』に主演。その後、名優品川隆二を得て『素浪人月影兵庫』の放送が開始。“お化け番組"と呼ばれるほどの高視聴率を獲得し、続編である『素浪人花山大吉』もかなりの好評をもって受け入れられ、押しも押されもせぬ時代劇の大スターとなった。

かれがテレビを意識したのは昭和39年、『忍者狩り』のロケ先である彦根城でだった。現場には多数の見物人がいたのだが、若者とりわけ女性は、すでにテレビで活躍していた山城新伍や田村高広は知っていたものの、近衛に関しては「あの人ダレ?」という感じで、名前さえ知らなかった。
そのために、近衛は「これからはやっぱりテレビだなぁ」と、痛感したのだという。

もっとも、最終的にテレビに移る決意をしたのは、やゑ夫人のすすめによってであった。

永田哲朗は『殺陣』のなかで、近衛は「映画ではついに中堅スターの域を出ずじまい」だったと結論づけている。その原因として「この世界(映画界)の事大主義、封建的な残宰のせいか、東映では“よそもん"“外様"扱い」されたことを挙げ、とくに近衛について頁を費やしたのは、「近衛の立回りが一時代を画するものであることと、これほどの実力のある素材を生かしきれなかった映画界へ、“チャンバリスト"としての怒りともどかしさをぶつけたかったからである」と、その心情を吐露している。
たしかにこのような一面はあった。

かれの映画は『砂絵呪縛』を除きすべてがモノクロで、また、近衛本人が直接東千代之介のもとに出向き、「僕の映画に出てくれないか」と頭を下げたこともあった。

さらに不可解なのは、錦之助との共演作が一本もないことである。が、これについては、次のような興味深い意見がある。

近衛の出発は、戦前の市川右太衛門プロダクション。それで、北大路の御大こと、右太衛門との共演が多い。片や山の御大の片岡千恵蔵がいて、錦之助は、どちらかというと、千恵蔵派で、右太衛門と較べると、千恵蔵との共演が多く、右太衛門は橋蔵との共演の方が多い。(中略)近衛は主演クラスだったことと、近衛は右太、橋蔵派閥のため、主流である。
千恵蔵、錦之助の映画には、近衛は目立つので呼ばれなかったのではないだろうか(快傑赤頭巾さま)。

近衛が不遇なスターだったかどうかは個々の判断によるしかない。
当時、明るいことと恰幅の良さが時代劇スターの絶対条件だったのだが、近衛はそのいずれもが欠けていた。さらにまた、彼は端役に近いところからの出直しを余儀なくされた。

しかし、近衛はこれらのハンディを乗り越えて、曲がりなりにもスターと呼ばれる地位にカムバックし、時代劇が崩壊するまで、8年の間に30本以上の主演作を撮った。しかも、錦之助とともに偉大なるワンパターンだった東映時代劇にある意味革新をもたらし、高踏的な『キネマ旬報』に「東映時代劇で見られるのは錦之助と近衛の作品だけ」(『殺陣』)という意見が載った。

したがって、本人はじゅうぶん満足していたのではないだろうか。


付記

これは、今まで掲載されていたものが非常に読みにくかったことや資料の読み間違い、さらには自分自身の考えが変わったことなどの諸々の事情から、大幅に書き改めたものです。
とはいうものの、松竹の専属になる経緯までは、あくまでも状況証拠に過ぎません。したがって、これが事実であるかどうか、このサイトをこれまでに大きく発展させてこられた、年期の入った多くの近衛ファンによって、あらためて精査されることで、はじめて戦後のプロフィールの完成といえるのではないかと思っています。
なお今回、中村半次郎さまが、『週刊大衆』に掲載された近衛と松方父子のインタビュー記事を提供されています。非常に興味深い内容ですので、是非ともそれと合わせて読んでいただきますようお願いいたします。




文中敬称略


《参考資料》
永田哲朗著『殺陣―チャンバラ映画史―』(教養文庫)
八尋不二著『百八人の侍―時代劇と45年―』(朝日新聞社)
森秀男著『夢まぼろし女剣劇』(筑摩書房)
大江美智子著『早替り女剣劇一代記 女の花道』(講談社)
浅香光代著『斬って恋して五十年』(東京新聞出版局)
浅香光代著『女剣劇』(学風書院)
時代劇マガジン16(辰巳ムック)
別冊宝島『この時代小説を読まずに死ねるか』(宝島社)
圧巻!無頼派時代劇(学研)
大宮敏充著『デン助 浅草泣き笑い人生』(三笠書房)
子から親へ ずっと書きたかった私からの手紙―松方弘樹―(ビッグ・コミック・オリジナル)
『テレビが生んだ悪役スタア 天津敏』(ワイズ出版)
『品川隆二と近衛十四郎、近衛十四郎と品川隆二』(ワイズ出版)
別冊太陽『時代小説のヒーロー100』(平凡社)
魅せる剣戟スター近衛十四郎『プロフィール 思い出話』




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