思い出ばなし4 |
掲示板のお話、見逃したまま消えていった、、そんなことさせません!みなさまのお話で甦る、このちゃん像です。 でも、困る、極秘だから、という方はご一報くださいませ。 |
「思い出ばなし1」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。最初のタイトルで飛べます。あとの2つは、その1、2つ先にあリます。 | ||
噂の殺陣に目を丸くした! | 月影兵庫のころのインタビューは、 | 月影兵庫のころのインタビューその2 |
不遇の剣士、近衛十四郎! | CM親子共演 | CM親子共演の裏の悲しいお話 |
鯉自慢 | 鯉騒動 | 近衛邸? |
アフレコは苦手 | しかし、剣さばきは随一! | 刀の重さ=3kgだってだす! |
目黒さんが語るには(サンテレビ’95年) | クルミ疑惑 | お気に入りの殺陣師 |
「素浪人」の相棒といえばこの人! | このちゃんの素顔を聞いた半時 | 引き続き、東映太秦映画村・近衛レポ |
またまた、東映太秦映画村・近衛レポ | ワイドショーのこのちゃん | 不器用な生き方 |
ある晩の写真 | 「おもいっきりテレビ」のこのちゃん25回忌 | 「おもいっきりテレビ」その2・刀 |
戦前の目黒家・東京 | 生年月日はいつ? | 映画界復帰についての推測 |
でも、やっぱり先輩の前では緊張? | 素浪人シリーズの終わりと芸能界引退の理由 | 引っ越しマニア |
松方さんが語る思い出 | 「怪談 お岩の亡霊」の直助権兵衛 | 松竹時代に見抜かれていたコメディー資質 |
ご自身が語る人生 | 大好きな釣りの時も、さすがプロ! | 芸名の由来 |
クールな品川さん | 右太衛門さん親子とこのちゃん親子 | 愛弟子・阿波地大輔さんのお話 |
「いつみても波瀾万丈」での目黒さんのお話 | 目黒さんの著書の後書き「オヤジの弁」 | 松方さんインタビュー(「星にスイングすれば」より) |
「松方弘樹いいたい放談」より | 上原げんとさんと松方さんと五木ひろしさんと | 「ぶらり途中下車の旅」で目黒さんのお話 |
親父は厳しかった | 松方さん目黒さんの思い出ばなしなど1〜8 | |
「思い出ばなし2」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。) | ||
ちょっと話しにくいこと | 厳しい! | 釣り堀の名は「釣り天国」 |
殺陣のうまいのは | 品川さんが語られた思い出 | 目黒さんとの初共演 |
目黒さん出演の「ごきげんよう」 | 迫真の演技は本当に痛かった! | 川野知介さん&小指のツメのこと |
「我が人生に乾杯!」での松方さんのお話 | 品川さんにとっての半次は | 小西博之さんのお話 |
十兵衛役目黒さんの決意 | 大都時代の近衛邸と撮影所 | 「俺は用心棒」ゲスト出演の経緯 |
目黒さんの十兵衛衣装、「月影兵庫」最高視聴率、「ローニンサムライ」、松方さんの殺陣評 | 誰が一番殺陣が上手いと思われますか?の問いに | |
映画界復帰作品と松竹端役の頃 | 「浪漫工房」の松方さんインタビューで | 沢田音楽学院発表会(’04)での品川さんレポ |
二度の召集の意味 | 大都移籍直後、時代劇ポスターの中で紹介される | 丹下左膳をやらせたい俳優 |
錦之助さんとの関係 | 寄付に大枚だされてびっくり | 殺陣師・上野隆三さんのお話 |
京都映画祭・目黒さんと山内監督のトーク | 京都映画祭レポ2 | 京都映画祭レポ3 |
一時保存資料 | カラミ役に斬りかかる殺陣 | 大都映画の意義 |
柳生十兵衛の片目と殺陣について | 「博徒対テキ屋」の楽屋おち | このちゃん譲りの目黒さんの性格 |
にしすがも活動写真館レポ | 品川さん最新インタビュー | 金子吉延さんから伺ったお話 |
松方さんのコメント(歌謡番組ゲスト) | 小野監督の切ない思い出ばなし(1) | 小野監督の切ない思い出ばなし(2) |
「俺は用心棒」第一話のエピソード | 沢田音楽学院発表会(’05)での品川さんレポ | 福本清三さんのお話 |
「花山大吉」リメイクの複雑な思い | 近衛さんとこの坊や | S20年代ごろのご近所 |
「アニー」の楽屋で | 「天下太平」の原題 | 釣り堀 |
萩原流行さんが語ったこのちゃんの殺陣 | かなりの子ども好きだった | 「柳生武芸帳」への意気込み |
「大都映画撮影所物語」 | 母子のいいお話 | 満点!パパ |
東映歌舞伎「油小路の決闘」と長年の想い | 藤純子さんのお話 | 愛のキューピット?! |
「華麗なる一族」の猟銃は・・ | お茶目な一面 | デン助さんとの親交 |
『全員集合』のライバル | 長嶋番記者とこのちゃんの関係は? | 『覇剣―武蔵と柳生兵庫助―』縄田氏の解説 |
松方兵庫を演じるにあたって | チャンバラトリオ・山根さんのお話 | 近衛十四郎の弟子? |
親子で斬りまくる近衛・松方 | 京都市民映画祭の記事3つ | 猟犬がほしい |
「思い出ばなし3」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。) | ||
『城取り』の桝田利雄監督が語る近衛十四郎 | おからと言えば・・・ | 席放浪記(色川武大著)』より |
「ぴったんこカン★カン」の松方さん | 「テレビ探偵団」の朝潮関 | 森田新さんインタビュー |
「わが街 わが友」より | 「戦国の剣豪」上映会レポ | いろんな写真のお話 |
近衛・松方対談 | ある夜の品川隆二 | 剣聖小川金之助とこのちゃん |
殺陣の工夫 | 「ぶらり途中下車の旅」その2 | 骨の髄まで剣豪だった |
殺陣師 | 伏見の釣堀で | 「意外に評価が低い近衛十四郎の実力」 |
抜き打ちタイムNO.1 | 病後に出た味 | 3代つながった「君を信ず」 |
「一場の夢・・・」より | 「東京人」より | 「月影」放送時の品川さんインタビュー |
松方さんの座長公演時のケガ | 少年の思いは・・ | 星を喰った男 |
別冊近代映画「ひばり捕物帖 折鶴駕籠特集号」 | 福本清三さんインタビュー | かなわぬ夢 |
水の江瀧子さんの訃報で | 「開運なんでも鑑定団」に出た刀 | 素浪人シリーズの影響 |
目黒さん親子インタビュー | 北島三郎公演(’10・6〜7)で | 松方さんの楽屋の写真 |
「十三人の刺客」の松方さんは | 品川隆二さんトークショー | 目黒祐樹さんトークショー |
松方さんの額の皺 | 北沢典子さんトークショー | 上野隆三さんトークショー |
もうひとつの「浪人独り旅」 | 「超近現代史3」で | 清水一角と柳生十兵衛評 |
実現しなかった近藤勇役 | ディープピープル「時代劇をいろどる殺陣」 | 「ごごばん!」でのお話 |
テレビ時代劇60年の軌跡 | 高田宏治先生トークショー | 生まれ故郷西新町の今昔 |
「思い出ばなし4」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。) | ||
近衛十四郎逝去報道と忘れられない殺陣 | 面影を求めて | 「アフタヌーンショー」の葬儀レポート |
知らされなかった訃報 | かつての同僚、水島道太郎さんのコメント | 松方弘樹さんのお話 |
葬儀の日は仕事を休んで | 高田浩吉さんのお話 | 週刊各誌の訃報記事 |
新聞各紙の訃報記事 | お墓と天国池のこと | |
「思い出ばなし5」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。) | ||
大宅壮一のおしゃべり道中 | 近衛十四郎一座のころ | 「十兵衛への愛着」 |
「親の私が言うのもおかしいけれど」 | 松竹時代のインタビュー | 「喧嘩も我が青春のスポーツ」 |
ちょっと遠慮がち?な座談会 | 松方さんデビュー当時の話題、2つ | 素浪人の頃 |
ご夫婦の歴史 | 写真記事4つ | 「スタジオパークからこんにちは」目黒さんのお話 |
「落語時代Vol.2]の品川さん | オニワバン!(時専ch)で | ご近所の品川さん |
「スタジオパークからこんにちは」の松方さんのお話 | 甦る!チャンバラ映画 永遠の時代劇スター名場面集 | ”剣豪”近衛十四郎の子弟愛 |
近衛邸を垣間見る写真記事 | 「時代劇まつりin巣鴨」 | 趣味も豪快だった |
小野監督のこと | 東映のシステム | 殺陣についての自負 |
スタッフから付き人へ、そして俳優へ | 「スタジオパークからこんにちわ」のはなさんのお話 | レジェンドトークなど |
大吉・半次の声帯模写 | 近衛邸を訪ねる | 小説「素浪人 月影兵庫」のあとがき |
「時代劇オニワバン」品川さんインタビュー | 京都映画祭レポ(2015年) | 「市川、近衛のデビュー時代」より |
「近代映画」の松方さんの記事より | 「時代劇は死なず・・」でのこのちゃん評 | 釣り堀・天国での記念写真 |
「ファミリーヒストリー」 | 「ザ・インタビュー」 | 「徹子の部屋」(2017年6月) |
『マキノ雅裕の映画界内緒ばなし』 | 「ザ・ドキュメンタリー〜松方弘樹」 | ラジオ深夜便(2018年3月) |
ラジオ深夜便(2018年6月) | 「徹子の部屋」での目黒さんのお話 | 居合のプロも認める! |
目黒家の歴史 | 工藤堅太郎さんからの思い出ばなし | 三島ゆり子さんインタビュー |
近衛十四郎逝去報道と忘れられない殺陣
私はテレビではっきり見ました。詳細はおぼえておりませんが私が17歳の時です。写真はどの番組のものかは判りませんが刀を構えた素浪人姿でした。私自身、近衛の放送は花山が最後でしたので死去の報道の節は過去の人になってはおりましたが・・・。 ただ、近衛に関しては花山以降でも毎年春の確定申告のニュースでは芸能人部門でいつもトップの高額所得者でしたので必ずニュースで見れたものでした。(焼津の半ちゃんさま 2002年2月19日) 颯爽と月影兵庫としてブラウン管に登場した時が50歳。遅咲きの花でしたが、テレビ成功組の第一人者(時代劇では)だと思います。 そして花山終了後杉良太郎?主演の時代劇(番組は不明)で見たゲストの近衛が私にとって最後の姿でした。(天下、勘兵衛は知らなかったので)なんと、この時は悪いやくざの用心棒。ヅラも刀も近衛そのものでしたがあっさり一刀で斬られてしまいました。 それを見た私は「おまえみたいなペーぺーに斬られる旦那とちちゃうわ」と思わずテレビに向かって叫んでいたのを今でも覚えております。 没後25年。月影花山世代の私もすでに中年の親父ですが未だにあの豪快な殺陣は忘れられません。 やはり近衛は偉大な役者なのですね。(焼津の半ちゃんさま 2002年3月1日) 面影を求めて 近衛が亡くなったときは、ほんと寂しかったです。 今でも当時の新聞での報道を、かすかに覚えています・・・。確か、奥さんとの愛にからめた報道をされていたような。 松方さんをテレビで見るたびに、近衛の顔の面影を探してしまうことがあります。よく見ると、似てるんですよねえ・・・。 松方や目黒を見かけるたびに、近衛の面影を探してしまう見方をするのは、私だけ? (タンバリンマンさま 2002年2月18日) 身内のように感じた死の衝撃、「アフタヌーンショー」の葬儀レポート 今から26年前に私が直面した、近衛十四郎との別れをお話しさせていただこうとおもいます。 私が高等学校を卒業して2ヶ月と少し立った5月24日の新聞の夕刊で近衛十四郎の訃報に接したのですが、そのときはあまりのショックで新聞を両手に広げてもったまま「死んじゃった、死んじゃった」とぶつぶついいながら、ただ居間のテーブルの周りをぐるぐる歩き回っていたことをおぼえています。 そして、その葬儀の模様をテレビで放映したのは私が知る限り唯一テレ朝から放送されていた「アフタヌーンショー」という番組だけだったと記憶します。女性アシスタントによって「日本一、殺陣のうまかった時代劇スター」と紹介されたあと「素浪人花山大吉」での立ち回りシーンが流され、梨本勝氏によってその芸歴が語られこのあとにたぶん録画だったと思いますが、葬儀の模様が放映されたのです。 そぼ降る雨に濡れる、市川右太衛門、石原裕次郎から送られた花輪がテレビ画面いっぱいに大写しにされ、嫋嫋と読経が流れる粛然とした雰囲気のなか、棺の中の近衛十四郎の唇を酒で湿らせる松方弘樹、目黒祐樹の表情、そして、あの恐ろしく柄の長い近衛十四郎の愛刀が棺に収められる模様を粛々とレポートする女性リポーターの声。最後に出棺は愛弟子の阿波地大輔をはじめとする東映剣会のメンバーによっておこなわれました。 私と近衛十四郎のつきあいは、小学生の時にはじめて見たテレビドラマ「素浪人月影兵庫」から遺作となった「徳川三国志」までのわずか9年足らずでしたが、テレビドラマと並行する形で主役、脇役に関わらず近衛十四郎が出演している戦後の東映、松竹の映画をテレビで月に最低でも2本は見ることができたので、ほとんど近衛十四郎と接していると言う状態で、その死に関してもまさに身内との別れのような気がして1週間ほどは魂が抜けたような状態が続き、その後は近衛十四郎の記事が掲載されている女性週刊誌を買い漁ることに執念を燃やし30代の半ばまで機を逸することなく劇場で上映される近衛十四郎が出演している映画を追いかけ続け、今では戦後の作品に限り未見のものは東映の3作品だけという、まさに近衛十四郎信者になってしまったのです。 (三四郎さま 2002年6月10日) 知らされなかった訃報 私がこのちゃんの死を知ったのは、亡くなって3ヶ月近くも立ってからだったんですよ。 忘れもしない、中3の夏休み、久しぶりに母方の親戚&祖母とうちの親子3人で会ったときのことです。私と同じこのちゃんファンの祖母に会ったので、このちゃんのこと、話題にしたところ、祖母が「だけど、あの人、もう亡くなったでしょう?」と言うではないですか!! 私はびっくりして、両親に確かめたら、こんちゃんの死をお前が知ったら泣くだろうと思って言わなかったんだ・・と言うのです。・・ショックでした。 で、やっぱりその晩泣きました。だけど、こうして祖母に会わなかったら私は延々とこのちゃんの死を知らずに過ごしていたんでしょうかね〜。 私の年代では、「月影兵庫」を知っている人はあまりいないんですよ。何せ幼稚園児でしたからね。だから学校なんかでも話題になることはなかったです。亡くなったことを知ってから級友に2,3訊いてみましたが、クラスでたった一人だけ、このちゃんのこと知っているという子がいて少し救われた記憶があります。 私は幼かったこともあり、TVで放映された映画は両親と見たりしてましたが、脇役であったり最後死んでしまったりすると悲しいので、まともに見てないのですよ。死にそうになると父が「さあ、もうこの辺でやめておこうか・・」ってチャンネルをかえちゃうんです。 わたしのこのちゃんのイメージは「絶対死なない強い素浪人」なんです。 (ひろちゃんさま 2002年6月11日) かつての同僚、水島道太郎さんのコメント たしか近衛十四郎さんの訃報を告げる新聞記事(スポーツ新聞の芸能欄?)で、水島道太郎さんの話として、『・・・昨晩も深夜放送で彼の殺陣を見て、相変わらずうまいもんだと思ったばかりだった・・・』的なコメントを残されていたような曖昧な記憶があります。 (相談屋さま 2002年11月3日) 松方弘樹さんのお話 「いつ笑み!(いつでも笑みを!)」(フジ系/関西系番組)で、松方弘樹が出演し、近衛十四郎のエピソードを、写真を交えて紹介していました。 近衛が厳格で、近寄り難かった父親であったこと・・・松方が母親に離婚を勧めたこと、逆に母になだめられたとも言ってました。(再現ドラマです)母親が亡くなってから、10ヵ月で近衛も逝ってしまったこと・・・ 妻に先立たれた近衛は、大変嗚咽していたこと、「やはり母を愛していたんだな!」と松方が感じたこと・・・ そして、それから断っていた酒を浴びるようになったこと、そしてすぐに逝ってしまったこと・・・ デビューした松方と共演した時、いざ本番になったら鬼気迫る形相になった父に、怯んだこと・・・ そして、真から父親を本当の役者として尊敬していったこと・・・と、まあこんなところです。 近衛が若く、赤ん坊の松方を抱いている写真など、初めて見ました。 (ZAPOさま 2003年3月15日) 葬儀の日は仕事を休んで わたしは近衛ファミリーのファンです。ここで書くのは心苦しいのですが、一番好きなのは弘樹なのですが、十四郎様には弘樹にはない「男くささというか、男らしさ」があり、大好きです。 子育てのとき約10年ばかりブランクありますが、結婚前は近衛ファミリーの番組はできるだけ見ていました。 十四郎様のお葬式も仕事休んで東京から京都へ行きました。 十四郎様の本葬は77年6月17日(?)岡崎別院でおこなわれました。(中村半次郎さま 2003年6月29日) 高田浩吉さんのお話(「週刊女性」より) 「訃報を聞いて、大好きな釣りに酒で……と思うと、もう胸が熱くなってしまって……」と、高田浩吉は語る。 「松竹時代に『りんどう鴉』という映画の撮影で、松原湖へロケに行ったことがあるんです。その時出番の少なかった彼は、初めて松原湖で釣りをしたんで す。それ以来釣り気違いみたいになってね。また酒が強くてね、その頃から毎晩一本は空にしていました」 (大地丙太郎監督 2005年7月28日) 週刊各誌の訃報記事 (「週刊女性」より) 「菊の花に包まれた近衛十四郎の顔は、まるで眠っているように安らかだった。・・(中略)・・父の遺体を前に、松方弘樹、目黒祐樹の兄弟は、ウィスキーのジョニ黒を飲み交わした。・・(中略)・・やがて、出棺される父の遺体に、松方も目黒もやさしくいつくしむように酒をそそぐ、最後の一滴まで・・。・・(中略)・・ 近衛十四郎が倒れたのは5月20日のことだった。今月の3月20日に、長男の松方弘樹と一千万円ずつ出資してオープンしたばかりの、京都・亀岡市の釣り堀『天国』で、いつものようにヘラブナ釣りを楽しんでいたとき、突然、頭痛を訴えたのである。・・(中略)・・ 「わたしは、妻に恵まれました。妻としても母親としても最高で、わたしは他人の何倍も幸せでしたよ」生前親しい人によくそう語っていただけに、その八重子夫人を胃ガンで失って以来、近衛十四郎は好きな釣りと酒に明け暮れていた。・・(中略)・・「典型的な亭主関白でしたね。でも、他人の前ではそう振る舞っても、きっと奥さんには易しいひとだったのでしょう。亭主関白になれるのも、奥さんへの愛があったからこそですよ(宮川プロデューサー談)」・・(中略)・・ 5月22日に昏睡状態となった彼は、ついに意識が戻らないまま永眠した。・・(中略)・・思わず人を包み込むようなあの豪放な笑顔をたたえた遺影の前には、釣り好きの近衛十四郎が生前に使っていたヘラザオが置かれていた。池に面した十畳の近衛十四郎の部屋で、通夜が営まれた。・・(中略)・・「糖尿病だったから、血管がひどくもろかったんです。次々に血管がブツン、ブツンときれていったらしい・・」松方は絶句してしまった。・・(中略)・・「釣り堀ができて2ヶ月というものは、父はずーっと行ったきりで、その間自宅には5日ぐらいしか帰ってこなかった。・・(中略)・・この2ヶ月はむちゃくちゃに飲んでいたらしいんだ・・・」・・(中略)・・そういえば、八重子夫人が亡くなる前に、近衛十四郎は一度倒れている。そのとき医者から「あなたの心臓は100までも生きられる心臓やけど、今度倒れたら生命に関わる」と宣告され、厳しく酒を戒められていた。・・(中略)・・ 舞台は松方弘樹と共演した一昨年の梅田コマが最後で、テレビは昨年の日本テレビ『あがり一丁』にゲスト出演して、松方や目黒と親子共演したのが最後となった。・・(中略)・・「外見はとても豪放に見えるけれど、ほんとうは神経の細やかな人でした。息子さんといっしょのときは、親子というより俳優同士という感じで、いつも芝居の話をしていました。殺陣を見ると、弘樹ちゃんはよう似てますよね」”素浪人シリーズ”でずっと相手役をやってきた品川隆二は、そんな言葉で亡き”おやじ”をしのぶ。松方や目黒にとっても、近衛十四郎は怖い親父であったようだ。「なんどかいっしょに共演し、立ち回りをしましたけど、とにかく迫力があって、怖かった(松方)」 そんな近衛十四郎も、仕事を離れてからは、すっかりやさしいオヤジになってしまった。とくに、孫に対しては、このうえないやさしいおじいちゃんだったようだ。「孫に会いに行くときは、こんどはどんなみやげにしようか、それで一番悩むよなんていいながら、よく東京へ出てきてくれました。」・・(中略、いつ上の”高田浩吉さんのお話”が入る)・・仕事が終わると、週に一度とか月に一度は必ず飲む会か釣りの会を開いて、スタッフや共演者の労をねぎらったというその人柄を、惜しむ声は多い。密葬の行われた5月25日、主を失った京都・亀岡の釣り堀『天国』には、”本日臨時休業”の札が寂しくかかっていた。しかし、その横に、一枚の張り紙があった。≪ただし釣りたい方は、どうぞご自由に釣ってください≫生前の近衛十四郎の、あたたかい人柄をしのぼせる張り紙であった。父が好きだった釣りの心を思いやって、松方弘樹と目黒祐樹の二人が書いたものであろう。何よりの供養であった。 (「週間平凡」より) ・・(前略、上の記事と同じような内容)・・近衛十四郎さんが倒れたのは5月20日の夕方4時頃である。場所は京都府亀岡市大井町にある釣り堀「天国」(通称”天国池”)・・(中略)・・200人ほど収容できる釣り堀で盛況だったが、釣りキチの彼はここで経営にあたるかたわら、仕事のない日にはみずから釣りを楽しんでいたのである。たまたまこの日も彼は息子と親子二人で静かな池の水面に釣り糸をたれていた。「ちょっと気分が悪い!」突然そういって、その場にうずくまった。すぐ部屋に運んで寝かせ、救急車が呼ばれた。・・(中略)・・昏々と眠り続けた彼がめをさましたのは明け方近くだった。「なんでこんなところに寝かせて置くんだ」「セブンスターをとってくれ」そんなことをいいだすほど意識ははっきりしていた。ただ脳出血のため左半身は不随。「つぎつぎと脳の血管が切れるような状態」(松方)で、血圧計は260を示していた。・・(中略)・・22日の夜8時頃から、いよいよ昏睡状態に陥る。だが、そのまままだしばらくはもちそうだった。・・(中略)・・父親の様態が急変したのはその(=23日、ご兄弟が「まだ大丈夫」と食事にでた)2時間後の10時頃から。そして24日午前1時55分、ついに近衛十四郎さんは63年の生涯を閉じたのである。朝5時過ぎ、2人の息子に守られて自宅に帰った。 その晩7時半からしめやかに通夜が営まれた。北山杉に囲まれた600坪の豪邸に8畳の離れがある、生前、近衛さんが一番好きだったこの部屋へ、友人や知人が続々と詰めかけた。 ≪無侶院釋重道≫(戒名)となった近衛十四郎さんの大きな遺影が飾られ、市川右太衛門さん、片岡千恵蔵さん、北大路欣也・・・などから贈られた盛花が並ぶ。・・(中略)・・ 「母が亡くなる前に血圧で倒れて、今度倒れたらダメだとわかっていたのに・・。血圧と糖尿を治すために、第一線を退いて、”写されすぎたから、もう仕事はいやだ、のんびりしたい”といってたんだが・・」松方はそういって悔しがった。・・(中略)・・ 「28歳で結婚したオヤジは、”男は28まえに結婚するのは早すぎるよ”といってたけど、ぼくが28すぎて結婚しないのを見ても、そこは男同士、なんにもいわなかった」・・(中略)・・ 撮影所長の高岩淡さんも故人を偲んでこう話した。「近衛さんは腰の坐った、豪放磊落で気さくな人でした。そのいい性格がそのまま弘樹ちゃんに移っている。苦労して苦労して映画界に育っただけに、人間味があると同時に、厳しい人でした。昔から大変、愛妻家だっただけに、去年奥さんを亡くしたのがよほどショックだったんでしょう。奥さんが支えだったのに・・」とそのまま絶句した。・・(中略、経歴紹介)・・ だが、47〜48年頃、それまで酷使してきた体にようやくガタがきはじめた。糖尿病のため『素浪人花山大吉』の撮影中倒れると言うことがあったのである。そして高血圧。これを一番心配したのが八重子さんだった。「彼は一升酒でした。若い頃はビール2ダースぐらい飲みましたね。いちど、800CCの大ジョッキで20杯以上飲んだことがあるんです。だけど酒が体に悪いといわれると、あれだけ好きだった酒を一時止めてたんですよ。亡くなった奥さんがそのことを一番心配するでしょう。奥さんに心配かけるのは近衛さんにはつらかったんでしょうね、じっと耐えていたんです」(東映関係者) だが皮肉なものだ。夫の体を案じていた八重子さん自身の体が、実はこのとき、ガンにむしばまれていたのである。そして去年の7月25日、八重子さんは夫と息子に看取られながら息を引き取った。このとき近衛さんが息子たちよりも憔悴しきっていた姿がいまも目に浮かぶ。自分の病気と闘う気も生きるはりも、八重子夫人がいたからこそ。その支えがはずされて近衛十四郎さんは突然重心をうしなったのだ。彼がそれまでの節制を放棄し、人が変わったように酒を飲みだしたのはそれからである。・・(中略)・・ 若い者と飲んでは釣り糸をたれ、ヘラブナを釣っては飲むという自在の人生・・・しかし近衛十四郎さんの心中は、はたが見るほど悠々自適ではなかったに違いない。・・(中略)・・ 5月25日の正午から自宅で密葬が行われた。家の前に200人ばかりの人垣ができる。近所の主婦らしい女性たちのささやく声が耳に入った。「近衛さんは酒を心中しはったんや」「奥さんが去年、まだ生きてはるころは、よく付近を赤い派手なシャツを着て歩いている十四郎さんを目にしたことがありました。お出かけは奥さんといつもいっしょ、いいご夫婦だなあと思いました」門内に弔問客がつぎつぎと消えた。『素浪人』シリーズでいいコンビを組んだ品川隆二や加賀邦男、水島道太郎、吉田義夫と言った顔も見える。 いよいよ出棺というとき、最後の別れが行われた。棺の中には菊の花がまき散らされ、その間から故人ゆかりの品々が見える。ヘラザオ、浮き、日本刀一振り。愛用の眼鏡が3つ、セブンスターが10箱ほど、頭や手や足もとに入れられた。そのとき、松方弘樹がジョニ赤をぬいて父親の唇にひたしてやった。残りを自分と弟で飲んではまた父親の唇へ。残り少なくなったウィスキーを今度はそっと亡父の顔にかけてやった。 (大地丙太郎監督 2005年8月15日)) (「週刊明星」’77年6月通号976より) 「父は母の死が相当こたえたらしくて、めっきり元気がなくなってたんです。酒が好きで、東京の僕の家に来ても、ソファに寝そべって飲んでいました。飲ませるのが親孝行とわかっていても、できるだけセーブさせてたんです。この春にはボクと共同出資で京都の亀岡に釣り堀”天国”を作って、そこには家も立てて釣り三昧の毎日を送ってたんだ。ボクもテレビ『人形佐七』の合間を見ては、」つきあうようにしていたんです。」と松方。二人が幼い頃は旅から旅の不遇時代で、夫の不在期間兄弟を育てたのが八重さんだった。・・・(そしてお二人が独り立ちして悠々自適の生活に入ろうとした矢先に八重さんがなくなってしまった)だけに、心理的な衝撃は強かったに違いない。「20日に倒れて入院したときは言葉を喋れてたらしいんだが、2日目から悪化して昏睡状態になり、ついに・・」と目黒。 酒をのむときも釣りをしている時も、人気を博していたTVドラマ『素浪人・月影兵庫』のように豪快無比だったという。「好きな釣り場で倒れたのがせめてもの慰めです」ところで、八重さんの死後、近衛は松方に「京都の家に引っ越してこい」とさかんにいっていたという。・・・(中略)・・・晩年の近衛は、松方とはウィスキーのコマーシャルで、また目黒とはTV『花山大吉(いただき勘兵衛旅を行くの間違い)』で共演した。それぞれの画面で息子と並んで目を細めている姿は見る人々の微笑を誘ったものだった。大木が倒れるように、また一人の老優が逝った。(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま) (「週刊読売」’77年・6・11号より) 近衛十四郎(本名 目黒寅一)が脳出血のため急死した。まだ61歳だった。 自分で経営している釣り堀「天国」にへら鮒釣りに息、竿を持ったが、にわかの頭痛で近くの南丹病院に運ばれたが、意識不明のまま重体となり、24日午前1時55分、帰らぬ人となった。・・・(経歴一部略)・・・東映の路線変更で、内田吐夢、伊藤大輔、田坂具隆など巨匠と呼ばれる監督を使わぬこと、時代劇製作中止になってからは、「総長への道」「暴力団再武装」などのやくざ映画にも出たが、水に合わず退社、フリーとなる。長男の松方弘樹が第二東映のスターとして迎えられ東京の東映で北大路欣也と共に売り出されていたので、父親としては東映を離れることを悩んだのだろうが、役者としての近衛十四郎には耐えられなかったのだろう。 フリーになってからの近衛は、年齢とともに演技にも幅が出て、大器晩成を思わせた。テレビに進出した彼は十八番の「柳生武芸帳」で素晴らしい殺陣を見せ、「素浪人月影兵庫」を1年間、更に続編を一年後の42年1月から43年の12月までとったほか、「素浪人花山大吉」「素浪人天下太平」「いずれもNET時代のテレビ朝日)と、すっかり素浪人ものシリーズで茶の間の根強い人気を得た。・・・(実生活では柿が大嫌いという話)・・・親に似て息子の弘樹も祐樹もメッポウ酒に強い。コマーシャルに親子で共演した時の近衛と弘樹のうれしそうな顔は忘れられない。「徳川三国志」では親子三人が共演、時代劇「あがり一丁」(日本テレビ)では弘樹と共演と、最近の近衛十四郎は幸せそのものだったが、昨年の夏、八重子夫人に先立たれてから、かなり気落ちしたようだ。以前はロケーションには必ず釣竿を持参、日本各地の釣りを楽しんだものだが、二千万円を投資、五千平方メートルの山林にへら鮒専門の釣り堀を開いたのも、ロケの減少とともに、彼自身にも釣りの遠出がおっくうになってきてもいたのだろう。牡丹のようにふくよかで大らかだった夫人の後を追うように、約1年後に急死した近衛十四郎の晩年は、考えようによっては大変幸福であり、羨ましくさえ思われる。(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま) (「女性セブン」’77年6・16号より) 近衛十四郎(64歳)が倒れたのは、5月19日だった。この日、いつものように、京都の亀岡市大井町にあるつり池天国”でヘラブナ釣りを楽しんでいた。このつりぼりは近衛と長男の松方弘樹(34歳)が1000万円ずつ出資して今年の3月20日にオープンしたばかり。 昨年7月25日、愛妻・八重子さんを胃がんで失って以来(享年58歳)近衛十四郎にとってこのつりぼりがいちばんのお気に入りで、池の横に小屋を建て、最近ではほとんどここで寝泊まりするほどの気の入れようだった。 この日も、なじみの客たちと雑談を交わしながら、池をじっとみつめていたが、突然頭痛を訴え、昼頃から自室に入って横になった。 その夜はそのまま眠り込んだが、翌日近くの八木町、南丹病院へ入院した結果、脳出血と診断を受けた。・・(ご子息2人が駆け付ける)・・・だが、22日夜の8時ごろから意識がなくなり、昏睡状態にはいった。 病室を出た松方は青ざめた表情で、「おやじのいうことがおかしいんだ。たばこなんか絶対すっちゃいけないのに”お前ケントだったな、1本くれ”なんて・・・おふくろが死んでちょうど10か月。寂しがってたおやじを迎えにきたのかなあ」と肩を落としてため息をつく。二人の息子たちの必死の看病は4日間もつづいたが、ついに5月24日午前1時55分、再び意識をとりもどっすことなく近衛風史郎は息を引き取った。・・・(経歴略)・・・ (松方さんの思い出話、少し略してます)「 近衛家っていうのはね、徹底した亭主関白の信念があったんだなあ。なんに関しても男優先で、飯の順序はもちろん、風呂だって女が先に入るなんてとんでもないこと。まして男が外で遊んできても、絶対に飯を作って待っていなければならないようなところがあったんだ。 だから親父は、おふくろに頼りっぱなし。自分の下着がどこにはいっているのかなんてまったく知らないし、どこにかねがあるのかも知らないんじゃないかな。そんなわけで、おふくろがいなくなってからのおやじは、放心状態になっちゃって・・・。親不孝な息子だけど、俺もその時は気が気じゃなかった。釣り堀やったのも、親孝行のつもりなんだよ。1000万円も出すんだったら、もっともうかる商売もあるけどね。でもおやじが気に入ってくれて、泊り込んじゃうほどだからよっぽど楽しみだったんだろう。俺、ほっとしたというか、やっぱりうれしかったよ、ほんと・・」 若いころから酒が好きで、自宅で仕事仲間と毎晩のように酒宴を開いていた父親。17歳でデビューしたとき、松方の作品を見て、「やるじゃないか、うん、なかなかよかったぞ」とほめてくれた。 いつの間にか妊娠9か月になってしまった妻を初めて見せに行ったとき、「ばか者、一人前でもないくせに、絶対許さん」と頑固なまでに反対された。孫ができたとき、名前まで考えてきてくれて、子供のように喜んでくれた。 (亡くなる直前の取材、少し略してます) 近衛十四郎が倒れる4日前の5月15日に、記者は松方弘樹につれられてつり池天国”を訪れた。「春に始めたんだけど、お客さんがいっぱいでね、一度見に来てくれよ」という彼の言葉に誘われたわけだが、あいにく雨上がりとあって、日曜日は100人以上押し掛けるというこのつりぼりも、この日は、40人ほどの客で静かだった。 約300平方メートルの大きな池。その端で近衛十四郎はのんびりと糸を垂れていた。 「よっ、釣れるかい?」近づいた弘樹に向かって、ゆっくりと顔を上げ無言でにっこりとこたえる。髪を少し赤く染め、顔つやもいい。 エサをつける仕草は、やや年取った感じを受けるが、無心に浮きをみつめている目は、やはり往年の剣豪スターの面影を残して、鋭い。 「日曜日になると弘樹が朝から来てくれまして、それにいろんな仲間をつれてきて、私も退屈しないんですよ」 昼食後、自分の部屋へ記者を招き入れた近衛十四郎は、窓の下に見える池を眺めて笑った。 「弘樹も最近は親孝行になりましてねえ。私には昔から言葉をかけないほうですが、陰ではずいぶん心配してくれているようです。まあ、お互い年取ったんですかねえ、ははは」 日本茶をすすりながら、穏やかに笑った。俳優生活に入って45年目を迎え、めっきりしわはふえたが、その言葉はしっかりと、重い響きがある。昭和16年、大都映画時代、共演していた美人女優の八重子夫人と結婚し、翌年男の子が生まれた。この男の子が松方弘樹である。 「あのころはずいぶんつらかったですよ。所属していた大都映画が倒産して、大映に合併されたんです。私は大映の初めての作品・・・たしか新選組でしたか、それの土方歳三役をいただいたんですが、当時の映画界ってのは、片岡千恵蔵、市川右太右衛門、坂東妻三郎、林長二郎(長谷川和夫)など、すごい先輩ぞろい。こりゃ、いつまでたってもうだつが上がらないと思いましてね、すぐやめちゃったんです。それで自分で芝居の一座をくみました。70人ほどで組織しまして、”近衛十四郎一座”として全国をまわっていました。」・・(そのご、ストリップが流行、時代劇に代わる)・・「あの頃の生活はそりゃみじめなもんでしたね。ちょっとお金がたまると、一座のものが持ち逃げしたり・・・弘樹にもかわいそうな思いをさせました。いつもランニングにつぎはぎだらけの半ズボンでね。正月にもミカンさえ買ってやれないことも・・・でもね、あいつは子供の時はおとなしい子でね、芸能界にはいるなんてとても思えなかった。私が新聞記者を家に連れて帰ると、2階へ逃げてしまうんですから・・そんな弘樹が初めて映画に出たとき、私は始まる前からドキドキしてしまいましたよ。」 昔のことを話している近衛十四郎は、苦しかったこと楽しかったことをじっとかみしめるように言葉にした。 3人の孫を持ち、月に一回東京へ顔を見に行くのを楽しみにしていると聞いていたが、その話になると、ますます顔を崩して、うれしそうに続けた。 「いやあ、私が行くと孫たちは大変な喜びようでねえ。だからいつも、おみやげを考えるのが大変なですよ。孫たちもね、父親が仕事で今はほとんど京都にいるでしょ、かわいそうでね。まあ、役者の子供っていうのはいつも悲しいもんですけど・・・」 おそらく自分とその息子たちと、松方弘樹の子供たちのことをだぶらせて考えたのだろう。考え深げにため息をついた。 「私は妻に恵まれました。あれは、妻としても母親としても最高でした。私はほかの人の何倍も幸せでした。その妻を亡くした時、本当に寂しかった。でも息子たちがよく訪ねてくれるし、かわいい孫にもめぐまれまして…やはり私は幸せです。よく人から、もう一度映画に出てくださいといわれるんですが、糖尿病の後遺症で足元がふらつくんですよ。昔のファンの方たちの前に、みっともない姿を見せたくありません。だから、足が治るまでは、この生活が一番いいですよ。気楽ですからね、ははは」 明るいさわやかな笑顔だった。そしてそれが最後の笑顔になった。 (その話を聞いて松方さん)「今でも親父はすごい酒を飲んでいたんだよ。3日でウィスキーを1本あけていたんだよ。毎晩、ひとりでね、さびしかったんだろうな。毎週土曜には、俺の”人形佐七”を楽しみにしていたよ。あんなにうるさかった親父も、喜んでくれてたよ。」(2016年9月 資料ご提供・中村半次郎さま) 新聞各紙の訃報記事 (京都新聞’77年5月24日より) 「柳生一番勝負 無頼の谷」の十兵衛の写真とともに、他の新聞より大きめ。 ”剣豪スター”で知られる近衛十四郎さん(本名・目黒寅一)が、二十四日午前一時五十五分、脳出血のため京都府船井郡の南丹病院で亡くなった。六十三歳だった。新潟県出身。密葬は二十五日午後零時から自宅で。告別式は未定。喪主は長男浩樹氏(俳優松方弘樹)。 昭和九年の亜細亜映画「叫ぶ荒神山」(白井戦太郎監督)でデビュー、戦前は日活、大都映画などで特に悪役スターとして活躍、戦後は松竹、東映で時代劇スターとして数多くの作品に出演した。代表作に「浪人街」(昭和32年、マキノ雅弘監督)、「侍ニッポン」(同年、大曾根辰夫監督)や、一連の「柳生武芸帳」シリーズがあり、昭和四十年から四十八年までテレビ映画「素浪人」シリーズなどで茶の間でも多くのファンがいた。最近は一線を退き、趣味の釣りなどで自適の生活を送っていた。さる二十日、経営する亀岡市の釣堀で倒れ、二十二日から意識不明に陥っていた。映画俳優の松方弘樹、目黒祐樹兄弟の実父。 豪快なチャンバラ(映画評論家滝沢一氏の話):近衛さんは下積みが長かったが、努力の人だった。豪快で、腰の座ったチャンバラが特長で、主演に対抗した役柄に彼の本領が発揮された。年齢的にいってもまだまだ活躍して欲しかった人だったのに・・・。惜しい人をなくした。(2014年 資料ご提供・レンスキーさま) (読売新聞’77年5月24日より) 以下の4紙はすべて小さな顔写真いり) ”素浪人”近衛十四郎さん死去 俳優の近衛十四郎さん(本名・目黒寅一)は二十四日午前一時五十五分脳出血のため、京都府船井郡の南丹病院で死去した。六十一歳。新潟県長岡市出身。 戦前、亜細亜映画「血煙り荒神山」でデビュー、大都、大映、戦後松竹を経て東映に入った。映画では、「柳生十兵衛シリーズ」テレビでは「柳生武芸帳」シリーズに主演した十兵衛役者で、殺陣のうまさでは時代劇俳優での第一人者。またテレビの「素浪人月影兵庫」など”素浪人シリーズ”がある。息子の松方弘樹、目黒祐樹とともに俳優一家で有名。昨年夏、ヤイ夫人の死でショックを受け芸能界を退き、京都亀岡市で釣り堀を経営し自適の生活に入っていた。 密葬は二十五日正午から自宅で。告別式は未定。喪主は長男、目黒浩樹(松方弘樹)氏。 ”剣豪”近衛十四郎さんが死去 東映の時代劇スター近衛十四郎さん(本名・目黒寅一)は、二十四日午前一時五十五分、脳出血のため京都府船井郡の南丹病院で死去、六十三歳。新潟県出身、葬儀の日取りは未定。喪主は長男浩樹氏(俳優松方弘樹)。 新潟県の工業学校卒業後、二十一歳で市川右太衛門門下に入門、日活、大都映画に出演。戦後は松竹、東映で主に時代劇に出演「柳生武芸帳」などで時代劇スターの座を築いた。見事な殺陣を披露、自他共”剣豪”を任じた。 近衛十四郎氏(亡くなられた時間、場所などは略します) 新潟県出身、長岡工業卒業後、映画界入り。戦前から日活、大都映画、松竹と京都の時代劇映画とともに歩み三十五年からは東映に移籍、剣豪スターとして活躍した。主な主演映画は「柳生武芸帳」「十兵衛暗殺剣」など。四十年以降は「素浪人月影兵庫」「素浪人花山大吉」(NET)などの連続テレビ映画で人気を集めた。 昨年七月のヤイ夫人の死去以来芸能界から引退、好きな魚釣りに通うのが日課だった。二十日、自分の経営する京都府亀岡市内の釣堀で倒れ入院していた。(家族関係は略) 近衛十四郎氏(亡くなられた時間、場所などは略します)戦前から時代劇スターとして活躍、戦後はテレビ”素浪人もの”の軽妙な演技でも人気を呼んだ。代表作は映画の「柳生武芸帳」テレビの「素浪人月影兵庫」など。昭和四十八年のテレビ「いただき勘兵衛旅を行く」が最後の主演作品だった。(家族関係は略) お墓と天国池のこと ちなみに目黒家のお墓に 近衛十四郎さんではなくて 目黒寅一さんとして 眠っていらっしゃいます。先に行かれた 奥様も息子の 松方弘樹さんも 松方さんは 戒名が なくて 松方弘樹に なっております。ほんとは 目黒浩樹さん こうじゅさん もう 目黒浩樹さんとして 安らかに眠っているでしょうね(2018年10月 いずもっちさま) 近衛十四郎さんのお墓は 京都霊園ですよ。ぼだいじゅ地区に有ります。 近衛十四郎さんの大ファンでゆかりの地を巡っております。 天国池も先日行ってきました! 今は桟橋も外されてますが、近衛さんがここで釣りを楽しんでおられたんだなと見てまいりました! ストリートビュー航空写真で見てくださいね!京都府亀岡市大井町南金岐谷口 青谷池 天国池は山の麓にあります。池の近くに喫茶店があり、そこのマスターさんに当時のお話を伺うと、近衛さんは天国池がオープンしてから亡くなられるまで池のそばの小さな家で寝泊まりされてたそうです、ドーベルマン2匹を連れてよく散歩されてたそうです。それと少し言いにくいですがお妾さんとおられたそうです。 (たかしさまの剣士姿のお写真を拝見して)近衛さんを意識しました! 近衛さんと同じように7pのシークレットインヒール足袋を履いております(;^_^A 扮装の館でメークしてくださった方は昔から東映におられる方で、近衛さんは怖い方でしたよと言っておられました。(2018年10月 たかしさま) 前ページへ / 次ページへ / ホームへ |